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7月14日(火)25:30頃。
小学校に続く路地で、強そうなヤンキーが弱そうなヤンキーを暴行していた。
馬乗りになって、振り上げた拳を何度も顔面に振り下ろしている。下のヤンキーはすでに無抵抗で、気絶しているのか死んでいるのかも分からない有様だった。
こちとら、日頃暴力沙汰とは縁遠い生活をしている身分である。TVの格闘技中継でさえ目を背けるレベルだ。そんな生粋の平和主義者にとって、その光景はあまりにもショッキングだった。その衝撃たるや、祖父の本棚に魔法少女凌辱モノのエロアニメDVDを発見した小3の夏休みに匹敵する。
僕とて暇を持て余しているわけではないので、ここでトラブルに巻き込まれるのは避けたかった。と言うか、巻き込まれた場合、そこから自力で脱出できる自信が無い。なにせ腕力が無い。たぶん、平均的な身体能力を備えた中一男子なら、素手で僕を再起不能にできるレベルである。とにかく、それくらい腕っぷしには自信がない。
腕力がダメとなると、有力な自衛手段は金銭的なものになってくる。19歳の時、訳あってシンディー・ローパー風の女子高生に命を狙われたことがあるが、かかるピンチも金の力で乗り切った。当時は持ち合わせた1万2千4百円で窮地を切り抜けた僕であるが、生憎、今日は514円しか持っていない。我が身の安全を購うには甚だ心もとない金額である。
となると、仮にトラブった場合、考え得る限りの卑屈な手段をもって彼の衝動を収束させる必要が生じるだろう。舌先で靴底のガムを引き剥がす程度なら造作もないが、それ以上の奉仕は流石にできない。好きで守っている純潔ではないが、こういう形で失いたくないし、相手もそんな汚いもの要らないだろう。
以上のことを考慮すると、僕がこのまま直進するのは得策ではない。「ちょっと通りますよ」などと言って傍らを通行しようにも「ちょいまてや」などと言って引き止められる可能性もある。平素なら「はい、何でしょうか」と応じる程度に社会性のある僕だが、凄まじい暴力を目の当たりにしている手前、そうやすやすと立ち止まる訳にもいかない。弱そうなヤンキー君同様の悲劇に見舞われる蓋然性はかなり高い。加えて僕は弱そうなヤンキー君に輪をかけて弱いだろうから、命の保障すら危ぶまれる。軽く殴っただけで僕が死んでしまったとなれば、強そうなヤンキー君にとっても想定外に違いない。お互いに不幸な結末と言えよう。
よって、僕は進行方向を90度変換し、
『最初からこっちに行きたかったんですよ、僕は』
というオーラを振りまきつつ、脇道を進むことを余儀なくされた。
紳士は常に危機管理に余念がない。
***
迂回ルートの先には道幅4メートル程度の細い路地が伸びていた。
道の両側には、シャッターの下りたお店や歯科医院、その他民家等が並んでいる。いずれも、薄ぼんやりとした明りを軒先に灯しており、完全な暗闇という訳ではない。植木鉢や一輪車など、生活感を覚えさせるものが玄関先に安置されていたりする。僅かながら明るい昼間の雰囲気を感じることが出来る。
でも、何故だろう。
不気味な気配が否めなかった。
暗闇や静寂に対する潜在的な恐怖の他に、何か不安を招来する要因があるらしい。足を進めるたび、心細さは増して行く。人気のない、見慣れぬ道を一人で歩いているせいで、疑心暗鬼になっているのだろうか。言葉では表現しきれない違和感の触手が、少しずつ手足に纏わりつくようだった。
10分ほど歩き続けた頃だろうか。
やっと僕はその不安の正体に思い至った。
(道が、どこまでも続いている所為だ。)
いや。
その表現じゃ語弊がある。
道が続くこと自体は問題ではない。
問題なのは、道がいつまでたっても『分岐しない』ことだ。
来た道を振り返る。
両サイドに、家屋が『みっちり』並んでいる。
いつまで経っても、どこまで行っても、その閉塞感が続いている。
それは前を向いても同じことだった。
――この脇道には、脇道が存在しないのである。
ちょっとやそっとの距離なら問題はなかっただろう。
