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「やらしい乳首しやがって」
「ふぇ!?」
と間抜けな声を漏らしつつ、俺は慌てて手ブラで乳首を守った。やはり、穴家林はアブナイ男だったのだ。ブラを外したのは失策だったかと、後悔した。
しかし、それは杞憂に過ぎなかったらしい。
彼の両頬は、優しげな涙で濡れそぼっていたからだ。
こんなハートフルな涙を流す男が、無抵抗の人間の乳首をクリックする訳がない。
「まだ泣くな、青年。君にはまだ、やるべきことが残っている」
そう言うと、穴家林は熱い掌で俺の肩をガッシリと掴み、立ち上がらせた。
そして、彼は何か堅いモノを俺に握らせた。
「受け取りたまえ」
俺の手には『ギガンティック☆ドラゴン』が握らされていた。結界の中で、ケツに挿して火を点した筒型花火である。
「いいか、それを丹田の前で構えろ。決闘を申し込まれた侍が日本刀を構えるように。」
丹田とは、分かり易く言えば膀胱あたりの下腹部のことだ。
「でもこれ、燃えカスですよ」
「いいから、早く言う通りにしたまえ。涙で湿気っちまう」
俺は言われた通り、サムライの心持で花火を構えた。
穴家林のレクチャーは続く。
「よし。そのまま中二の夏、好きだった女の子の名前を叫べ。」
「えぇ!? そんなこと急に言われても……」
「だまらっしゃい!」
ペチンと頬をシバかれた。
理不尽である。
「そんなことも出来ないで、家族に申し訳なく思わないのかッ!」
申し訳なく思わない訳がなかった。
せっかく生き残ったというのに、こんなみっともない恰好で、みっともない恰好のオッサンにシバかれて、親不孝も甚だしい。
しかし、その申し訳なさが切っ掛けとなった。
俺の初恋の記憶は、ある種の罪悪感を伴っている。変態的状況に伴う背徳感が、その罪悪感に類似しているからだろうか。
穴家林の言葉が引き金となり、甘酸っぱい思い出が蘇ってきた。
***
これは他愛もない思い出話。
中二の夏、俺が少しだけ大人になったエピソード。
多感な中学二年生ならば、恋心の一つや二つ覚えて然るべきだろう。
ご多分に漏れず、俺にも好でたまらない女の子が居た。どれくらい彼女が好きだったかというと、軽くストーキングするくらいは好きだった。具体的には、花粉症の彼女が捨てた使用済みティッシュをゴミ箱から回収しておくぐらい好きだった。
最初はそれだけで満たされた。
ある意味、純愛だったのである。
しかし、中二男子の心は、ティッシュ回収程度では満たされなくなっていった。
より彼女と深く繋がりたい――。
――そんな思いが日に日に強くなっていった。
そして、行き着いた結論が下着の入手である。
もっとも、ドロボーする気は無かった。いかに純愛と言えど、他人の財産権を侵害して良い道理はないからだ。それくらいの自制心は、俺にもまだ残っていた。
しかし、あらかじめ用意したダミーとすり替えるのならば――、
――財産的な損失は無いのではないか。
奇しくも、夏休みの時節だった。
思い立つや否や、ダミー下着の作成に取り掛かった。
俺は毎日彼女の家のベランダを観察した。スリリングなスニーキングミッションの甲斐もあり、彼女のモノと思しきパンティの銘柄を特定することに成功した。
幸いにもそれは近所のイオンモールで売っていた。迷わず購入した。新品だったら怪しまれるので、自分で着用し、ある程度使い古した。約一週間の着用の末、リアルな使用感を偽装することに成功。完璧なダミー下着の出来栄えに、俺は満足した。もちろん毎日洗濯したから衛生面での問題ない。
そして、ついに、下着をすり替える日がやってきた。
俺は物音を立てないように、彼女の家のベランダへと向かった。
どのようにベランダに侵入するかは、下調べ済みだった。
予定通り、エアコンの室外機や窓の凹凸を利用して、一旦屋根に上る。そして、反対側に回り込み、そこからベランダへの侵入を試みた。このルートが一番安全なのである。
両手の邪魔にならないよう、下着は頭に被っていた。
スパイダーマンの様に、シュタッとベランダに着地する。
