17話
漆黒の闇に浮かぶ、青白い月と瞬く星空の中、城の裏口からそっと人影が抜け出る。
燭台を手に小柄な人影は、全身を闇と同じ長衣に身を包み、冷気が入り込まないよう襟を押さえながら、足早に歩を進める。
貴族街を抜け、舗装された道から霜柱になった土を踏みしめ、街外れの墓地にたどり着く。
施錠されている鉄柵の鍵を開け、黒い十字架が立ち並ぶ中、影は迷うことなく目当ての場所にたどり着こうとしていた。
が、すぐに足を止めると、背後に佇む気配を一瞥する。
「出てきなさい」
無機質な声音で警告し、慣れた手つきで腰に隠し持っている短剣に手を添える。
いつでも攻撃できる態勢をとっていると、凝視していた場所からゆっくりと長身姿の男性が現れる。
彼もまた目立たない服装をしており、彼女は短剣の柄を強く握る。
「そんな風に警戒しないでほしいな。べつに襲ったりはしないよ」
墓地には不釣り合いな、陽気な声音で話しかけられ、彼女は緊張と苛立ち入り交じった吐息を漏らす。
「…尾行してましたね、フィンソス・カイザー殿」
「ええ。女性が夜遅く出歩くには、なにかと物騒と思いまして。護衛ついでと、あなたが何処にいくかとても興味がありましてね。…カルスティーラ・クライズ殿」
「……誰かとお間違えではありませんか? あたしはクローブ国王女付きの侍女、カルですわ。フィンソス殿」
微かに強ばった口調で否定すると、フィンソスは急に険しい表情を浮かべる。
「…ならば何故、ただの侍女である貴方が、貴族達が眠る墓所へ足を踏み入れたんです? しかも無断で墓所の鍵を盗んで」
「無断で盗んだなんて、人聞きの悪い。一時的に借りただけですわ。用が済み次第、きちんと返却いたします。それに私は、亡くなった方の遺言を果たしに参りましたのよ。フィンソス殿はご存じでいらっしゃいますか? フォンデルン・クライズ公爵閣下の細君、メルディナ様を」
「! メルディナ様の……」
「はい。メルディナ様は亡くなる直前、位牌を先立った夫の墓に入れて欲しいと、強く希望されました。しかしあの当時はメルディナ様はクライズ公爵家から追放され、亡くなった後も一緒に埋葬されることはありませんでした。…そして十年の歳月が流れ、今こうして埋葬することができます」
「では、公爵家はメルディナ様のことを許されたのか?」
「……いいえ。クライズ公爵家は絶対に許すことはないでしょう。メルディナ様は流浪の民ですから、公爵家に席を残すことは家柄を汚すことだと、亡くなった時にクローブ国に通達が届きました」
悲しげにそう言うと、カルは目当ての墓に近づく。
「ですからこうやって密かに埋葬しようと考えたのです。…位牌の一部ですが、どうしてもメルディナ様の願いを叶えて差し上げたかったから…」
墓石の前でカルはかがみ込み、燭台をかざす。
黒い御影石で刻まれた名前を心の中で読むと、カルの胸の中で熱い思いがこみ上げる。
「お父様…」
吐息だけの言葉を呟き、カルは彫り込まれた名前をなぞる。
あの冷たい屋敷の中、父だけが母娘の心のよりどころだった。
亡くなった父の姿を思い出し、涙がにじむのをぐっと堪えるように、カルは強く拳を握りしめる。
そして記憶を振り払うように軽く頭を振ると、カルは墓石の脇の土を手で掘り始めた。
「何をっ…! まさか掘り起こすんじゃ…」
「少し…穴を掘るだけです」
拳くらいまで掘ると、カルは長衣で手についた泥を拭き、懐から絹の小さな袋を取り出す。
燭台の明かりで光沢を放つ布袋を、丁寧に穴の中に入れる。
そして自分の首に下がっている銀の鎖を胸元まで引き上げ、首の後ろにある留め金を外す。
「それは…!」
フィンソスの声を無視し、カルは鎖につながっている指輪ごと穴の中に滑り落とす。
「やめろ!」
制止したが間に合わず、指輪は湿った土の中に落ちる。
フィンソスが拾う前にカルはすぐに土をかぶせ、手で何度も土を固めていく。
「やめろっていってるだろ!」
強引にカルを立ち上がらせると、フィンソスは両肩を激しく揺さぶる。
「どうしてそんなことをするんだ! 自分が何をしたのかわかっているか、カルスティーラッ!」
怒りと悲しみが入り交じった声音で、詰問するフィンソスに、カルは無表情を保ったまま動揺を抑えるように喉に力を込める。
「…ここへ来たのは、メルディナ様の遺言を果たすため。そして過去と決別するためです。……それに、私の名前はカルです。フィンソス殿が知るカルスティーラ様は、ここにはいらっしゃいません」
