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「おい、児玉ッ、戻ってこい!」
長谷田はそう言いながら、僕の臍と耳からケツ毛イヤホンを引っこ抜いた。特に痛みはなかった。無論、内耳や内臓が引き摺り出されることもなかった。
「はっ……僕は、一体?」
「白目を剥いてトランスしてたわよ、あんた。マジでビビるわ」
プールサイドに打ち捨てられたケツ毛イヤホンは、トカゲの尻尾のようにビチビチとのたうっている。長谷田は躊躇なくローファーでそれを「フンッ」と踏みつけた。お前の方がビビるわ、長谷田。
ケツ毛イヤホンは踏まれた途端大人しくなり、やがて漆黒の塵となって空間に溶けて行った。
「ほう。やるねぇ」
穴家林さんはブルースリーみたいな仕草で鼻血を拭いつつ、
「やっぱ才能あるよ、長谷田さん」
と言った。
「やっぱりお前は敵だった訳ね……。OK,OK,その鼻血、止めてあげようか? 心臓を止めれば、きっと出血も治まるわよね?」
長谷田はラケットを一旦中段に構え、振りかぶりながら一歩踏み出した。
もはやテニスではない。
剣道である。
いや、それもちがうか。
ともあれ、
「待て、長谷田!」
僕は長谷田の肩を掴んで制止した。
「うっさい! さっきから、待て待て喧しい! あたしゃ犬か!」
長谷田は僕の手を振りほどいた。
「違うんだ、わかったんだ」
「ああん?」
「この人はホンモノだ」
「ホンモノだろうがニセモノだろうが関係ないわ。敵は敵! 変態は変態! 私にはコイツをぶっ殺す権利がある」
「待てって!」
「待て待て喧しいって言ったでしょ! 聞こえてないの? 耳にケツ毛でも詰まってんの? 耳鼻科行けよ!」
「いいか、落ち着いて聞いてくれ。確かに僕は両耳と臍にケツ毛を突っ込まれ、白目を剥いていた。だけど、決して攻撃されていた訳じゃないんだ。信じられないかもしれないが、俺は浜名君と話をしていたんだ」
「誰よ、浜名って?」
「覚えていないか? モッチーだよ」
「モッチー?」
そこで長谷田の覇気が潜んだ。
「って、中学ん時の、あの陰キャラ?」
「思い出したか」
「思い出したっていうか、なんつーか……」
途端に歯切れが悪くなる長谷田。
「どうした?」
「私の話を聞いても、引かないって約束してくれる?」
「もちろんだ。フルチンの僕に引く権利なんてないよ」
正直、フルチンは今関係ない。
自分でもおかしなことを言っている自覚はある。
だが、何らかの形で狂っているのが、今となってはデフォルトである気もしている。
なので、さして気にはならなかった。そしてそれは、長谷田においても同様らしかった。その証拠に、長谷田もまた、相当おかしなことを言い始めたのである。
「そう……実を言うとね、私には聞こえていたの……変な声が、ずっと」
唐突な幻聴の告白である。
しかし、幻聴自体よりも、彼女がそれを今まで黙っていたことの方が、僕にとっては不思議だった。
「ずっと……だと?」
「そう。なんか、今日、予備校出た時辺りからずっと聞こえてて、マジキモイなーって思っていたの。あとで耳鼻科に行こうかと思っていたくらい」
耳鼻科よりは精神科に行くべきだろう、とは突っ込まなかった。というか、突っ込めなかった。そんな常識的な反応を示すべきフェーズは、とっくの昔に脱してしまっているのである。
「児玉を探して、真っ先にこの学校に行きついたのも、その声に引き寄せられてのことだったの」
モッチーが言っていた所の『虫の知らせ』ってやつか。
なるほど、穴家林さんの言う通り、長谷田には『才能』があるのかも知れない。なにせ、ケツ毛イヤホンが無ければ僕には聞こえなかったその声が、彼女には自然に聞こえていたというのである。そんな才能、いらんけど。
「どうして最初に言っておかないんだ」
「だって、頭おかしくなったって思われたくなかったんだもん!」
「思う訳ないだろう! だって、俺はフルチンなんだぜ。フルチンの方がイカレてるよ」
「イカレ野郎にイカレてるって思われるのが嫌だったのよ! 言わせんなよ、恥ずかしい……」
長谷田のリアクションも若干意味不明であるが、多少の不条理は無視できる程度のスルースキルが、既に我々には備わっていたのだった。
「ともあれ、だ。僕は確信したよ。青春砂漠だろうが何だろうが分からんが、とにかく確信できた。君に聞こえていたその声の主は、十中八九モッチーのものだ。モッチーが僕を助けるため、君に知らせてくれたんだ。それから、穴家林さんも呼んでくれた……」
「訳わかんない。そもそもどうして今、モッチーの話が出てくるのよ。アイツとは県立高校に進学して以来、ロクに連絡も取っていなかったんでしょ。仲の良かったアンタがその体たらくなのに、どうして私がそんな幻聴を……」
「いいか。君は知らないかもしれないが、実はモッチーは、すでに死んでいるんだ……」
「え?」
「死してなお、彼は僕らに教えようとしていたんだ。重大な危機が迫っていることを……。正直な所、僕にも正確なことは分からない。声の主が、真実モッチーだったのかどうかも定かではない。だが、直感が告げている」
「直感?」
「長谷田、僕たちは、たぶん……」
そう。
これは論理的な思考ではない。
ひょっとしたら、ケツ毛イヤホンの後遺症で、二度とロジカルな思考が出来なくなっているだけなのかもしれない。
しかし、この直感だけは、何故か信じられる。
そして、きっと、長谷田にもこの直感は信じてもらえる気がする。
それもまた、直感に過ぎないのだけれど……。
だって、
僕たちは、
たぶん、
いや、
きっと、
「『爆竹事件』の因縁にとらわれているのだから」




