来宮誠の揺蕩の悪夢
***
汚れた廊下を駆けていく。
壁は落書きだらけ。窓は長い間手入れをされていないせいか、曇って外が伺えない。
そんな薄暗い廊下を、駆け続ける。
急げよ、俺。もっと早く、早く、速く!
とうとう辿り着いた目的の教室。その扉を勢いよく開け放ち、俺は叫んだ。
「渋谷、聞いてくれ!リコールが撤回されたんだ!ほら、早く学園の王座に戻ってきてくれ!お前だけが、お前こそが会長に相応しい人間だ!」
ぎょろり。
教室の中の無数の目玉が、突然の闖入者である俺をじっと見つめた。
たくさんの視線に晒されて一瞬怯んだが、俺はそのまま教室に入っていく。
教室の最奥には、いつもと変わらぬ渋谷千里の姿があった。
艶やかな黒髪。すらりとした体躯。端正な顔立ち。右目の下の泣きぼくろ。うん、いつもの渋谷だ。
ただ、ひとつだけ。たったひとつだけおかしいところがあるとするならば、
「………………渋谷?」
渋谷の双眸は、あんなに冷たい色を宿していただろうか?
呆然として立ち尽くす俺を、渋谷は笑った。嘲り嗤った。
「何をしにきた?来宮、お前はもう要らない。俺は生徒会長には戻らない」
渋谷がこちらに歩み寄ってくる。何故か恐怖に足が震えた。そんな俺を見て渋谷は更に笑みを深めて、トンと軽く俺を突き飛ばした。
よろめいて教室から一歩出る。そこには廊下があるはずなのだが……それが、ない。
教室の外には足場はなく、ただただ濃く深い暗闇が揺蕩っていた。
「……あ」
バランスを崩した俺は、呆気なくその暗闇に落ちていく。慌てて手を伸ばすが、渋谷はその手を掴んではくれなかった。
「しぶ、や」
「じゃあな、来宮」
渋谷の姿が遠のいていく。俺はなす術なく暗闇に落ちていく。嫌だ、こんな暗いところに飲み込まれたくない。誰か助けて。誰か、誰か……誰?
***
「来宮隊長っ!」
俺の名を呼ぶアルトヴォイスに、急速に意識が戻っていった。
ぱっと目を開くと、目の前には真っ白な天井をバックに俺の顔を覗き込むチカの姿が飛び込んできた。
「……チカ?」
「そうですチカです、関春親ですよ!しっかりしてください、隊長」
仰向けの俺に手を貸すチカ。その助けをありがたく受け取って起きあがる。どうやら親衛隊会議室の床に寝転がって爆睡していたらしい。
チカは俺の制服の埃を払ってくれる。その日常的な風景が、さっきまでの出来事が全て夢だったということを認識されてくれた。
「つうか、酷い夢だったなあれは……」
「あ、やっぱり悪い夢だったんですね」
額に手をやって汗を拭っていると、チカがハンカチを貸してくれた。こういう細かなところに女子力を感じるな。
「ありがと、洗濯して返すな」
「あっ、いいですいいですそのままで!むしろそのままにしてください!隊長の汗お持ち帰……じゃなくて、隊長の手を煩わせるわけにはいきませんから!」
「……お、おう」
若干引き気味の俺に気づいたのか、チカは慌ててハンカチを引っ手繰り、自分のバッグに突っ込んだ。果たしてあのハンカチがこれからどんな経験をするのか、少しいやかなり気になるが、気にしたら負けだ。
「そ、それより隊長!こんなところで何してたんですかっ?」
「はあ?何って昼寝だけど」
「それにしたって場所を考えてください!この会議室を開いた瞬間隊長が死んだように寝転がってて、しかもいきなり魘され始めるんだから、僕すごく心配したんですよ!」
「おーおー、そりゃ悪かったな」
実を言うと、昨日は寝つきがあまり良くなかった。それをずるずると引きずり、放課後この親衛隊会議室に辿り着いた途端、最後の糸がぷつんと切れて、倒れるように寝こけてしまったというわけだ。
授業中も死ぬほど眠かったが、渋谷千里の肩を持っているというだけで、周囲から妙な反感を買う。教室で無防備に爆睡して更に敵意を持たれるのは避けたい。
「それで隊長、どんな夢を見てたんですか?」
「……あー、うん。昨日のこと」
ぽつりとそう零すと、会議室にはお葬式のような空気が流れた。チカは難しい顔で唸りながらホワイトボードの前に立ち、マーカーのキャップを開けた。軽快な音でキャップが外れ、独特なシンナーの匂いが微かに香る。
チカはいつも通りの丸字でキュッキュと何かを書き始めた。
まず真ん中に、〈渋谷千里親衛隊〉とでかでかと書く。その右隣に、〈風紀委員会〉、上には〈渋谷千里様〉。そして左隣には、〈佐瀬紫織、大原白兎〉とある。
「状況を整理すると、まずこうですよね」
マーカーの色を変えて、〈渋谷千里親衛隊〉と〈風紀委員会〉を矢印で結び、〈協力関係〉と書き足す。
更に、佐瀬たちが渋谷をリコールしたこと、よって俺たちと敵対関係にあることを加えた。ホワイトボードはあっという間に、チカの可愛らしい字で埋め尽くされる。
「風紀委員会の協力も得られて、これでちょっとはリコール撤回に近づいたと思ったんですけどね……」
残念そうにぼやきながら、チカは最後の矢印を結ぶ。〈渋谷千里様〉から〈渋谷千里親衛隊〉に伸びる矢印。その横には、〈会長再就任拒否〉と、力のない字で書き加えられた。
そう、拒否だ。拒否されたのだ。
昨日、風紀委員会からの協力の約束をもらった後、委員長の言葉が気になった俺とチカは、その足で西校舎に向かった。
俺は何も考えたくないと駄々をこねる脳に鞭を打ち、昨日の回想を開始した。