86話
「わかっています。それに、あたしは姫様に触れることはできません。そんなことをしたら余計に怪我をさせてしまうでしょう。だからムルガ様には今まで通り身の回りのお世話をしていただいて、あたしは彼女が残した痕跡を消していきます」
「そんなことしなくても……ムルガ殿も私が発作が出始めていることは言ってあるわ。だからカルがする必要なんて…」
「いいえ。ムルガ様はわかっているつもりかもしれませんが、きっと発作を目の当たりにすれば、姫様が発狂したようにしか見えないでしょう。そして陛下に、婚儀のことについて苦言するかもしれません」
「それでも…」
「それに! ムルガ様といえども、姫様の手当に精一杯で、とても部屋の掃除まで行き届かないはず。そうなると他の侍女達がするはずです。その時部屋の惨状を見た侍女達は、不安を覚えるかもしれません。そういうものはあっという間に城内に広がっていくものです。あと二週間で婚儀を控えている大事な時期に、不吉な噂は姫様にとっても、クローブ国にとっても絶対に避けなければならない事態です」
「……」
「心配しなくても、もうムルガ様にはあたしが身の回りの世話をすると、さっき言ってきましたから」
「何ですって…!」
青ざめるルキアを、カルは真剣な表情で見つめ返す。
「姫様の発作が起きた場合、二十四時間体制で看病をしなくてはならないことと、その時の対応の仕方をあたしは知っているので、夜間の看護をさせてほしいと頼んだんです。もちろん、緊急の場合はムルガ様を呼ぶと約束しました。ですからあたしが姫様の側にいるのは、夜だけです。日中は約束どおりムルガ様が姫様の身の回りをしますから、そんなに心配しないでくださ」
「どうしてなの、カル!」
遮るように叫ぶと、ルキアは苦痛に歪んだ顔でカルを見上げた。
「夜なんて……一番危険な時間に貴方が側にいるなんて、どういうことかわかっているの?」
「もちろんですわ、姫様」
「カルっ! …どうして……そこまでする必要があるの? あの日から……あなたは私に仕えてくれたわ…時には友として、叱ったり甘やかしたり普通の王女として扱ってくれた。私にはそれだけで十分なのに…」
涙に濡れた眼差しで見つめるルキアに、カルは側に駆け寄って抱きしめたい衝動を堪える。
かわりに拳を強く握りしめ、潤んだ瞳を浮べたまま微笑んだ。
「あたしがこうして生きていられるのは、庇護してくれたレクシュ様やシエル様。そして……すべてを国のために捧げる姫様を見て、ずっと側でお仕えしたいと思ったんです。あたしは…辛い現実から逃げ出した臆病者です。だから今度は逃げずに、姫様のお側にいたいんです。そのためならどんな辛いことにも耐えられます」
力強い言葉にルキアは、カルから視線を反らした。
「カル……私はそんなに……強い人間じゃないわ」
両手で自分の身体を抱きしめながら、ルキアは震える声で囁く。
「恐いのよ……私はきっとカルを追い詰めていくわ。そして何よりも……彼女があなたに対する憎しみが怖ろしい。その憎しみは本当に彼女だけのものなのか、それとも私自身も無意識に貴方を妬んでいるいるかと思うと……恐くて恐くてたまらない。それもあってカルを遠ざけたの。…私自身のためだけに」
「…構いません。姫様はご自分のことだけを考えてくださればいいんです。あたしはそうしたいから戻ってきたんです。姫様があたしを妬んでいたとしても、あたしの気持ちは変わりません。辛いときには遠慮なくあたしにぶつけてください。こう見えてもあたし、テッサンから護身術を習いましたし、精神的な部分だってあの頃に比べて、ずいぶん図太くなったんですよ。呪いさえ解ければ、すべて解決するんですから」
「……解けなかったら?」
暗い表情で見上げるルキアを、カルは笑顔で受け止めた。
「駄目だとしたら、姫様は諦められるんですか? 彼女の思惑にはまって、ただ流されるままに操られることをお望みなんですか?」
「いいえ! そんなこと望んでなんかいないわ。だけど……どんなにあがいても……私は…無力だわ。彼女に逆らえない」
震える両手を見おろしながら、ルキアは苦痛に顔を歪ませる。
「私が思っていた以上に、彼女の支配力が強いの。見てよ、この身体を。私が意識をなくしている間に、どこかへ行こうとしていたのよ。……凶華という種が私の奥底で根を張って、じわじわと私の身体を覆っていくこの感じ……。しかもアルクという命の養分を求めているの。そして胸に刻まれた花が……開花していく」
「あたしが助けます!」
カルはその場でひざまずき、ルキアに必死に訴える。
「あたしだけじゃありません。レクシュ様も、そしてアルク陛下もこの呪いを解くために全力を尽くしています。今、ここで姫様が諦めてしまったら、すべてが無駄になってしまいます。必ず……必ず呪いを解きましょう、姫様! それまでどうか……!」
「カル……」
「ですから本当に辛いときは、遠慮なくあたしにぶつけてください。それで少しでも姫様が楽になれるなら、あたしはどうなっても構いません。何があろうと、ずっと姫様の側におります」
「…あり…が…とう。そして……ごめんなさい」
頬をぬらしながら悲しげに笑うルキアの視線に耐えられず、カルはさっと立ち上がった。
「…では、寝室を片づけてきます。姫様も調合を続けてください」
「……ええ、そうね」
寝室へと消えるカルの後ろ姿を見送ってから、ルキアは机に並べられた薬をぼんやりと眺める。
取り寄せたあらゆる種類の薬草。
病を抑えるために集めたこれらは、呪いを押さえるために用意した物。
果たしてそれがどれほどの効果があるのかわからず、ルキアは漠然とした不安で乳鉢を手に取った。
薬草を潰しながら、ルキアは思っていた。
おそらく呪いは、薬草では効かないだろう。
ただし、肉体のほうには効果が高い。
身体が動けないようにすれば、ルキアが意識を失っている間でも、なんとかなるかもしれない。
しかし……。
「精神的な苦痛は覚悟しなくては……」
それに何処まで耐えられるかが、鍵となる。
「たぶん……精神力も彼女の方が強いわ」
長い年月が経てもなお、彼女の意志はとても強いのだから。