15
バトル開始
あまりの絶叫に、僕は耳を塞いだ。
穴家林さんはというと、長谷田から逃れるためか、パンティを履いたままプールに飛び込んだ。
こういう場合、いつも八つ当たりを喰らってきたのは僕である。
ぼけっとしては居られない。彼女の攻撃範囲から少しでも遠ざかる必要がある。
さもなくば、殺されるかもしれない。
割とマジで……。
僕は水を掻き分けてプールの中央にまで移動を試みた。
しかし、その途中何者かに襟首を掴まれる。
振り返ってみると、それは穴家林さんであった。
「ちょっと何するんですか? 止めて下さい!」
彼は聞く耳を持たなかった。
有無を言わせないパワーで、そのまま僕を水の底にまで引っ張り込んだ。
仰向けの状態で水中に引き入れられる形になったため、鼻腔に水が大量に侵入してくる。
河童に襲われた子供の様に、僕は水の底で手足をバタバタ動かすことしかできなかった。
だが、じきにそれすらも叶わなくなる。金縛りにあったかのように、一瞬にして体の自由が利かなくなったのだ。
体勢を立て直すのはもはや不可能である。息継ぎをすることはもっと不可能。溺死必至の危機的状況だ。
しかし、結論から言うと、僕が窒息することは無かった。
より正確に言えば、窒息する暇すら与えられなかった。
体の自由が奪われた直後、僕は乱暴にプールサイドに投げ出された。
痛みを堪えて立ち上がろうとしたものの、何故か体が言うことをきかない。
見ると、何やら《白い紐》のような物で、全身を亀甲縛りにされている。
「何だ?この紐は?」
見た目は干からびたボンレスハムみたい……しかし動きは鮮魚の如くピチピチと、プールサイドを飛び跳ねる僕……。
ドビシャァ……。
水しぶきとともに、穴家林さんが僕の傍らに降り立った。
その姿を見て、《この白い紐は何か》という疑問は一瞬で消し飛んだ。
彼の出で立ちはもはや全身タイツの形状をとどめていなかった。
強いて言えば、フードの付いた白いスクール水着。
剛毛に覆われた逞しい四肢が露出している。
両袖・両脚の生地が綺麗に破り取られているらしい。
まるで、毛深いボンバーマンみたいな出で立ちだった。
穴家林・四肢露出形態の爆誕である。
その姿の悍ましさに、僕は心の底から震え上がった。
しかし、真に恐れるべきは、もっと別の事柄だった。
その事柄とは何か? という設問の解答は、《この白い紐は何か》という疑問の先にある。
6秒。
たったの、6秒。
極限の緊迫状態における体感時間にして、およそ《6秒》。
その僅かな間に、彼は、
全身タイツの生地を破り、
紐状に結び合わせ、
それで僕の身体を縛り上げたのだ。
しかも、水中で!
「うわぁああッ!」
恐怖であった。
生霊とか怪異とか、そんなオカルトでは体験し得ない、もっと別の――――有形力としての恐怖が、僕の全身に纏わりついた。
スピード。
パワー。
変態性。
いずれのパラメータにおいても桁違い。
それが穴家林茂と言う男。
彼こそが真の化物である。
――逃げなければ!
本能がそう告げている。
尺取虫みたいに体を動かして、僕はプールサイドを這い進んだ。
しかし、そんな動作で逃れられるわけが無かった。
穴家林さんは道端の花でも摘むかのようなお手軽さで、僕を軽々と持ち上げた。
そのままヒョイと肩に担ぎあげられる僕。
無様である。
全身を縛る紐が体に食い込み、痛む。
無力感と羞恥心と恐怖の三重苦で心が張り裂けそうだった。
視界が、滲む。
涙まで出てきた。
ボヤけた景色の片隅で、紅く輝く何かが動いた。
紅い光は睫毛に溜まった涙に反射して、幾つものオーブを網膜に結ぶ。
紅い、
紅い紅い、
まるで夕焼けのような、
紅い曙光。
なんてことだ……。
穴家林さんはきっと、僕たちの精神を完全に破壊するつもりなのだ。
あの光が暴力的に炸裂するとき、僕はきっと、僕ではなくなっているのだろう。
だが、事実はそんな危惧とは裏腹だった。
紅い光源は穴家林さんではなかったのだ。
「は、長谷田?」
光り輝いていたのは彼女だった。
プールサイドに立つ長谷田の全身を、紅い光のオーラが覆っている。
驚愕の中で目を凝らし、つぶさに彼女の姿を観察した。
そして、更に驚くべき異変に気付く。
角が、生えていた。
ニンジンほどの大きさの立派な角が一本。
形のいい長谷田のオデコに屹立し、ひときわ強く輝いている。
鬼だ。
彼女は鬼になったのだ。
しかし、角の下にあるその顔は、菩薩のように柔らかな微笑を湛えている。
一人の少女の心に住まう鬼と菩薩が、今プールサイドで顕在化している。
「見えるか――あれが彼女の曙光だ。」
穴家林さんはそう呟いて、慎重に僕をプールサイドに立たせた。
両足までガチガチに縛り上げられている僕は、ボーリングのピンみたい直立した。
そして、歩み寄って来る長谷田の姿を正面から見詰める。
紅く輝く鋭い角の下に、朗らかで柔和な微笑がポゥっと浮かんでいる。
凄まじく、恐ろしかった。
だが、それ以上に美しい。
正直、見惚れるほどだった。
下半身裸で亀甲縛りにされている事実などどうでも良くなってしまう程、僕は彼女の輝きに夢中になった。
「綺麗だよ――薬火ちゃん――。」
彼女を下の名前で呼んだのは、じつに久しぶりのことだった。
彼女の容姿を褒めたのは、生まれて初めてのことだった。
長谷田の角は、一層強く輝いた。
僕は直感する。
――紅い曙光を纏った彼女なら、穴家林さんにも対抗し得る――いいや、きっと彼を霊的にも性的にも打ち倒し、御パンティを奪還することも可能である――穴家林さんを、凌駕するパワーをもってすれば、この青春砂漠すらも打破できる――
――はず。
この輝きは、いずれ穴家林(穴家林)さんをも凌駕するだろう。
根拠はないけど、直感で分かる。
それ程の迫力が、彼女の曙光にはあったのだ。
だから僕は彼女を応援した。
僕に出来るのは、エールを送ることだけだった。
「やってしまえ、長谷田ッ。その手でウサちゃんパンツを取り返せ!」
それに応えるように、彼女は構えた。
左足を踏み出して、やや体の重心を落とし、ラケットを持つ手を肩から後ろに引っ張る。
フォアハンド。
彼女が短いテニス部生活の中で、唯一習得したフォームである。
穴家林さんはいつの間にか、ウサギパンツを頭に被っていた。クロッチの部分が鼻先に来ていて、丁度目出し帽のようになっている。とにかく酷ェ見た目である。はたして、いまだかつて、彼ほどウサギパンツを挑発的に着こなした男が居たであろうか。
そして彼は、
「来いやぁッ」
と叫んだ。
来いと言われて行かない長谷田ではない。
彼女は構えを保ったまま、足だけを滑るように動かすと、目にもとまらぬ速度で我々の背後に回り込んだ。
速過ぎる。
プールの水面に、いくつか水柱が上がっていることに後から気付く。
さすが、長谷田……。
水面を走るとは!
――ビュオッ。
風の悲鳴が聞こえたのは、少し遅れてのことだった。




