12話
三十分後、ルキアは自分が迷子になったと自覚した。
曖昧な感覚で自室だと思っていた方向に歩いていたが、どうやら間違っていたらしい。
最初は衛兵から見つかることに恥ずかしいと考えていたが、今では叱責されてでも構わないから、早く部屋に連れて行って欲しいと探し回る始末。
けれど捜す衛兵の姿は見あたらず、ルキアは知らず知らず奥へと歩を進めていく。
明かりが乏しくなりつつある手元の燭台を手に、心細くて長く薄暗い回廊で叫びそうな気持ちになる。
その時、甘い香りがどこからともなく漂い、ルキアの鼻孔に届く。
花のような香りだが、ルキアが今まで嗅いだこともないような、濃密なものだった。
(何の香りなのかしら? 探したいけど……でも部屋に戻りたいし…。きっとカルが心配しているかもしれないけど、部屋の帰り道がわからない……)
あれこれ悩んだ末、ルキアは部屋に帰ることを諦めた。
代わりに、香りの正体を突き止めることに決める。
もしかしたら香りの正体を突き止めたら、そこに誰かがいるかもしれない、そんな淡い期待を抱いたのだ。
微かに漂う甘い香りをたどって回廊を歩き続け、ルキアはようやく目的地に着いた。
「何、これ………」
それは巨大な半球体をした硝子の建物だった。
厚いガラスで作られたそれは、室内がどうなってるのかまではわからず、なんとなく植物が植えられている様だった。
しかも他の建物は雪で覆われているのにもかかわらず、半球体だけは雪が溶けて、地面に少し積もっている程度だった。
「温室……よね、たぶん」
白い息を吐きながらそっと近づくと、硝子の扉が少し開いており、どうやら香りはそこから流れてきたようだった。
中に入るのを一瞬ためらったが、意を決して扉を開ける。
入った途端、暖かい空気と共に多彩な植物と、濃密な花の香りに、ルキアは目を見開く。
「ああ……懐かしい」
数週間ぶりに見る故郷に似た香りに、涙がこみ上げそうになる。
ルキアは何度か呼吸を繰り返し、涙を押しとどめると、雑草で半ば埋もれている敷石を探しながら進み始める。
歩きながら植物を観察すると、クローブ国のものもあったが、書物で見たことしかない、南国の植物が多かった。
濃い緑色の常緑樹は、棕櫚や椰子の他、葉の細くて固いものや、肉厚で柔らかく葉の大きなもの、濃い緑色と白の縞模様のもある。
花に関しては多種多様で、ルキアが好きなジャスミンやアイリス、ライラックなどが、雑草と混じって無法状態に伸びている。
あとは図鑑や、押し花でしか見たことのない、赤、黄色、青や紫の植物が植わっていた。
しかし温室は立派だが植物の状態を見ていると、かなり前から放置されていると感じた。
ただ不思議なのは雑草が生え放題な割には、植物がさほど枯れていないことだった。
とはいえ枯れた葉っぱや植物はいくつかあるが、少し手入れすれば持ち直すものが多かった。
不思議に思いながらも、ルキアは温室の中を進み続ける。
と、急に視界が開け、白い大理石でできた大きな寝椅子が置いてあった。
敷石は休息所で終わっており、寝椅子を中心に大理石の円形の台座が置かれていた。
その周囲を浅い溝になっており水が流れていたが、今は苔で覆われ、水の流れで生き物のように揺らめいている。
ところどろこ腐った葉や枝が詰まり、溝から溢れて蛇行している部分もあり、ルキアは何故手入れをしないのか不思議に思った。
しかし寝椅子だけは、誰かが頻繁に訪れているのか、綺麗に手入れされていた。
絹の敷布の上には、落ち着いた色合いの大小さまざまなクッションが置かれていた。
