81話
……また着るなんて思わなかった。
心の中で呟き、カルは鏡に映っている自分の姿に嘆息する。
マラリスに着付けをしてもらった美しい衣装は、カルが捨てたはずの物だった。
かつては山のように持っていたし、着ることが当然だと思っていた。
しかし……今のカルは、貴族の衣装を着ることに抵抗がある。
侍女として生きると決めた服が、現在カルが選んだものなのだ。
借り物だと……そう自分に言い聞かせるが、どうにも違和感が拭えない。
「……そもそも、何故こんな衣装をフィンソスが持ってるの」
マラリスがいることも忘れ、つい愚痴めいた言葉が出てしまう。
すぐにしまった、という表情でカルは鏡越しからマラリスを盗み見る。
が、マラリスは気にした様子もなく、黙々と着付けをしていた。
聞こえなかったのか、もしくはあえて聞こえないふりをしたのかどうかは定かではないが。
「…着付けが終わりました」
そう言って一歩下がると、マラリスはポケットにしまった手紙を、今度こそカルに渡した。
ほっと安堵するカルに、マラリスはカルを隣室に案内すると、フィンソスを呼んでくると言って、出て行った。
できればフィンソスに会わずにカルは出て行きたかったが、助けてもらった手前そういうわけにもいかなかった。
それに隠し通路のことや、何故私があの場所にいたかも、問いたださなくては。
たぶん隠し通路に関しては、お父様から教わったかもしれない。
お父様は随分とフィンソスを買っていたし……だからこそ私の婚約者にと、選んだのだから。
ただ自分の居場所を見つけられたのが、どうしも不可解だった。
ちらりと窓の外を見れば、いつの間にか夕闇が迫っており、昼前に屋敷に侵入した時間よりだいぶ経っている。
今頃姫様は、何をしていらっしゃるのだろう。
今朝の姫様は、様子が尋常ではなかった。
何か酷く怯えていて、けれども私に向ける眼差しは強い憎悪を向けていた。
その視線に、カルは不可解な感情を覚えていた。
悲しみ、怒り、憐れみ……愛しさ。
言葉では現せない感情がカルの中で渦巻いたのだ。
ただそれは一瞬のことで、すぐに姫様を心配する気持ちに変わったのだが。
まさか姫様を助けようとして、頬を打たれるとは思わなかった。
打った姫様も呆然とされて、何故自分がこんなことをしたのか恐怖に戦いているようだった。
それから姫様はすぐに私を専属の侍女から外し、書状を書いてレクシュ様の元に行くよう指示したのだ。
本当なら食い下がってでも理由を聞き出したかったが、ルキアの胸元にできた傷を見た瞬間、カルの中で言いようのない不安がふくれあがった。
そしてルキアが知らないはずの、凶華の言葉。
たぶん凶華という言葉は、アルク陛下から聞いたものだろう。
だが温室でルキアにまとわりついていた白い靄や、しきりに彼女と呼ぶ存在が誰なのか、カルは本能で悟ったのだ。
誰からも教えられていない、知らないはずの名前がカルの脳裏に浮かび上がった。
レイールの復讐を止めなければいけない。
まるで誰かが、カルに向けて発した囁きだった。
だからだろうか。
ルキアに専属の侍女を外されたとき、思った以上に反対する気が起きなかった。
もしかしたら、ルキアの為に他にやるべき事があるのだと、本能的に悟ったのかもしれない。
「……だからあたしは、こんな事をしても平気なのかもしれない」
大事に手紙を抱きしめ、そう呟く。
と、扉の開く音に、カルは素早く手紙をポケットに忍ばせる。
「よく似合っているね、そのドレス」
部屋に入るなり開口一番に言った言葉に、ウンザリした表情でフィンソスを睨みつける。
「待たせておいて、最初の言葉がそれなの?」
「美しい女性を褒めるのは、婚約者として当然だろう? ドレスは気に入ってもらえたかな」
「…まだ婚約の承諾はしていないのに、マラリスに言うなんてどういうつもりなの。ドレスは致し方なく着替えただけよ。おまけに貴方の乳母マラリスまで付けて……監視されているみたいだわ」
「そんなつもりはないよ。ただ、君のことを口止めするにはマラリスが適任だったし、ドレスの着付けには人が必要だろう?」
「だから侍女の衣装を最初から用意しておいてほしかったわ。そうすれば誰の手も借りずに着替えて、城に戻る事もできたわ」
「私が侍女の服を持ち出すことは無理だし、この屋敷で協力してくれるのはマラリスくらいなんだ。他の侍女を使えば、恐らく母上の耳に入る恐れがあるからね。今はそれは避けたかったんだ」
クレオ伯爵夫人、その言葉にカルの表情が強ばる。
そうだ、ここはカイザー伯爵邸だったのだ。
ここにいることがバレれば、面倒なことになる。
今は必要な情報を聞いて、ここから出て行かなければ。
「……心配しなくても、誰にも見つからないよう城まで案内する」
カルの心中を察して、フィンソスは安心させるよう言い添えた。
「……屋敷を出るまでで結構よ。それより、さっきの質問の答えを聞きたいわ」
話を切り替えたことにホッとすると、フィンソスは席に座るようカルを促した。
「…クライズ家の秘密通路は、まだフォンデルン公がご存命の時教えていただいたんだ。危険が迫ったとき、君とメルディナ様を助けるようにと」
カルと向かい合うように座り、フィンソスは淡々と説明した。
「やはりそうだったのね。…でもお父さまは、何故貴方にそんな大事な秘密を教えたの」
「当時は……公認の婚約者だったし、フォンデルン公は私にクライズ家の後継者にと指名していたからな」
「何ですって…! まさか入り婿になる気だったの!」
「ああ。私はカイザー家では次男だし、家督を継ぐことはないからね。そう言う理由もあって、婚約する前からずいぶん可愛がられたよ。まあ……厳しい指導もあったがね」
「そんな話……知らなかった」