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「除霊?」
訳が分からなかった。
俺がこの男から感じ取ったのは、霊能力なんてチャチなものではない。非現実的なオカルトとは比べ物にならないリアルな脅威……物理的で野性的なバトルセンスの片鱗だった。
「たった今、私は君を除霊した。」
穴家林はそう言いながら、歩み寄って来る。その言い知れぬ迫力に、恐怖している自分に気付いた。
臆病を気取られぬよう、俺は反抗的な態度を維持した。
「お祓いが必要なのは、お前の方だろ」
俺は1mほどの距離にまで接近した穴家林に言い放った。すると、彼は逞しい眉毛を眉間にグイと寄せ、眼光鋭く俺の瞳を覗き込んできた。それだけで尿道が少し緩み、10ccほどの失禁を許してしまった。
「どうやら除霊が不十分だったようだな……」
憐れむように俺を見遣ると、穴家林は自分の股間を示した。
見ると、彼の股間から謎の光が滾り始めている。
「見えるか? これが曙光だ」
俺はそれを凝視した。
見詰めずにはいられなかった。自分の意志とは関係なく、意識が穴家林の股間に吸い寄せられる。
その輝きは暖かかった。光の風合いや、それを見た心情のことを言っているのではない。穴家林が放つ光線は、物理的な熱を有していたのである。さながら、小さな太陽が彼の股間から昇ってきている様だった。
不意に、恐怖や不快感と言った、ネガティブな感情が薄れていった。朝日を見上げた時の様に、清々しい気分が満ち溢れる。心の中に凝っている澱が溶かされ、浄化されてゆくのを感じる。
眼窩から差し込む暖かな光が体中を駆け巡っているような気がした。
心身の闇が晴れて、大切なことが分かってくる。
そして、記憶が蘇る――。
***
――ある冬の日の出来事だった。
夕刻、仕事を終えて家に帰ると、妹が玄関先で立ち竦んでいた。門扉の前まで来ているというのに、そこから一歩も動かない。まるで家に入るのを躊躇っているかのようだった。
遠目に見ただけでも、妙な違和感を覚えた。いや、違和感と言うよりむしろ、嫌な予感と言った方が正しかったかも知れない。
違和感の正体はすぐに判明した。
セーラー服である。
冬用のセーラー服を着ているのがオカシイのだ。
ふつう、JKがセーラー服を着ていても、何ら不思議ではない。しかし、ウチの妹の場合は例外だ。彼女が通う高校には制服が指定されていないのである。それなのに、制服らしきものを着込んでいるのが不可解だった。
しかし、それ以外にも気になる点があった。
彼女は、ひどく汚れていたのだ。
「どうした? 野良猫でも追っかけてダクトの中でも這いずり回っていたのか?」
俺は聞いた。
無論、本気で彼女が猫を追っていたとは思っていない。
「……。」
彼女は応えなかった。
無視されたのかと思った。
およそ5秒後、彼女は首を左右に振った。
レスポンスが遅すぎる。その動きは緩慢で、目は虚ろだった。普段のはつらつとした彼女とはかけ離れた、暗く沈んだ印象を覚えた。
まるで生気が感じられない。
只ならぬ事態。
それを直感した。
とりあえず、彼女をリビングのソファーにまで導き、異様な風体の理由を尋ねた。
しかし、ロクな返答は得られなかった。
「わからない……。いつ着たのか、どこで着たのかも覚えていない……。」
その言葉以外は、唇が戦慄くばかりで、言葉にすらならない有様だった。
尋常ではない。その様子から、俺は彼女が何らかの事件に巻き込まれたことを確信した。それも、イジメや性犯罪といった、陰湿なタイプの事件の被害者となった可能性が高い。そう見当付けた。
仮に、俺の推測が真実ならば、両親や学校、あるいは警察に相談し、厳正な対処を求めるのがスジだろう。
しかし、軽率な行動は憚られた。
これは非常にデリケートな問題である。良かれと思っての行動であっても、それが意図せぬ二次被害を生むことがある。人格的尊厳が傷つけられた場合、対処は慎重に行うべきなのだ。
とはいえ、泣き寝入りなんてさせたくない。
ジレンマである。
兄として家族として、俺は彼女に何をしてやるべきなのか。
思い悩み、少しの間、二人で押し黙った。
すると、そいつは突然訪れた。
地震や通り魔のように、何の前触れもなかった。
ケタケタケタケタケタ。
笑い声……だと思う。しかし人間らしさを感じさせない、異様な声色である。まるで回路がショートした機械仕掛けの玩具のように、妹は突然笑い出したのだ。
「ケタケタ、ケケケッ、ケタケタ、ケケケッ」
ショックのあまり、精神が壊れてしまったのだと思った。
不憫な妹を何とかして正気に戻そうと、「大丈夫かよ……」と言って、肩を揺さぶった。
これが、良くなかった。
妹は、およそ16歳の女子高生とは思えない怪力で、俺の胴体を掴み、自分の頭より高く持ち上げた。そして、そのまま床に、思いっきり叩きつけた。内臓がギュッと圧縮され、頭がバスケットボールみたいにバウンドする。
「う……うぅ」
背中と頭を強打した俺は、呻き声を出すのが精一杯で、呼吸すらマトモに出来なくなった。
――殺される。
そう思った。
それはヒトに対して覚えるような恐怖ではなかった。不意に遭遇したヒグマなどを前にしたときに覚える類のものだった。
対話不能な攻撃的存在――。
――そいつに俺は殺されかけている!
