7 帰ってきた児玉君(第3章 了)
ここから4章のラストまで一人称視点(児玉君のモノローグ)に戻ります。
9月14日月曜日午後9時ごろ。
浅い水の底で、息を継げずに死ぬ自分を思い描く。鼻腔と気管が水浸しになり、ヘモグロビンの酸素が品薄になる。筋肉と大脳が怒涛のクレームを主張して、痙攣と壮絶な苦悶を呼び起こす。酸欠に弱い海馬の細胞がプチプチ弾け飛ぶ。その感触を数えながら、僕は正気を取り戻した。
激しい臀部への衝撃と、肛門の耐え難い不快感があった。
水面から顔を上げると、濡れそぼった長谷田がいて、心底驚いたのを覚えている。
正気に戻ったからこそ混乱が深まっていた。プールサイドで、『達磨さんが転んだ時空』に飲まれていた記憶との整合性が全く見いだせなかったからだ。
そんな風に散らかった脳味噌が、僕に警告を発する。
時が跳ぶ!
しかし、その警告はもはや意味をなさなかった。
僕は急いで時計を見た。そして、時計が午後の九時を示していることを認識する。時の流れから注意を逸らしたというのに、ちっとも時は跳んでいなかった。
それゆえ、僕は叫んだ。
「時が、止まったッ」
傍から聞けば、訳の分からないことを言っていたのだろう。
「訳わかんないこと言ってんじゃねーよ! まだケツに氷入ってんのか!?」
そう言って長谷田は僕の頬を軽く叩いた。
「ケツに氷って何だよ! 遠藤師匠じゃあるまいに!」
僕は語気を荒げた。意味不明な言葉を発する長谷田に、やや苛立ちを覚えたからだ。こちとら、究極の非日常体験を経たばっかりで、気が立っているのである。平素ならやり過ごせる程度の理不尽でも、たやすく精神の安寧を逸してしまう。要するに、ナーバスになっているのである。
しかし、自身のナーバスさを認識するより少しだけ遅れて、さらに重要な事実に気が付いた。
水の振動が、オポンティーヌを柔らかく揺さぶるのを感じる。
「んあっ、スッポンポンではないかッ!」
まことに遺憾ながら、僕はどうやら、フルチンらしかった。
「本当に、何も覚えてないの?」
彼女の口調は、大人しいものになっていた。
僕は妙なざわめきを覚えた。ひょっとしたら、僕は無自覚のうちに、長谷田に何らかの狼藉を働いていたのかもしれない。なんというか、とても言葉では言い表しにくい、破廉恥な類の狼藉である。だとすれば、長谷田はさぞかし怒り狂うだろう。いや、それならまだマシな方で、最悪、司法上の制裁を受ける恐れだってある。
そう思った僕は、何とかして自分が普通の状態ではなかったことを説明しようとした。刑事手続きでいうところの心身耗弱・喪失の主張である。
しかし、それは叶わなかった。
別に、『達磨さんが転んだ時空』をどうやって説明すべきか解らなくなったわけではない――いや、無論、それもあるが、長谷田の反応が余りにも意外だったので、ちょっとばかり脳味噌がフリーズしてしまったのである。
なんと、彼女は、僕を抱擁したのだ。
「良かった……帰ってきてくれて……本当に良かった」
耳元で彼女のすすり泣く声を聴きながら、僕は一層困惑していた。
そして、しっかりとオポンティーヌをギルデンスタンさせていたのだった。
***
ここまでで述べたのは、不意の狂気に見舞われた僕が、長谷田の活躍により正気を取り戻すまでの経緯である。
しかし、この日僕たちが見舞われた恐怖は、これで終わりにはならなかった。
むしろ、その後の一連の狂騒こそが本当の意味での恐怖体験であり、僕たちの関係性を改めさせる契機となった。
同時にそれは、僕たちの青春の瑕に、一つの決着を齎すのであるが、その詳細は後編にて述べるとしよう。
【達磨さんが転んだ時空(青春砂漠 前篇)・了】
※4章(後編)に続きます。




