来宮誠の喪失の回想
この学園には、三つの校舎が存在する。まず、各クラスの教室があるいちばん大きな校舎、中央棟。理科室、家庭科室などの教室もここに含まれ、俺たちの拠点である渋谷千里親衛隊会議室もここにある。
そして次に、東校舎の特別棟。ここにあるのは、学園アイドル生徒会役員サマたちの生徒会室、そして昨日訪れた風紀室だ。生徒会と風紀委員会は、重要資料なども扱う組織であるため、それらが漏れないよう別校舎に分けられるのだ。
そして最後、西校舎。ここは、生徒会や風紀委員会とは別の意味で隔離すべき者たちが住処とする校舎だ。
西校舎の別称――F棟。
あそこに教室を構えるのは、不良やヤクザの跡取り、問題児や落ちこぼれたちの巣窟である、F組だ。暴力沙汰の多いF組は、馬鹿にされると同時に恐れられる存在であった。
リコールされた生徒会役員は、落ちこぼれの烙印を押されてF組にクラスを強制変更させられる。渋谷千里もまた、SからFへとクラスを変更された。
不良の巣窟では、渋谷千里のような人間はさぞかし過ごしにくいだろう。リコール撤回が通れば元のクラスに戻れるのだから、渋谷千里はこの話に飛びつくはず――そう踏んだのだが。
「ここですね」
チカはやや緊張した面持ちで、二年F組の教室前に立った。
無理もないだろう。チカのような生徒は、普通ならF棟に来る機会なんてない。ここまで来るのにも、落書きされた壁やヒビの入った窓に若干怯えていた。それでもここまで付いてきてくれたのだから、チカはなかなか肝が据わっている。
俺は「行くぜ」と一言チカに声をかけてから、扉を開けった。
「しっつれいしまーす。来宮誠でーす」
「あ?」
「んだよ、つうか誰?」
一斉に生徒たちの視線がこちらに注がれる。流石F組というべきか、かなりガンを飛ばされた。
教室にはまだ疎らに生徒が残っていて、その誰もが制服を着崩し髪を染めたガラの悪い生徒たち。
そんな雰囲気の中でも、平然と頬杖をついて周りの生徒と言葉を交わす渋谷千里が、そこにいた。
「おい、渋谷千里」
名指しで彼を呼ぶと、渋谷は気怠げな目線を寄越し、小さく「来宮と関、か」と呟いた。
その言葉に周囲の生徒たちは動揺を露わにする。
「え、え!?千里ちゃんってあのかわいこちゃんたちと知り合いかよ!?」
「ああ」
「マジで!紹介しろよ、最近欲求不満なんだって!」
「それはできない。あいつらは俺の親衛隊隊員だ」
「うっそ、渋谷親衛隊なんて持ってんの!?」
「さっすがカイチョー!」
「馬鹿、元カイチョーだろうが!」
「あ、そうだった!」
ぎゃはははは、と品のない笑い声が教室に渦巻く。元会長のくだりでチカのこめかみがぴくりと痙攣したが、その手を掴んで踏みとどまらせた。キレたチカの勢いは光岡の一件で既に知っている。
俺はチカの手を引いて、ゆっくりと教室の中を進んだ。渋谷の目の前に立ち、口を開く。
「迎えに来た、渋谷」
途端に、笑い声が引いていく。どうやら俺と渋谷の会話を聞き逃すまいとしているようだ。
渋谷はひとつ溜息をついて、正面から俺を直視した。
「今言ったこと、もう一度言ってみろ」
「何度でも言うぜ。迎えに来た、お前を。佐瀬も大原も蹴散らして、もう一度お前を学園の頂点へ連れ戻す」
渋谷のことをお前と呼ぶときが来るとは思いだにしなかった。親衛隊隊長の俺は、「渋谷様」と甘い猫撫で声でしか彼を呼ばなかった。
だが渋谷は、なんだその生意気な呼び方は、とは言わない。随分偉くなったな、とも言わないし、キャラ変更でもしたのか、とも言わない。本当の俺を知っていたからではない――きっと興味がないから何も言わないだけだ。
ただ一言、俺を打ちのめす最大の言葉を鋭く放った。
「断る。俺はもう、あそこに戻る気はない」
「…………なんだと?」
「今の俺に、あそこにいる意味はない。会長という職にも執着していない。後は紫織たちが好きにやってくれるだろう。親衛隊も解散してくれて構わない」
がつん、と頭を殴られたような気がした。眩暈がする。渋谷千里は、会長に戻らない?なんで。なんで、なんで……
「なんでそんなことが言えるんですか!?」
俺の中を埋め尽くす疑問を音にしてくれたのは、隣にいたチカだった。いつの間にか繋いだ手は握り返されていて、チカの体温が伝わってくる。とても熱い。チカは、怒っている。
「どうして、なんで……!?」
「元からやりたくて就いた職でもなかったんだ。勝手に祭り上げられて、勝手に引きずり降ろされた。俺はもう、自ら生徒会に干渉したいとは思わない」
この会話を早く終わらせたいと言わんばかりのつまらなそうな表情が、チカの怒りを助長させる。チカは自分より一回りは大きい渋谷の胸倉に掴みかかった。
「そんな無責任が許されるはずがないでしょう!?渋谷様だってわかってるはずだ、佐瀬様の暴走がこのまま続けば、この学園は崩壊するって!」
「それの対処をする義務は、今の俺にはない」
「なら渋谷様は、この学園がどうなってもいいって言うんですか!」
「ああ、そうだ」
シャツの胸元が乱れようと全く表情を変えないままに、渋谷は頷いた。
「俺は聖人君子じゃない。自分を見捨てた生徒たちなんて、俺も見捨てた」
