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7月14日(火)27:30頃。
化け物どもの遺体を置いて、我々は闇雲に走った。失禁で濡れそぼったズボンとパンツがグシュグシュ鳴って不快だった。それにもかかわらず、自己ベストを出せるくらいのスピードであったと自負している。
しかし、おっさんの俊足には到底敵わなかった。
おっさんは2倍速動画のような走りぶりで、あっという間に僕を追い抜いて行った。韋駄天という神は言葉でしか知らないが、彼の走りぶりはまさに神憑っていた。それほど凄い走りぶりであった。途中途中で立ち止まってくれなければ、僕はあっという間に置いて行かれたことだろう。逸れそうなピクミンみたいに、何とか一生懸命に追従した。
心臓が破れそうなほど拍動し、途轍もなく苦しかった。だが、お化けに取り殺される位なら心不全で死んだ方がマシである。それくらいの気概で走り続けた。おかげでゲロがカピカピに乾いた。
どれほど走ったのだろう。
とにかく、目下の脅威が去ったと思える時点で、我々は一息ついた。
おっさんは民家の玄関の段差に腰を下ろす。
僕はアスファルトの路面に座り込んだ。
「私の名前は穴家林茂。ボランティアで除霊をやっているサラリーマンだ」
彼はそのように自己紹介し、「君は?」と質問を付け加えた。
普段なら自称・霊能者ほど敬遠し甲斐のある人種はない。しかし、この超常的状況にあっては、これほど頼もしい自己紹介はなかった。
僕は「下呂泉白。学生です」と答えた。
穴家林さんは怪訝そうな顔を向ける。
「学生か――。ずいぶん大きな小学生が居たものだな」
皮肉だろうか。彼は少し意地悪そうに右の口角を釣り上げた。そして、「私も人のことを言えないが、」と前置きをしてから、こう聞いた。
「どうして小学校区を徘徊している――?」
『――それもこんな夜更けに』
素朴な疑問である。
同時に、それは核心的な質問でもあった。
かつて職務質問をされた時のトラウマが蘇ってきた。
「ちょっと、散歩を……」
当たり障りのない返答で切り抜けようと試みる。
しかし、穴家林さんは僕の動揺を見逃さなかった。
その鋭い眼光に僕の気は竦んだ。
「本当に?」
先程までとはまったく別種の緊張を覚えていた。
ヤンキーに対する有形的具体的な警戒や、オカルトに対する漠然とした恐怖ではない。
其処にあるのは、社会的で抽象的な緊張だった。
正直、こんな状況下で深夜徘徊の理由を聞かれるとは予期していなかった。通常の夜道ならともかく、此処は不意に化物が出現する超常空間である。霊能者というだけあって、『超常慣れ』しているのだろうか。それとも、僕が自分で思う以上に不審者めいているのか。
僕は、動揺を禁じ得なかった。
穴家林さんは優しく諭すように言う。
「無理強いはしない。しかし、正直に言ってくれた方がお互いの為にもなると思う」
――お互いの為?
その言葉が引っ掛かった。しかし、その違和感を追求したところで、僕の秘密は隠しきれないだろう。
この男相手に隠し事は不可能。
何ら威圧する風でもないのに、そう思わせる凄みが彼にはあった。
僕は乾いた唇で告白する。
我が身に巣食う、醜い獣の存在を打ち明ける。
「小学校に、侵入しようとしていました」
「何故?」
「女子小学生とか、好きだから……」
我ながら清々しいまでの本音である。
「好きだと、何故小学校に侵入することになるんだい? 質問には正確に答えてほしい」
神父に罪の告白をするように、僕はありのままを伝えた。
「スク水を……湿った使用済みのスク水を……盗もうとしていました」
自然と涙が流れた。
今日は泣いてばかりである。
「不法侵入と窃盗にあたる行為だね。前科はあるのかい?」
本当に取調べみたいになってきた。
場所が場所ならカツ丼でも出てきそうな雰囲気だ。
「いいえ。今日、初めて実行に移そうと思ってしまいました。魔が差したのです」
「ふうん」
穴家林さんは、今度は値踏みするように僕を見た。
「君は、いわゆるロリコンなのかね?」
それは、決定的な問いかけだった。
「……はい」
「いつから?」
「高2の夏に、同級生に振られて以降、徐々に……」
