96話
霧の中をさ迷いながら、ルキアはここは何処だろうと思った。
カルをかばって消滅したとき、ルキアは自分の死を強く感じた。
だからここは天に召される前の道なのかと脳裏をよぎったが、それにしては自分の意識がはっきりしているのが不思議だった。
そしてもう一つ、ルキアはなんとなくだが自分が迷子になっているような気がしたのだ。
何の道しるべもなく、ただ霧の中を漠然と歩き続けていて本当に大丈夫なのかという不安もあった。
それでも立ち止まっていたら背後から何か迫ってきそうで、ルキアは漠然と歩き続ける。
と、誰かに名前を呼ばれた気がして、ルキアは立ち止まった。
「誰…?」
目をこらし、誰かが現われるのかと、用心深く構える。
しかし周囲に気配はなく、ルキアは気のせいかと肩の力を抜く。
『ルキア…』
再び呼ばれ、ルキアは声の方を見るが、目の前に現れる気配はしない。
だが、立ち止まるたびに名を呼ばれ、来いと誘われているようで、ルキアは恐る恐る歩を進める。
こつりと足下が何かに当たり、ルキアは驚いて飛び退いた。
下を見ると、ルキアが知っている温室の石畳があり、霧でかすんでいたがずっと先まで続いているようだった。
「どうしてこんな所に……」
訝しがるルキアの耳にまたも声が聞こえ、どうやらこの石畳を進めと言っているようだった。
躊躇ったものの、他に行く当てのないルキアは、覚悟を決めて石畳の上を歩き出す。
しばらくすると霧が薄れていき、視界が徐々に開かれる。
「ここは……まさか……温室?」
けれどルキアの知っている温室とは似てはいたが、まだできたばかりの、新しい印象を受けた。
きちんと区画された花壇には手入れされた美しい花々と新鮮な土の香りが漂う。
石畳も綺麗にはめ込まれ、苔一つ生えていない。
どこの温室なのかと様子を探りながら歩みを進めていくと、四阿が見え始め、ルキアはその場に立ちつくした。
四阿の下に厚手の敷物が敷かれ、レイールに膝枕をされているアスターの姿があった。
その表情は穏やかで、アスターは愛しそうな眼差しをレイールに向けている。
見つめ返しているレイールの表情は見えなかったが、アスターと同じ表情をしていることは容易に想像がついた。
「ど……して」
かすれた声で呟く声が聞こえたのか、レイールの視線がルキアを捕らえた。
その瞬間、ルキアはレイールの中に吸い込まれる。
「どうした?」
レイールは微笑を浮べながら、アスターの頬に触れる。
「誰かが来たような気がして…」
「まさか。しばらく邪魔をするなと言っておいたから、来るわけないさ」
「……そうね」
「なんだ、私の言うことが信じられないのか?」
「そういうわけじゃないわ。だけど……貴方はとても忙しいし……ここでのんびりしていいのかしら…って」
「それはレイールも同じだろう? 婚儀の準備で、忙しいはずじゃないのか?」
「私は……アスターほど大変じゃないわ。ただ……」
「ただ?」
「……本当に私が王妃になってもいいのかって……相応しくないんじゃないかって」
「まだそんなことを言っているのか?」
アスターは素早く起き上がると、レイールの両肩を掴んで自分の方に向かせる。
「お前は王妃に相応しい……いや、俺にはレイールが必要なんだ」
真摯な表情で見つめるアスターを、レイールは喜びと悲しみが混じった表情で見返した。
「……わかってるわ。だけど……不安でしかたがないの。私が王妃になることを望んでいない人達は多いわ。私が王妃になるのは、アスターが王位を継がないと言ったから……しかたなく承諾しただけ。王女でもなく、オーク国にとって何のメリットもない私は、アスターの重荷になるだけなんじゃないかって……」
「そんなことはない。修道院で暮らしていたとはいえ、王女であることにかわりない。周りが何を言おうと関係ない。俺がお前を選んだのだから、もっと自信を持てレイール」
「アスター……」
「そして私が疲れたときは、たまにこうして癒してくれると嬉しいかな」
いたずらっぽい笑みを浮べ、アスターは再びレイールの膝の上に頭を乗せる。
「この話はもう終わりにして、違う話をしてくれないか」
「違う話って…?」
困惑するレイールを見上げながら、アスターは楽しげに笑う。
「王宮以外のことなら何でも」
レイールの髪をもてあそびながら話を促すアスターに、レイールは迷いながら口を開いた。
「そう…ね。もし……私とアスターが王家の生まれじゃなく、ただの人だったら、どんな人生を歩んでいたのだろうっ…て」
「王家ではなく、民衆の一人として生まれていたらってことか? うーん、私は城から外へは出たことはないから想像がつかないな。…それで?」
興味深そうに話の先をせがむアスターに、レイールの口元がほころぶ。