その脇には螺鈿細工が施された木枠で台が硝子板をはめ込んだテーブルがあり、そこには読みかけの本が置いてあった。
「誰か来ているんだわ……」
ちらりと本の題名を見ると、『花を愛でる方法』とかかれてある。
園芸の本だろうと思い、ルキアが手に取ろうとしたとき背後で気配がした。
「それに触るな!」
飛び跳ねるようにルキアは相手を振り返る。
逆光で顔は見えなかったが、声で誰なのかわかり、ルキアは顔を強ばらせた。
「アルク……様」
「…ルキア王女か」
苦々しい口調で呟きながら、アルクはルキアに近づく。
アルクは本を手に取りながら、訝しげにルキアを見つめる。
「どうしてここにいるんだ?」
「その……迷子になってしまって。それで…」
「この温室に、無断で入ってきたのか」
責めるような口調で言われ、ルキアはむっとした表情で睨みつける。
「無断で入ってきたことは謝ります。ですが、オーク国に温室があるなんてこと、まったく知りませんでした。昨日は陛下から素晴らしいお言葉を頂き、ショックで迷子になるまで部屋にいました。しかも城を案内してもらうには、疲れ切っていてそんな余裕はまったくありませんでした! ましてや貴方がここで読書しているだなんて、知るわけないでしょう!」
知っていたら絶対に来なかった、そう言いたいのをぐっとこらえ、ルキアは顔をそむけた。
「私、部屋に戻ります」
気まずい雰囲気に耐えきれず、ルキアは逃げるように早足で歩き出す。
「! 待てっ」
追いかけるアルクを振り切るように走り出すルキアだが、濡れた大理石に滑り、視線が天井を向く。
「きゃぁ~~!」
片方の靴が弧を描いて飛んでいき、ルキアは後頭部から勢いよく倒れる。
「危ない!」
咄嗟にアルクはルキアのウエストを支えたが勢いが止まらず、二人とも倒れてしまう。
「っう!」
「ったぁ~い」
アルクの胸に倒れるような格好になったルキアは、ゆっくりと瞼を開き、思ったより痛くないことに気づく。
と、ルキアの下で苦痛に顔を歪め、頭を押さえているアルクの視線に気づき、硬直する。
「……早くどいてもらいたいんだが」
「ご、ごめんなさい!」
急いで脇に退くと、呻きながらアルクが上半身を起こす。
「だから待てといったのに……顔をどうした?」
訝しげな眼差しを向けられ、ルキアはフードが外れて泣きはらした顔を見られてしまい、慌てて両手で隠す。
が、それをアルクは強引に外し、顔をそむけたルキアの顔を凝視する。
「泣いていたのか?」
疑問と困惑が入り交じった声音に、ルキアはキッと睨みつける。
「そうよ! 何よ、泣いちゃいけないっていうの!」
丁寧な言葉使いをかなぐり捨て、素に戻ったルキアはアルクの手を振り払おうともがいた。
それを押さえつけ、ルキアの肩をつかみ、真剣な表情でもう一度問いかける。
「俺のせいなのか?」
「………」
無言で視線を反らすルキアだが、アルクは肯定と受け取った。
アルクは躊躇いながら、ルキアの目蓋にゆっくりと指を近づける。
冷たくて荒れた皮膚の感触にルキアの身体が一瞬強ばるが、優しく触れるアルク態度に、徐々に身体の力が抜けていく。
「……すまない」
驚きと困惑の入り交じった表情でルキアが見返すと、アルクは疲れたようなため息を漏らす。
「不眠病のせいか……些細なことでも苛ついてしまうんだ。それでよく、フィンソスに怒られる。特に今回は厳しかったな。だから少し一人になりたくてここに来たんだが……やっぱりフィンソスの言うとおりだった。今ルキアの顔を見て、とても後悔している」
「アルク……」
「だけど、あの時言ったことは本当だ。病のためだけに婚姻を結ぶのは反対だ。お互いが不幸になるだけだし、ルキアはまだ若い。他の国へ嫁いだ方が幸せになれる」