騒音を聞きつけた弟がリビングに駆けつけてくれた。
弟は現職のプロレスラーと遜色しない屈強な肉体を持て余したマッチョ・ガイである。大学では学生プロレス同好会を立ち上げるほどだ。一瞬だけ、『よかった。助かった』と思った。彼の腕力をもってすれば、荒ぶる妹を鎮静させることも可能と思ったのだ。
しかし、すぐに思い直す。
敵うはずがない、と。
ふつう、重い物を持ち上げる場合、人間は体の動かし方に注意を払う。重い物を抱えての不用意な体重移動は、自身の身体を傷めかねないからだ。対象が自分の体重よりも重い物――ましてや他人の身体を持ち上げる場合なら尚更だ。結果として、動作にタメが生じる。「よっこいしょ」ってな具合に。
しかし、妹は違っていた。彼女はまるでトイレットペーパーをトイレの棚に積むような手軽さで俺を持ち上げ、床に叩きつけた。通常人の膂力を遥かに凌駕したパワーと強靭な骨格が無ければ不可能な芸当である。
彼女の怪力は、異常だった。
弟でも到底敵うまい。
仮に、対抗し得たとしても、双方に甚大な被害が出る。
『逃げろ!』
そう警告しようとした。
だが、喉が思うように鳴ってくれない。「ヴヴ」と、短いうめき声が漏れるばかりだった。
「何があったんだよ……」
床の上で呼吸困難に陥った俺を発見すると、弟は驚愕の表情を浮かべ、駆け寄った。
『後ろに、気をつけろ!』
依然として、声は出ない。
もどかしい。
俺を見下ろす弟の身体がフワリと宙に浮く。
妹が、彼のベルトを掴み、持ち上げたのだ。
「え?」
ダンッ!
弟の体は無慈悲にフローリングの床に叩きつけられた。
俺はその様子を見詰めることしかできなかった。
妹は依然として「ケタケタ」と笑っている。
薄汚れたセーラー服を着て、奇声を上げる彼女の姿は、もはや私の知る妹のものではなかった。もしかしたら、この時すでに、彼女は別の存在に変わってしまっていたのかもしれない。
彼女は笑いながら、キッチンの方へ向かうそぶりを見せた。
キッチンには母が居る。
「か…母さんが危ないッ!」
比較的軽傷の弟が、よろめきながら立ち上がり、妹の後を追った。俺も遅れて弟に続いた。我々兄弟の動きは、乾いたアスファルトの上を這い進むナメクジの様に、無様で緩慢だった。
廊下に出ると、妹の後ろ姿が見えた。三半規管を潰された猫のように、あちこちぶつかりながら彼女は進んでいた。それでも、俺たち兄弟は彼女に追い付くことが出来なかった。
廊下の壁に頭を擦り付けながら、妹はキッチンに漸近する。相当強い力で頭を押し付けているのだろう。壁には彼女の髪の毛が何本も張り付いていた。うっすらと、血も滲んでいる。
妹を止めることは出来なかった。
ついに、彼女はキッチンに入室する。
「どうしたの!? 恵美!」
母の声が廊下にまで響くのと、父が2階から降りて来るのは同時だった。
父は瞬時にして只ならぬ事態を察し、キッチンに駆けこんだ。
一瞬の間があって、母の悲鳴が聞こえた。
父の怒声が、それに続く。
そして、妹の狂笑。
「クソッ」
弟が身をよじらせるようにして、台所に転がり込んだ。
俺は依然として、廊下に這いつくばっていた。
途端、キーンと、耳鳴りがする。
濁流のように押し寄せる業火が、一瞬見えた気がした。
***
それを最後に、俺の記憶は集中治療室にジャンプする。