「そうね……アスターは宝石商を営んでいるの。ほら、アスターの趣味は鉱物収集じゃない。だからその能力を生かした職業なのよ。私も修道女ではなく、アスターの奥さんとして、家の切り盛りをしているのよ。一軒家に住んでて、近所では評判のいい夫婦で、アスターは仕事もできてとても女性にもてるの。だけど浮気なんかしないで、奥さん一筋なのよ。近所づきあいも良くって、ときどき喧嘩したり、お酒を飲んで酔っぱらって私に怒られたりするの。そして……子供が生まれて、家族が増えて、親子三人で泣いたり、怒ったり笑ったりしながら暮らせたらいいなって。……城のように侍女や豪華な食事なんてほど遠い生活だけど、とても幸せに満ち足りている……そんな生き方ができたらいいなって……」
「私は城で育ったからわからないが、きっと騒々しいんだろうな。楽しいときは声を上げて笑い、悲しいときは泣く……そんな風に素直に表情を表に出せたらいいのにな」
「アスター……」
「私は生まれたときから王族として育てられてきた。それはこれからも変わることもないし、次期国王になると決まった今、玉座を降りることは死ぬまでないだろう。そしてレイールも俺と同じで、窮屈な生活を強いられるだろう」
厳しい表情を浮べるアスターにレイールもまた悲しげな顔で頷く。
「ええ、わかっているわ。ただ私は…」
「だから、そなたの言ったことは次回叶えよう」
「え?」
困惑するレイールの頬に触れると、アスターは表情を緩めた。
「もし、生まれ変われることができて、再びそなたと出会うことができたなら、今言ったように生きていこう」
「アスター……そんなの無理よ。生まれ変わるなんて……」
「なんだ、修道女だったのに、生まれ変わりを信じないのか?」
「そうじゃないけど……同じ時代に生まれ変わる保証なんてどこにもないのに…」
「二人で一緒に生まれ変わると信じれば、できるに決まってるだろう」
「もう! たとえ一緒に生まれ変わったとしても、記憶まで残っているとは思えないわ。それに…」
「レイール…」
人差し指でレイールの唇を押さえると、やれやれといった様子でアスターは起き上がった。
「記憶うんぬんはどうでもいいんだ。次に生まれ変わったとき、お互いが何の束縛もなく出会うことができればいいと思ってる。ただの男女として一生を過ごすことができれば、もっと幸せだが、こればっかりはわからないから」
「アスター…」
「ただ一つだけ、約束する。もし生まれ変わることができたなら、必ずそなたを捜し出す。だから、レイールも約束してくれ。生まれ変わったら、私を捜すと」
「でも……」
「でも、はなしだ。ただはい、と言えばいい」
怒ったような顔で睨むアスターに、レイールは俯きかの泣くような声で返事をした。
「よし!」
納得したように頷くと、アスターはレイールを抱きしめた。
「これからそなたは王妃となり、大変なことや辛い目に遭うことが多いだろう。特に大臣達からの重圧は辛いだろうが、俺もできる限りお前を助けると約束する。だから私の側にいてほしい。そして次に生まれ変わったなら、そなたが描く夢のような生き方をしよう。今も、未来も、妻と望むのはそなただけだ」
改めて求婚され、レイールの目頭があつくなる。
「王妃……ではなく、妻…として…?」
「ああ。私にとって王妃は名目上にすぎない。国のために必要な存在というだけだ。だが、妻は違う。国など関係なく、ただ一人の大切な存在だ。私はそなたを王妃としてではなく、妻として迎えたい。……私の求婚を受けてくれるか、レイール?」
「……はい」
強くアスターを抱きしめ、涙に濡れた頬に幸せの笑みを浮べた。
「何があっても、ずっと貴方の側にいると約束するわ」
見つめ合う二人の眼差しが近づき、触れあう唇が誓いの印であるかのように触れあった。
「これが私達の約束なのよ、ルキア」
はっと我に戻ると、いつの間にかアスターの姿は消え、四阿の前で佇んでいるレイールがいた。
とっさに警戒するが、雰囲気が違うことにルキアは戸惑う。
禍々しいとほどの悪意を持ち、残酷な雰囲気を携えていたのと違い、弱々しく風が吹けば消えてしまいそうなほど儚げだった。
「あなた……レイール、なの?」
「ええ。貴方の知っているレイールは憎しみと悲しみによって生まれたもの。そして私は喜びと楽しい思い出を持ち続けるもの。私達は二つでレイールとして存在してるの」
「二つで一人ですって……でも私の身体を乗っ取ったとき、貴方の存在を感じなかったわ」
「それは……貴方が温室で彼女に乗っ取られたとき、私は切り離されてしまった。私がいては復讐の妨げになるから。それが幸か不幸か、私がいた場所に貴方を閉じこめることで、彼女は肉体を手に入れることができた。もし私がいたまま貴方を取り込んでしまったならば、魂も肉体も共に死んでしまっていたわ」
「そんな……だけど、けっきょく私はレイールに身体を奪われてしまったわ…」
項垂れるルキアに、レイールは首を振ると一歩近づいた。
「いいえ、貴方はまだ死んでいないわ。……後ろを見てご覧なさい。命の糸が見えるでしょう?」
言われた通り後ろを振り返ると、まるで尾のように足下から細く白い糸が、何処へともなく伸びていた。