「そんな…。あなただってまだ若いわ。ただ…今は病でそうは見えないだけで」
「確かに、年齢で言えば俺は今年二十二になる。フィンソスとは三つ違いだが、病のせいで外見がこんなに変わるなんて、おまえからしたら恐ろしいだろう?」
「そんな、恐ろしいだなんて……」
ルキアは否定しながら、改めて間近で見るアルクは、たしかに年相応には見えなかった。
銀髪は艶がなくぱさついているし、生気のない青白い肌はかさついて見え、表情は生彩に欠けており、やつれて見える。
ただ眼孔だけは鋭く、必死に病と闘っているのか、目の隈だけが濃かった。
そんなアルクを見て、ルキアは自分だけ苦しんでいるのではないと強く感じた。
ルキアは居住まいを正すと、真剣な表情でアルクを見つめる。
「だったら今、ここでもう一度やり直しましょう」
「ルキア?」
「私もアルクにきつく言い過ぎたわ、ごめんなさい。だけどそう簡単に婚姻を取り消すことは、アルクでもできないと思うわ。その代わり、一日でも早くお互いの病が治るよう、努力した方がいいと思うの。その方が建設的だし、その間にお互いのことを知っていけばいいと思うの」
「だが……もし治らなかったら婚姻しなければならないんだぞ。それに…」
口を濁すアルクに、ルキアは手を差し出し微笑む。
「やる前から諦めたくないの。お願い、アルク。私と一緒に病を治す努力をして」
真摯な眼差しで見つめるルキアを、アルクはじっと見返していたが、少しだけ目尻を緩ませる。
「わかった、お互いのために」
そう言ってルキアが差し出した手を取ると、アルクは手の甲に口づけをした。
冷たい唇のせいか、それともアルクが見せた紳士的な振る舞いのせいなのか、ルキアの鼓動が早くなる。
「あ、あの。そろそろ部屋に戻るわ。カルが心配しているから!」
急いで立ち上がり、ルキアは衣装についた汚れを払うと、逃げるように温室をでようとする。
「ちょっと待て、ルキア。お前、迷子になってここに来たんじゃないのか?」
「あっ…」
呆然と立ち尽くすルキアに、アルクはやれやれとばかりにため息をつく。
アルクはゆっくりと立ち上がると、ルキアの腕を軽く掴む。
「俺が部屋まで送ろう」
「そんな! 疲れているのに、なんだか申し訳ないわ」
「気にするな。また迷子になっても困るからな。それに、ルキアを部屋まで送らなかったとフィンソスに知られたら、説教されるに決まってるからな」
「説教って…アルクの部下なのに?」
「あいつは騎士団長だが、俺の従兄でもあるからな」
「えっ。でも、だって…フィンソス殿は…」
言いよどむルキアに、アルクは唇を歪める。
「フィンソスは王族だが、直系じゃない。何が原因か不明だが、不眠病は王族の中でも直系で、なおかつ次期国王の座に就く者にしかならない奇病なんだよ。もしくは呪い、というべきか」
「呪い…」
「簡単に説明すると、その文献には昔クローブ国の王女と婚姻し、悲劇的な事故が起きて王女が亡くなった。その時王女がオーク国国王を呪い、それから不眠病が始まったと書かれていた。…クローブ国では、そんな話を聞いたことはないか?」
「いいえ、そんな話は初耳だわ…」
驚くルキアに、アルクも同感だとばかりに肩をすくめる。
「だろうな。シエル殿にも確認したが、そんな記述や資料は見当たらないと言ってきた。まあ、恐らく誰かの悪戯だとは思うが」
「そう…」
もっと話を聞きたかったが、なんとなく聞いてはいけない雰囲気だったので、ルキアはこれ以上聞くことが出来なかった。
心の中にしこりを残しながら。