彼は神妙な面持ちで僕を凝視し続ける。
僕は彼の応答をプルプル震えて待った。先輩からのケツバットを待つ野球部一年生みたいな心境である。
それから、しばらくの沈黙があった。
はたしてその間、彼の心象にどのような変化があったのかは定かではない。説教でもする気なのだろうか。両の口角がクイッと下がり、その表情は更に曇ったかに見えた。
しかし、穴家林さんの反応は意外なものだった。
彼は急に「ブハハ」吹き出すと、悪い薬でも服用したかのように、アスファルト上を笑い転げたのである。バタバタと暴れる足で猫除けのペットボトルが薙ぎ倒された。そのうちの一本が転がって、電柱脇のポリバケツにぶつかった。
僕は彼の豹変ぶりに目をむいた。
「な、何なんですか? 急に?」
「いやー、失敬、失敬。悪気はないのだよ。勝利を確信したせいで、つい」
「勝利?」
意外なワードである。
はたして、何における『勝利』なのだろうか。裁判上の勝訴のことだろうか。ひょっとしたら、『思春期のトラウマに端を発するロリコンは罰しない』という判例でも存在するのかもしれない。だとすれば白昼堂々小学校のプール授業に踊り込むところである。だが、それを本気にするほど僕は楽天家ではない。
「ま、気にすんなや、若人。ヒーローの性って奴だ」
今度は『ヒーロー』。
まるで訳が分からない。
だが、言った本人は心底愉快そうである。
世代が違うせいだろうか。正直、彼のテンションについていけなかった。
そんな僕の混乱をよそに、穴家林さんは、不可解な行動をとり始めた。
おもむろに電信柱脇のポリバケツを物色し始めたのである。
急に地面に転がったりゴミを漁ったりと、猫みたいな習性を持つおっさんである。そう訝しく思いながら見守っていると、彼はバケツの底から真っ白い謎の布きれを二つ取り出した。
「こんなこともあろうかと、2着用意しといて良かったぜ」
そういって、片方を僕に手渡す。
ゴミバケツの中に入っていたモノに素手で触れるのは抵抗があった。
しかし、ソレは思った以上に清潔そうで、翻すと柔軟剤の香りが漂った。
広げてみる。
純白の全身タイツである。
「な、何スカ、コレェッ!」
「見ての通りの全身タイツだ」
「いや、そういうことじゃなくて……」
確かに、アメコミなんかに出てくるヒーローは全身タイツ的な衣装を着用している印象がある。さっき『ヒーロー』と言ったのはそれを示唆していたのだろうか。それにしても純白の全身タイツとは意外過ぎる。そんなヒーロー見たことないし聞いたこともない。混乱は深まるばかりである。
「安心しろ。特殊な法力を練りこんである。高純度の結界みたいなものだ」
「え? え?」
「とにかく着替えたまえッ」
彼はそう言うと高そうなワイシャツを破るように脱ぎ捨てた。ブチブチと弾けとんだボタンが路上に転がって、ペットボトルの周囲を跳ね回る。
そして、剛毛で覆われた、厚い胸板が露わになった。
「え? エエッ!?」
「小便とゲロ塗れだし、丁度いいだろう?」
そう言いつつ、彼は靴とズボンも脱ぎ捨てる。
やけにピッチリとした質感のブリーフに一瞬目を奪われる。
どう考えてもサイズが小さすぎる。黒い炎のような体毛が鼠蹊部周辺にも生い茂っており、男同士ながらも目のやり場に困った。
「一体、こんなモノに着替えて、どうするんです?」と恐る恐る聞いてみる。
「ともに、奴らと戦うのだ」という予想外の答えが返ってくる。
「エェーッ1?」
まさか、ロリコン性癖の告白から、こんな展開になるとは思わなかった。
なぜ?
どうして?
疑問詞が前頭前野を駆け巡った。
「おっと、詳しく説明している暇は無いようだな。耳を澄ましてみろ」
彼に言われた通り、聴覚を研ぎ澄ます。
デッシュ、
デッシュ、デッシュ、
デッシュ、デッシュ、デッシュ、
不気味な気配と足音が、凄まじい速度で近づいてくる。
「急げ! 間に合わなくなる!」
彼はそう言いつつ全身タイツの中に頭を突っ込んだ。
餅が膨らむように、ニュウっと頭部がフィットインする。
生地に引っ張られて歪んだ穴家林さんの顔が露出した。
引き攣った唇を戦慄かせ、彼は恫喝する。
「さっさとせんか!」
怖ェッ。
その剣幕と、迫り来る異形の気配に恐れをなし、僕は震えながらシャツを脱ぎ始めた。