「いない? ……ならば、何故あの指輪を大事に持っていたんだ」
「大事だなんて…あの指輪はとても高価な品で、なくすといけないと思ったのです。カルスティーラ様の大事なものでしたから」
「でしたから? だと…」
さらに強く両肩をつかむ手に力がこもり、カルは小さく呻く。
「あの指輪を持っていることが、自分の身を証明する品だと思わないのか?」
「っう…。あれは、カルスティーラ様から…預かった…」
「いい加減つまらない嘘をつくのはやめろっ! 私がわからないとでも思っているのかっ。あれは私が君にあげた婚約指輪だぞっ。それを君はッ……」
ぎらぎらと睨みつける双眸を同じように見つめ返し、カルは自分の感情を押し殺しながら残酷な言葉を口に乗せる。
「すべては遠い過去のこと。今のあたしには、あの指輪は重い枷です」
「枷、だと」
「ええ。これ以上、侍女のあたしがあのような高価な指輪を持っていては、周囲が不審がります。ここなら指輪も静かに眠れることでしょう」
「黙れ……」
俯きながら、肩を震わせるフィンソスがどれだけ怒りと悲しみを抑えているのかわかるだけに、カルは一刻も早く立ち去りたかった。
「……あたしの用はこれで済みました。早く戻らないと姫様が心配していると思いますので、手を離…」
「黙れといっている!」
「なっ!」
抵抗する間もなくカルはフィンソスに唇を奪われた。
荒々しく、感情の全てをぶつけてきた口づけにカルは一瞬我を忘れ、フィンソスのなすがままになった。
だがすぐに正気に戻ると、カルはフィンソスから逃れようともがく。
しかし力の差では圧倒的に不利であり、フィンソスはさらに強く抱きしめる。
「つッ…!」
突然身体を離され、カルはよろめきながらもフィンソスとの間に距離をとる。
「誰が…あたしの許可なく口づけをしていいと思っているの!」
フードがずり落ち、紺碧の瞳を怒りでぎらつかせた顔で、カルは乱暴に唇をぬぐう。
その様子を見て、フィンソスは初めて不敵な笑みを浮かべる。
「やっと侍女という仮面をはぎ取ったな。やっぱり君は、私の知っているカルスティーラだよ。昔と何一つ変わっていない」
切れた唇を指で拭いながら、フィンソスは一歩カルに近づく。
その顔にはもう動揺も焦燥もなく、逆に確信と自信に溢れていた。
自分の失態に気づき、カルは悔しさで唇を噛みしめ、フィンソスを威嚇する。
「…ええ、確かにあたしは貴方の婚約者だったわ。だからなんだと言うの? 両親が亡くなり、公爵家一族の誰もがあたしを拒絶しているこの国で、カルスティーラ公爵令嬢と名乗るとでも?」
フィンソスは足を止め、静かにカルを見おろす。
「……確かに一族からはじかれた君は、爵位のないただの女性だ。けれど私の婚約者であることに、今も変わりはない」
「…それは父があたしの行く末を心配して、貴方に無理矢理押しつけただけ。父が亡くなった時点で、その約束は無効になった。だからあの指輪も不要の物だし、貴方も義理立てする必要はないわ」
「義理じゃなかったら?」
射すくめられるように見つめるフィンソスを、カルは一笑する。
「たとえ貴方が私を婚約者だと思っていても、カイザー伯爵家は決して私を認めはしないわ。……特に貴方のお母様は」
その言葉にフィンソスの表情が一瞬強ばる。
それが答えとばかりに、カルは目を細めて微笑む。
「元々クレオ伯爵夫人は私達の婚姻に乗り気ではなかった。そして父が亡くなり、婚約は白紙にすると書状が届いたわ」
「!」
「その様子だと知らなかったみたいね。だけど貴方だって、薄々わかっていたはず」
乱れた長衣を整えながら、カルは何事もなかったかのようにフードをかぶり直す。
「どんなに貴方が望んだところで、貴方のお母様が頷くことはないわ。それに……ここに長居をするつもりはないわ。姫様が落ち着き次第、あたしはお暇を告げるつもりよ。…流民は流民らしく生きていくから、そしたらもう会うこともないでしょう」
燭台を手に取り、カルは出入り口へと歩き出す。
「さようなら、フィンソス殿」
すれ違いざまそう言うカルの腕をつかみ、フィンソスは正面を見たまま言葉を残す。
「私を甘く見ないほうがいい。では…また明日」
「……」
乱暴に腕を振り払い、カルは足早に出口へと向かう。
その後ろ姿を眺めながら、フィンソスはそっと口元の傷に触れる。
「覚悟するといい。今度は……離さない」
墓前に誓うように呟くと、フィンソスは軽く一礼して歩き出した。