顔を上げると、彼女が口を開けて固まっていた。
その手には洗濯籠が持たれていた。
想定外の出来事だった。
無論、洗濯物を取り込む時間帯も調査済みだった。
それがなぜか、この日に限り、約2時間も早く、彼女はベランダに出てきたのである。
俺達は、見つめあったまま、しばし硬直した。
一滴。
降ってきた雨が、俺の頬を濡らした。
――畜生……。
――降水確率の確認は盲点だった……。
ヤバイと思った俺は咄嗟に、
「おそろやーん」
といって笑顔を作った。
その瞬間、彼女は「フフッ」と吹き出した。
この時の笑顔が、今も忘れられないでいる。
***
その後、屋内から躍り出てきた彼女の母親に、俺は組み伏せられた。悪行はすぐさま家に伝えられ、10分後母さんが駆け付けた。頭にパンツを被ったまま組み伏せられている俺を、母さんは汚物を見るように見下ろしていた。言葉による叱責は無かった。ただ、罰として、2日ほど晩飯を抜かれた。他の家族からも軽蔑の視線を受けるようになった。
けれども後悔はしなかった。
この経験により、俺は新たな自分自身を見出すことが出来たからだ。
あの時の彼女の微笑が、はたして何を意味するのか、その真相は定かではない。しかし、彼女の微笑を見た時、俺の中に芽生えた感情は確かなものだった。
どうやら俺は、人を笑わせる事が好きらしい。
それが分かっただけで十分だった。
***
「山本……綾香さん……」
彼女の名前と顔、体臭、住所、電話番号、その他諸々のプライベートを思い出す。後を尾行して、彼女が捨てるゴミを回収し、コレクションしていたことを思い出す。彼女に夢中だったことを思い出す。その果てに見出した悦びを思い出す。
綾香さん。
ああ、綾香さん。
俺の愛しの綾香さん。
あぁ。アァッ!綾香さんッ!
「山本綾香さん!山本綾香さん!」
自然と、声が溢れ出てきた。
「もっと大きい声で!」
穴家林が叫ぶ。
「ヤッマッモットッアッヤッカッサァンッ!」
「もっと心を込めて!」
「綾香さん……。綾香さん!アヤカさんッ!アヤカSAAAAANNNNN!!!!」
「良いぞ、良いぞ! その調子だ!」
俺は夢中になって叫び続けた。
近所の目なんてどうでもよかった。むしろ、このみっともないシチュエーションを見てもらいたかった。若林夫妻、春日一家、ゴミ屋敷の西野だけでなく、世界中の全ての人に曝け出したかった。
さあ!
怨霊ども!
見るがいい!
この、みっともない姿を!
そして、笑え!
それが、俺の糧になる!
すると、不思議なことが起こった。
燃え尽きたはずのギガンティック☆ドラゴンから、光が迸り始めたのである。発火しているわけではない。それなのに、筒全体が夕日の様なオレンジ色に輝いている。光はとても暖かいのに、直接握っている手は全く熱さを感じない。
実に、奇妙な体験であった。
「どうなってんの? これ?」
穴家林の顔を見やる。
彼はただ、満面の笑みを浮かべて頷くだけだった。
まったく訳が分からない。
それでいて、言葉を超越した世界で、我々は解り合えた気がした。
「これが……俺の曙光……」
俺の呟きをきっかけに、穴家林も「裕子ちゃん!裕子ちゃん!」と叫び始める。
その視線は、地面に脱ぎ捨てられたセーラー服に注がれている。
果たして彼が、いかなる幻影をそのセーラー服に重ねているのかは定かではない。俺と同様に、昔の思い人をイメージしているのかも知れない。はたまた、件のAV女優のことを想起しているのかも分からない。確かなのは、俺が変態で、彼も変態だということだけだ。
よく見ると、彼の股間も白い光に覆われていた。
さっき、俺を正気に戻させた時と同じ、柔らかな輝きである。
「んっぬぐぅ!」
穴家林が低く野太い呻き声を上げた。
すると、穴家林の股間から、凄まじい光の洪水が発生した。
その圧倒的な光量に晒されつつ、俺は思った。
――穴家林、マジパネェな。
「クゥッ……カハァッ!」
彼に呼応するように、俺もまた喘いだ。
同時に、俺の手元からも、更にパネェ存在が立ち昇った。
それは、一匹の竜だった。
「さあ、始めよう、ドラゴン★ナイト」
言って、穴家林はニヒルに微笑んだ




