5 爆竹少女の炸裂③
ストップウォッチは正確に時を刻んでいく。小さな液晶画面が示すのはその不可逆性だ。過ぎ去った時間は取り戻せない。そんなシンプルかつ当たり前の事実をこの小さな機械は見せつけてくれる。時間とはいつだって掛け替えのないものだ。大切なものだ。そんな大切な時の中で少女は少年を見つめている。次々と肛門に氷を滑り込ませる、その無駄に無駄のない無駄な所作を見詰めている。幼馴染がケツに異物を挿入するのを黙って見つめているという、その事実。残酷な事実。それもまた流失する時の中に刻み付けられていく。その事実は不可逆的な過去となる。不可逆的である以上、その過去は永遠だ。
かくして少女の過去は増えて行く。延々と堆積し続ける過去の頂上に彼女は佇むしかない。彼女だけではない。およそすべての人間は、その堆積した過去の頂上に佇むしかない。一度生まれてしまったからには、人はその場所から動けない。人は自らの過去の上にしか存在し得ない。一歩たりとも踏み出すことはできない。だからこそ、あらゆる個人の人格は、その過去の上に形成されるといえる。そういう意味では、過去とは人そのものなのだ。
少女は思い出していた。
堆積する過去の上に立ち、堆積した過去を紐解いていた。
小さなころは児玉少年とよく一緒に遊んでいたこと。気弱な彼を虐めるクソガキを彼女がしばしば追っ払ったこと。夏休みの宿題を彼に手伝ってもらったこと。カエルを爆竹で爆殺したことを、彼に窘められたこと。彼女の飼っていた犬が腫瘍で死んで、2人して泣いたこと。それらの記憶が、自動的に、次から次へと思い起こされる。
紐解かれるのは、いずれも児玉少年にまつわる記憶ばかりである。
そして彼女は気付く――。
――児玉少年にまつわる記憶が多すぎることに。
幼少期の記憶に彼が登場するのは不思議ではない。幼馴染であるのだから当然のことだ。不可解なのは疎遠となった中学以降の記憶にも、児玉少年が頻繁に登場することである。路傍に打ち捨てられたエロ本を名残惜しそうにゴミ箱に捨てる児玉少年。律儀に「いただきます」と「ごちそうさま」と言う児玉少年。不人気だった先生が教職を辞した時、ただ一人「今までありがとうございました」と礼を述べた児玉少年。赤信号は絶対に渡ろうとしなかった児玉少年。宿題を決して忘れなかった児玉少年。いずれも大したエピソードではない。だというのに、彼女の中には彼の記憶が溢れている。それはつまり、彼女が少年を見詰め続けていたという「過去」の存在を意味している。
その通りだった。
いつだって、彼女は彼を見詰めていた。
好きだったからだ。
ただし、それは恋愛感情ではない。
もっと普遍的で純粋な感情だった。
いわば、プレーンな好意。
大げさに言えば、尊敬の念に近いのかもしれない。およそ自分とは正反対の性格を持つ彼を、少女はひとつの模範として見立てていたのかもしれない。いや、きっとそういうことでもないのだ。言語化すればウソ臭くなる。それほどにピュア過ぎる好意が、常に存在していたのだ。
あまりにも透明な動機の下に、彼女は児玉少年を見詰めていた。
それに少女はやっと気付いた。
だから、彼女は見逃せなかったのだ――。
――彼が隠し持ったナイフで、高橋の首を切ろうとしたことを。
通称、爆竹事件。
その動機を彼女は再三問われ続けた。
『何故あんな馬鹿なことをしたんだ』
その問に彼女が答えることはなかった。
というか、答えることが出来なかった。
無論、黙秘の理由としては、「児玉少年の罪を隠蔽する」という動機がある。校内にナイフを持ち込んで、同級生を傷害しようとしたのである。いくら未遂に終わったとしても、相当の処罰を受けるはずだ。そんな事態を避けるため、彼女が口をつぐんだのは確かだった。
しかし、それは彼女が黙秘した理由でしかない。
彼女が凶行に及んだ理由にはなり得ない。
彼女自身、自問し続けた。――児玉少年の凶行を未遂に終えさせる手段は、他にも色々あったはずである。それなのに、どうして自分はあれほどの暴力を働いてしまったのか――。答は彼女自身にも分からなかった。
児玉少年の肛門を目の当たりにして、彼女はもう一度、自分自身に問い掛ける。
(――私は何故、あんな馬鹿なことをしたんだろう?)




