90話
「お久しぶりでございます、ルキア王女様」
商人の格好をした四十代半ばの女性が、レイールに向かって丁寧に挨拶をした。
「お前は……確かレクシュ、だったかしら?」
すぐにルキアの記憶を読み取り、レイールは親しみを込めた笑みを浮べた。
だがレクシュはルキアの変化をすぐに悟り、表情が強ばった。
「そうそう、確かテッサンから、三日後にお見えになると聞いたのだけれど、何の用かしら?」
皮肉めいた口調にレクシュはすぐに状況を把握し、いつもの人なつっこい笑みを浮べる。
「お約束のものを、お渡しに参りました」
「約束?」
「はい。ルキア様にも、とても深く関係するものでございます」
「……ムルガ」
「はい、ルキア様」
お茶を出していたムルガに、レイールは目線だけを向ける。
「少し席を外して」
「ですが…」
「何かあったらすぐ呼ぶわ」
「……わかりました」
冷たい口調で言い捨てられ、ムルガは憮然とした態度で部屋を出て行く。
ムルガが出て行ったのを確認するやいなや、レクシュの表情が一変し、厳しい眼差しをレイールに向ける。
「あの子はどうしたの」
「目の前にいるのではくて? ……お母さま」
「あの子はそんな冷たい眼差しを浮べたりしないわ…」
青ざめるレクシュに、レイールは楽しそうにくつくつと笑う。
「まだ生きているわよ。いいえ、違うわね。存在はしているわ、かろうじて、ね」
「……」
「私達の会話も聞こえているはずよ。だけど、何もできはしないわ」
「…どうやって身体を」
「さあ、それは私にもわからないわ。目が覚めたら入れ替わっていたんですもの。ルキア自ら私に身体を差し出したのでのではなくて? 私に勝てないと思って」
「あの子がそう簡単に屈するはずないわ」
「だとしても、関係ないわ。私は望みの器を手に入れた。あとは…」
「何をする気なの。娘を傷つけるなら、誰であろうと容赦しないわ」
「容赦しない、ですって?」
すうっと目を細め、レイールはくつりと笑う。
「それはこういうことかしら?」
ゆっくりと腕を伸ばし、折り曲げた人差し指をレクシュの腕に向かって軽く振った。
「…つっ!」
衣装が裂ける音と同時に鋭い痛みが走り、レクシュはうめき声を漏らしながら左腕を押さえる。
「これでもまだ私に、容赦しないだなんて言えるのかしら」
レイールは口元に指を添え、酷薄な笑みを浮べる。
レクシュは痛みを堪えた表情を浮べ、押さえた腕をそっと放すと、手の平に赤いシミが付着していた。
「貴方は生前……こんな力はなかったはず…」
「私はもう、生きていないもの。自分でも驚いているのよ。何故こんな力が手に入ったのか。……ふふ、きっと死んだ時に身についたのかも。神が私を憐れんで」
「憐れむですって。ならば私はその神を恨むわ。貴方を今になって甦らせたことに」
「甦る? いいえ、私の魂は今も昔もここに留まり続けていたの。ただ適性する器が見つからなかっただけ。貴方が私の過去を調べていたことだって、前から知っていたわ。ルキアは心を読めないようにしていたけれど、オーク国周辺はすでに私の領域なの。私の知らない事なんて何もないの。それに天に召されることなんて望んでない。欲しいものはただ一つ、あの人の魂だけ」
「そんなこと……不可能だわ」
「あら、そうかしら? 現に私はここに存在している。ならば、アスターだって甦るのは不可能じゃないわ」
「貴方と彼は違うわ。……たとえ可能だとしても、彼は自分の子孫の命を使って甦ろうと思っているのかしら?」
問いただすように尋ねるレクシュに、レイールは侮蔑を込めた笑みを向ける。
「思っているに決まっているわ。だって私達は約束したのだもの。彼がやぶるはずなどないわ」
「ならば何故、貴方の愛しいアスター陛下は、貴方のようにアルク陛下の身体を使って甦ろうとしないの? …とてもそう望んでいるようには見えないわ」
「…お黙り」
「!」
次の瞬間、レクシュの腹部に殴られたように痛みが走る。
青ざめてその場にうずくまるレクシュに、凍てつく視線を投げつける。
「……彼と私は特別なの。彼だけが孤独だった私を救い、ともに歩むと誓ってくれた。なのに……信じていた親友に裏切られ、その血が混じった子孫がオーク国を治めている! そんなことは、私は認めないわ!」
憎しみを募らせながら吐き捨てるレイールを、レクシュは苦悶に満ちた顔で凝視する。
「だから私は取り戻すの。あの、幸せだった時間に」
レイールは胸元に手を引き寄せると、レクシュに向かって刻印を見せつける。
「この胸の花が開花し終わったとき、私の望みが叶うの。これはアルクの命の花だから。ルキアの身体とアルクの魂は繋がっているのよ。誰もこれを断ち切る事なんてできないし、この身体を傷つければ、アルクも無事ではすまないわ。ふふっ、どんな小細工をしようと、私を止めることなどできないわ」
無慈悲な笑みを浮べ、レイールは衣装を整えると、悲痛な表情を浮べ声を張り上げた。
「ムルガ! 大変よ、すぐに来て!」
焦った声音と同時に奥に控えていたムルガが、慌てた様子で室内に入ってきた。
「どうかしましたか、ルキア様!」
「レクシュ殿が……薬草の調合途中で腕に……腕に怪我を負ってしまったの!」
涙ぐみながらムルガに助けを求めるその姿に、レクシュは一瞬何が起きたのかと呆然としてしまった。
「何を…」
口を開きかけたが、強い花の香りにレクシュは微かに顔をしかめた。
すると机の上に何もなかったはずなのに、どこからともなく調合道具や、薬草、そして怪我をした原因だと思われる小刀が転がっていた。
しかもレクシュのものであろう、少量の血がこびりついていた。
愕然とするレクシュだが、レイールは構わずムルガに怪我の詳細を話していた。
「私が頼んでいた薬を、レクシュ殿が目の前で調合してもらっていたの。だけど私があれこれ質問してしまって、それでレクシュ殿が怪我をしてしまったの。お願い、ムルガ。すぐにレクシュ殿を医師の元へ連れていって!」
「わかりました。レクシュ殿、すぐに薬師の元へご案内いたします」
「いえ…大丈夫で…」
「駄目よ。一人では手当はできないわ。それに……元はといえば私のせいですもの」
心配げな声を出しているものの、レイールの瞳にはこれ以上留まることを許さない、そう冷酷な拒絶がはっきりと現れていた。
レクシュはさっとレイールから視線を反らすように頭を下げると、ゆっくりと立ち上がった。
「では……お言葉に甘えさせていただきます。……ご用件はまた別の機会ということで…」
「ええ、そうね。私も時間があれば、お会いしたいわ」
笑顔で答えるレイールに軽く礼をし、レクシュはムルガに伴われ部屋を出る。
背中にレイールの視線を感じながら、レクシュは二度と自分の娘に会えることはないと、絶望が身体を支配していった。