「なっ……渋谷様っ、貴方はっ!」
「はーい、そこまでね」
チカが更に勢いづいたそのとき、場の空気にそぐわない声が割って入った。
薄墨色に染められた髪をしたそいつの顔を認知した俺は、一気に現実へと叩き戻された。それと同時に冷や汗が滲む。
運が悪ければ、彼と遭遇することもあるかもしれないとは思っていた。だがまさか、このタイミングで現れるとは。
「邪魔しないでください!今僕は渋谷様に大事な話がっ」
「チカ、やめろっ!」
慌ててチカを渋谷から引き剥がし、そいつから距離を置く。迂闊に近づいてはいけない存在なのだ、彼……高梨恋斗は。
恋斗だなんて可愛らしい名前をしているが、絶対に舐めてかかってはいけない。会長職がこの学園の王様だったとしてもここは治外法権。彼こそがこのF棟に君臨する、問題児たちのトップ。絶対的強さを誇る王者だ。
しかし、完全に血がのぼってしまったらしいチカはなかなか大人しくなってくれない。なりふり構わず抱きついて動きを阻止するが、いかんせんチカは俺より背が高い。
「隊長、なんで止めるんです!離してくださいっ」
「ダメだ落ち着け!ここで奴の機嫌を損ねたらやばいっての!」
「あっは、そっちのおチビちゃんはよくわかってるじゃん」
……誰がおチビちゃんだ。
チカを諌めつつも、俺自身が思わず高梨を睨みつけてしまう。だって、しょうがない。誰にでもコンプレックスはある。
高梨恋斗の登場に、再び教室はざわめき始める。F組の生徒たちは皆、高梨を慕っているようで、彼らの声は少し弾んでいる。
そして、この人も例外ではなかった。
「レン、来てたのか」
シャツの襟を直しながら、渋谷が声をかけた。能面のようだった渋谷が高梨をその目に映したとき、微かに口角を上げた。今日初めて見る、渋谷の笑みだった。
なんだか異様に心が冷えた。
「んー?別に用はなかったんだけどね、教室で騒ぎがあるって聞いたから千里が心配で戻ってきたの」
「お前に心配されるほど俺は柔じゃない。第一、騒ぎとはいえふたりは俺の親衛隊だ」
「だから安全だって言いたいわけ?ダメダメ、千里は油断しすぎだ」
高梨は渋谷の背後に回り、肩に顎を乗せながら緩く抱きしめた。今度は妙な苛立ちが俺の中に生まれる。
なんなんだ高梨は。渋谷にやたらとくっついて、お前は一体渋谷のなんなんだ。
それより気になるのは俺自身だ。何故、こんなにイライラしている?
「千里はリコールされた身なんだから、いつ襲われてもおかしくないのさ。だからね、オレが守ってあげる」
「男が男を守ってどうする」
「だって千里、危なっかしいじゃん。今だってそこのこわーい美人ちゃんに睨まれてるしね」
高梨はちらりとこちらを一瞥する。チカのことを言っているらしい。
まずい。このまま高梨恋斗を筆頭とするF組連中に目をつけられるのは得策ではない。
「チカ、お前はちょっと引っ込んでろ」
「何故です!?納得いきません!」
「チカ!」
強い調子でもう一度呼ぶと、チカの身体が一瞬強張り、やがて弛緩した。こんな風に厳しくチカを諌めたことは初めてだからか、チカに俺の本気が伝わったらしい。
俺はチカの拘束をゆっくりと解き、高梨を見据えた。
「いきなり押しかけて騒ぎ立てたことは、悪かった。俺は来宮誠、渋谷千里親衛隊の隊長だ」
「ふうん、くるみちゃんね」
「く、くる……まあいい。俺たちは渋谷に話があってここまで来たんだ。渋谷に仇なすつもりなんて絶対にねえって断言できる」
「興味ないや」
「……は?」
子供のような物言いに、唖然とせずにはいられない。
興味がないだと?
眉を顰めて高梨を凝視する。彼は渋谷の襟足を指で弄びながら笑った。
「君たちに興味ないんだよ。どーでもいいからさ、とりあえず千里には金輪際近寄らないでくれない?親衛隊だかなんだか知んないけど……」
高梨の白い指が、するりと渋谷の頰を撫でた。
「これ、オレのだから」
高梨と視線が絡まる。蛇のような鋭い視線。絶対に譲らないとでも言いたげな双眸。
頭が真っ白になって、足元から全てがガラガラと崩れ去っていくような感覚が、俺を支配した。
消えていく。俺の中から、絶対的な頂点である渋谷千里が、奪われていく。嫌な汗が噴き出してきて、微かに身体が震える。
だが、ここで取り乱すわけにはいかない。だって俺は、渋谷千里親衛隊の隊長だ。
「……帰ろう、チカ」
チカの腕を引く。しかし、彼の表情は不満げだ。
「ここで引き下がるつもりですか」
「脈ナシだからな。今のところは、だけど。ここで食い下がっても意味はねえよ」
きちんと冷静を装えていただろうか。あまり自信はないが、そんなことはどうでもいい。
強引にチカを連れ、俺は教室を出て行く。去りかけに振り返り、捨て台詞を吐いた。
「渋谷。俺はお前以外を会長と認めねえ。お前が戻ってきてくれるのを……ずっと待ってるから」
激情を押し殺して告げる。一瞬、渋谷の瞳孔が揺れたような気がしたが、俺はすぐに踵を返したから、確かめようがない。
喪失感を胸に抱えたまま、俺はF棟の廊下を進んだ。
俺が引く腕をチカが振り解かないでいてくれることだけが、唯一の救いだった――。