しかし、ヤンキーを回避してから、かなりの距離を進んだはずだ。少なくとも10分以上は歩き続けている。僕の体内時計が正確であり、歩く速さが時速5キロだったと仮定すると、この『みっちり』した道は1km弱もの間分岐することなく続いていることになる。
ちょっと普通じゃない。
ふと、嫌な光景が脳裏をよぎった。
先程のヤンキーに闇討ちされるという自虐的な妄想だ。
通常の路地ならば脇道に逃げ込むなどの工夫の取りようがある。
だが、ここは脇道ゼロの一本道。
小細工の取りようがない。
腕力だけでなく、身体能力の全般において、僕は小学生レベルのステータスを誇っている。仮に逃走を図っても、中坊未満の脚力では逃げきれない。お互いの脚力だけがモノを言うスポーツマンシップに則った逃走劇の果てに、陰惨な弱い者いじめが展開されることだろう。
冒頭のバイオレンスがフラッシュバックする、
動悸が、早まる。
もっとも、動機の原因は暴力ヤンキーだけではなかった。有形力に対する恐怖以外にも、何やら不可思議な違和感を覚えている。
繊細な僕のことだ。
いつ第六感に開眼しても不思議ではない。
一旦開眼すれば、道すがら浮遊霊たちと世間話をするレベルにまで容易に達するだろう。そして、メンタルクリニックの門をバンバン叩き、向精神薬をジャンジャン処方してもらうのだ。やがて、草食系メンヘラ男子キャラを確立し、痛いポエムを量産し、シャレオツなバンドのヴォーカルを務める。それが、大手レコード会社の目に留まり、メジャーデビューが確定し、中高生の共感を得るニューエイジアーティストとして、印税生活を余儀なくされるのだ――などと愉快なことを考えて恐怖をやり過ごそうとした時である。
不意に、白いものが目に留まる。
電信柱の根元から、何かが覗いているらしい。
――それは、乾燥してひび割れた、異様に白い手だった。
心臓が食道をノックし、嘔気と動悸を同時に誘う。
しかし、良く見ると、それはただのコンビニ袋だった。
THE・『幽霊の、正体見たり、枯れ尾花』状態。
ヤンキーへの恐怖と恐喝JKへのトラウマが契機となり、疑心が暗鬼を生じているのは明白だ。加えて、特異な立地状況に対する漠然とした恐怖がある。それらが相まって、恐ろしい何かを想像してしまっているのだ。
あるいは、本当に、僕の中に眠るスピリチュアルなセンスが、気弱な警鐘を鳴らしているのだろうか。
いずれにしても、必要以上にビビっている。
一瞬、引き返そうとも思った。
しかし、引き返せば例のヤンキーと対峙する可能性がある。
悩ましい。
胡散臭い霊感と、肉薄するヤンキーへの恐怖が拮抗する。
じっとりと汗をかいて逡巡した後、僕は歩き続けることを選択した。
それから10分かけて、更に1㎞ほど進む。
それでも、延々と続く道の呪縛からは逃れられなかった。
来し方には約2kmの道が分岐なく続いている。そして行く末にも、似たような風景が、相変わらずの延々さで続いている。なんだか、そういうタイプの地獄に落とされたような気さえしてくる。ひょっとしたら僕はもう死んでいて、魂の浄化のため煉獄を堂々巡りしているのではないか。そんな非現実的な妄想まで抱き始める。
まばらに配置された街灯と点在する民家の玄関照明。それらがぼんやりと照らす路地。その直線経路のどこかに、正気を落っことしてしまったかのような錯覚を覚える。僕が異常なのか、道が異常なのか、はたまた両方異常なのか、とにかく何かが普通じゃない。心身に得体のしれない不安が纏わりついていている。まるで、見えない紐で亀甲縛りにされているような不快感があった。
僕は幾度目かの逡巡をする。
既にあの時から20分は経過している。
今なら引き返しても、件のヤンキーに出会わないで済みそうだとも思えた。
流石に20分以上もの間、無抵抗の者を一人で殴り続けているとは考えにくい。そんなことする奴は悪党を通り越してもはや変態だ。彼が変態的ヤンキーである可能性も完全には否定できないが、その時はその時だと腹を括るしかない。そのくらいの男気は僕にもまだ残っている。
とにかく、リセットしたい。
そういう衝動に駆られていた。
ややノイローゼめいた躊躇いの末、漸く引き返す決心を固める。
そして僕は、両の拳を固めに握り、あえて勇ましく振舞いつつ、来た道を引き返して行った。
既に手遅れだとも気付けずに。