「これが……命の糸」
「そう、この糸は貴方の身体の元まで続いているわ」
「……動けば切れてしまうほど弱々しいわ……本当に私の身体まで続いているの?」
「ええ、そうよ。細いのは貴方の肉体も魂も弱っているから。すぐに自分の身体に戻らなくては、本当に死んでしまうわ」
「身体に……もど…る?」
瞬間、ルキアの脳裏に怖ろしい出来事が襲いかかった。
カルに牙を剥き、殺そうと力を行使したレイール。
助けるためにレイールの力の前に出たときの、全身を貫く痛み、苦痛。
自分の意識がバラバラになるのを必死に掴みながら耐えたものの、もう一撃を与えられてルキアは全身を引き裂かれる激痛とともに意識を失ってしまった。
そして今こうしてレイールに呼ばれ、温室に留まっていたルキアに、再び肉体に戻れという。
「い…や。嫌よ! もうあんな痛みには耐えられない。無理よ……私にはもう、彼女を止める事なんてできないわ!」
その場にうずくまり、両手で顔を覆いながらルキアは激しく首を振る。
しばらく泣き続けるルキアを黙ってみていたレイールはそっと近づき、同じ目線にあわせるように膝をついた。
「無理強いはしないわ。ただ……このまま貴方がここに居続ければ、貴方は死ぬわ。もちろん肉体もね。貴方はそれでいいの? このままではアルクも死ぬわ。それでもいいの?」
「それは……!」
「今のレイールにはこの状態が好都合なの。意識を持つ魂を外して、肉体を自分の思うがままに扱うことができる。しかも今の貴方は彼女を殺すこともできない。……糸の細さからみて、そう長くは持たないことはも彼女はわかってる。このまま何もしなければ、貴方は婚儀までは生きながらえることができる。それでいいの?」
やさしく尋ねるレイールに、ルキアはきつい眼差しで睨みつけた。
「貴方は……ずるいわ。無理強いしないなんて言っておきながら、私が戻るような事ばかり口にする。そんなことを言われて私が……どんな気持ちかわかっているくせに!」
「残酷なことを言っているのは十分承知しているわ。貴方の言うとおり、戻ってほしいと願っている。だけど無理に戻すより、自分で決めた方がいいでしょう?」
「……私に何をさせたいの」
「私を受け入れて欲しいの」
「なんですって…!」
目蓋を見開くルキアに、レイールは落ち着いた表情で見返す。
「今のままでは、貴方が自分の身体に戻ろうとしてもレイールに拒絶されてしまうわ。そうしたら貴方にはなすすべがない。だから私と一つになり、想いと力のカケラを使って身体に戻るしか方法がないわ」
「そんな……そんなことをしたら私は……私の意識は消えてしまうんじゃ…」
「そうね……消えてしまうかもしれないし、消えないかもしれない。どうなるかわからないけれど、貴方の想いが私よりも強ければ…意識を保つことができるかもしれないわ」
「私の想い…?」
「そう、アルクに対する強い気持ち。そして自分の身体に強く戻りたいと願う気持ちが、貴方を導いてくれるわ」
「私は…」
逡巡するルキアに、レイールはゆっくりと手をさしのべる。
「気持ちが固まったならば、私の手を取って」
目蓋を閉じ、微動だにせず待ち続けるレイールの表情は、ルキアを受けいるような様子だった。
ルキアはその姿に不安と、恐怖の眼差しで凝視する。
もし、自分の意識が失われ、本当にレイールに飲み込まれてしまうのかと思うと、すぐにでもこの場から逃げ出してしまいたかった。
だけど……何処へ逃げるというのだろう。
逝くことも帰ることもできないまま、レイールがアルクの命を奪うのをただ黙って見ていることしかできないのはもっと嫌だった。
しかも自分の身体を使って、レイールが行おうとしていることが許せなかった。
「私は……負けないわ。たとえ私が消えてしまったとしても、必ずアルクを助けてみせる」
ルキアは握りしめた拳をゆっくりと開くと、覚悟を決めてレイールの手のひらに合わせた。
と、レイールの輪郭がぼやけ、霧となってルキアの中に入り込む。
一瞬暖かい何かに包まれたかと思いきや次の瞬間、無数の針のような痛みがルキアの全身に突き刺さる。
絶叫しながらルキアはその場に転げ回り、両手で身体を押さえながらバラバラになりそうな自分を抱きしめる。
それでも痛みはルキアの身体の内部に向かって、深く食い込んでくる。
肌に食い込むほど自らの身体を抱きしめ、なんとか痛みから逃れようと浅い息を繰り返す。
痛みで気が遠くなりそうなルキアに、微かにレイールの声が脳裏に囁く。
全ての力を抜いて、痛みに全てを委ねろ、と
そんなことは無理だと、ルキアは見えない相手に向かって首を振る。
だがそれすら見越していたかのように、今までよりも鋭い痛みがルキアの心臓にとどめとばかりに突き刺さる。
その瞬間ルキアは声にならない絶叫を上げ、力尽きたように意識を失った。
するとゆるゆるとルキアの輪郭は薄れ、風に吹かれたように流れて消えてしまった。