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余談であるが、僕は少年漫画が嫌いである。努力、友情、根性――そのテの精神論には虫唾が走る。漫画の世界だけならまだ良い。厄介なのはその価値観を現実にまで引きずって来る連中だ。僕の経験上、彼らは個人の個性に着目しているようで、その実、何も考えていないことが多い。努力とチームワークとハートと『ドンッ』で大抵の問題は何とかなると勘違いしている節がある。そういう人たちと一緒にいると、決まって僕は吐き気を催す。これは決して過剰な表現ではない。現に僕は穴家林さんの精神論に毒されて、下呂泉スプラッシュ状態に陥った。
更に余談だが、『下呂泉スプラッシュ』とは小学校三年生の時に授かった称号である。元来ナイーブな僕の精神は消化器と綿密に連動していて、一定のストレスを覚えるとゲロが噴水のように噴出してしまう。これを無理矢理手で押さえようとすると、指の隙間からゲロがスプラッシュする。体育祭でリレーの順番を待っている時、プレッシャーに耐えかねてこの状態に陥り、僕はその称号を獲得した。本名が本名であるだけに、やや『スプラッシュ』が蛇足な感があるが、中学卒業までの間、名字の後にはスプラッシュがついて回った。無論、ロクな思い出ではない。
「うわ、クッサー」
穴家林さんはゲロを躱しながら言った。Y字バランスの体勢から片足で宙返りを決めるという超人的なアクロバットだった。
もっとも、彼の身体能力に感心している余裕は無かった。
イッパイ、イッパイ、だった。
「精神力なんてカップラーメンの蓋の握力ほどもありませんよ!」
僕は自分のメンタリティの脆弱性を誇るように逆ギレした。そしてそんな自分自身に絶望し、その場にしゃがみ込んだ。
眼下にはゲロの海が広がっている。
穴家林さんは汚物を迂回しつつ歩み寄り、言った。
「まあ、心配すんなや。ゲロくらい、誰でも吐く」
そういう問題じゃない。
急速に下がりゆくテンションの中で、僕は冷静さを取り戻して行った。
たしかに、彼は最初の襲撃を退けた。だが、それは圧倒的なフィジカルにモノを言わせた物理攻撃だった。『Tさん』の『破ァ!』みたいに、何か特別な能力を披露したわけではない。良く考えたら穴家林さんが霊能者である確証は何一つないのだ。単に身体能力が高い変質者である可能性がある。いや、その蓋然性の方がずっと高い。
となると、勝機は絶望的に少ない。
物理攻撃が無意味――むしろ、逆効果であることは彼の言う通りだろう。それは、バージョンアップした化物達の姿形から容易に想像できる。
幾ら穴家林さんが超人的な戦闘能力を持っていたとしても、事態は一向に改善しないということだ。たとえ、次の襲撃を耐え抜いたとしても、その次には更にバージョンアップした怪物と戦闘することになる。少し、寿命がのびるだけだ。
ハート(笑)で何が出来るというのだ。
一生懸命、命乞いでもするのか――?
――バカバカしい。
過度な期待を持った僕が悪かったのだ。
穴家林さんに対する信頼に反比例して、絶望が深まって行く。
化物の姿は、もはや肉眼で確認できる距離にあった。
冷静になるほど、恐怖が高まって行く。
先程は穴家林さんの奇襲が功を奏したが、今回は襲われる側に回っている。それに、奴らの手足は増えている。おまけに僕は三度目のゲロを吐き、体力的にも精神的にも限界だ。電解質不足とストレスのせいか、手足の末端がピリピリと痺れている。
事態は悪化している。
それにも関わらず、穴家林さんは余裕綽々と言った様子だ。
「大丈夫だ。恐れることはなにもない」
そう言って、穴家林さんは僕の背中をさすった。
脊髄反射的に追いゲロが出た。
不快だった。
「如何してそんなに楽観的でいられるんですか? 化物がすぐ傍に来ているというのに!」
僕は心底不思議に思って問い質した。
「逆に聞くが、君は何をそんなに恐れているんだ?」
彼もまた不思議そうに尋ね返した。
「あの化物達が怖いのに決まっているでしょう!」
僕の声はひっくり返っていた。
お笑いだ。
僕たちは解り合えない。
どうせこの変質者は、日々法的にも倫理的にもギリギリの世界で生きてきたのに違いない。危機感に対する感覚がマヒした、狂気のクレージー・ミドルなのである。だからこんな時に暢気にしていられるのだ。
『でも、君はロリコンなんだろ?』
今度は、優しげな声音だった。
何故、ここでロリコンという単語が出てくるのだ?
もはや会話の成立すら困難と言える。
『君はロリコンなんだろ?』
穴家林さんは執拗にそう尋ねる。
『答えてくれ』
嫌気がさしてくる。
それでも、何故か、『ロリコン』という単語だけが、やけにハッキリと耳に響いた。
「それがなんだっていうんですか! 僕の性癖は今関係ないでしょぉおお!」
ますます、語気が荒くなる。
「ええ、どうせ僕はロリコンですよ。ロリコンのまま、絶望の淵で死んで行くんですよ」
どんどん、自分が嫌いになる。
両膝に顔をうずめたまま僕は啜り泣く。
目を閉じて、膝を抱えて、全てを拒絶する。
バカバカしい、恥ずかしい、如何しようもない。
まるで、神様が用意してくれた特別な処刑台の上に入るみたいな気分だ。
――お似合いの終焉だ、下呂泉白。
もはや、穴家林さんに言い返す力も、化物達に対抗する気力も残っていない。
絶望のカーテンが降りてきて、僕をスッポリ包みこんだ。