僕はキャラ立ちが少ない
「えー、私、平沢均は、このような名前ではありますが、皆様にとって特別な存在でありたいと願い、今年一年の抱負としまして、皆様にある誓いを立てたいと思います」
終業式が終わり、クラスの皆が下校したあとの教室は静かだった。僕は教卓の前に立ち、以前から考えていた重要な儀式の予行演習をはじめた。
――ここで勇気を出せなければ、僕の高校2年目の生活も地味なものに終わる。
僕の1年目の高校生活は、よく言えば平穏無事に終わった。特に大きなトラブルを経験することも、人間関係の軋轢に巻き込まれることもなかった。成績も中の上くらいの位置をキープしている。大過なく過ごせたことは良いことであるには違いない。
しかし、これは僕の消極性のもたらした結果でもある。強く自分を主張せず、友人と対立しないよう気を遣い、周囲との調和を心がけて生きてきた結果、僕は能力ステータスが全て平均の範囲内に収まるような人間になってしまった。
趣味というのもこれまた面白みに欠ける人物が履歴書に書く代表例の「読書」と「映画鑑賞」である。どちらも大して詳しいわけではないので趣味の話題で人を惹きつけることもできない。
僕は成績では石倉にはかなわないし、運動神経なら田岡には及ばない。話術の巧みさでは八嶋の後塵を拝し、女子を惹きつける能力では真壁を仰ぎ見ることになる。こうした友人たちの中にいて、とりたてて尖った能力を持たない僕は常に空気のような存在となっていた。特徴がないことが特徴、という状況に僕は甘んじていたのだ。
だが、来月からは新しいクラスになる。人間関係はリセットされる。4月になったら1人1人が前に出てクラス全員の前で自己紹介をさせられる。まだ人間関係が流動的なうちに、強く僕を印象づけられるような自己紹介ができれば、この次の1年間はまた違ったものになるだろう。ここはひとつ勇気を振り絞らなければならない。自分の壁を破るのだ。
「私、常に皆様の心に火を灯すような、そんな存在でありたいと思っています。人として生きていて、その存在を周りに忘れられてしまうことほど悲しいことはありません。なので、私はこのクラス全員の趣味や特技や好きな食べ物を、心に刻み込むことをここに誓います」
ここまではよどみなく話すことができた。家で何度も練習した台詞なので、もうすっかり暗記してしまっている。肝心なのはここから先だ。
「もし世界中が君を敵に回しても、俺だけは君の味方だ。もし世界が君のことを忘れても、俺だけは君のことを忘れない。たとえ何があっても、俺が君のそばにいる」
どこかで聞いたような台詞だが、とにかくインパクトを与えられればそれでいい。僕は今まで無難に徹しすぎたのだ。ここらで少しは冒険しなければいけない。
「だから、何か辛いことがあったら俺を呼んでくれ。俺も君の名を呼ぼう。心に刻み込んだ君の名を!」
自己紹介がクライマックスに達した途端、教室のドアが開く音が聞こえた。音の方向に目を向けると、眼鏡をかけた女子生徒がその場に立ち尽くしていた。
「平沢君、私の名前、呼べる?」
しばらく気まずい沈黙が続いたあと、女子生徒は口を開いた。
「あ、ええとその、雲部さん、だよね」
「下の名前は?」
「……ごめん、記憶力がよくなくて」
無口な雲部さんの存在感が、このクラスにおいて薄いものであったことは否めない。しかし、来年の抱負に反する行為を今この場でしてしまったことを、僕は悔いていた。
「しょうがないよ。私目立たないし、平沢君と話したこともなかったしね」
雲部さんは抑揚のない口調で話した。あまり気にしていない様子だが、だからといって彼女の名前を知らなくていいことにはならない。
「本当に申し訳ない。名前、教えてくれるかな。絶対に忘れないから」
「でも、来年同じクラスになるかはわからないよ」
「それは問題じゃない。誓いは今から守らないと」
「瑛子」
雲部瑛子、か。どこかで聞いた名前のような気がするが、いい響きだ。すんなりと胸に入ってくる感じがする。
「ねえ、さっきのって来年の自己紹介なの?」
雲部さんは教卓のそばの机の上に腰掛け、僕に問いかけてきた。
「あ、ああ。来年はちょっと趣向を変えてみようかと思って」
見られてしまったからには本当のことを話すしかない。おそらく彼女には、僕が自分を変えたがっていることも全部見透かされていることだろう。
「なんだか、ちょっと無理をしてるように見える」
雲部さんは少しうつむきながら言った。やっぱりそう見えるのか。
「もう少し攻めてみようと思うんだ。こう、僕だけにしかない何かが欲しくてね」
「それ、本当にないと思う?」
雲部さんは顔を持ち上げると、眼鏡の奥からまっすぐに僕に視線を向けてきた。
「薔薇の名前が十種類以上言える人、私、平沢君以外に知らないよ」
「ああ、それはそうだけど……」
半年ほど前、現代文の時間に教師の授業が脱線して、薔薇の花言葉の話になったことがある。その時なぜか僕は指名され、薔薇の名前をいくつ言える?と訊かれたのだった。
「あれはたまたま知ってただけだよ」
「でも、シャルル・アズナボールを知っている人はなかなかいないと思う。そこまで詳しいのに平沢君にしかないものがないなんてことはない。私なんて本当に何もないよ」
それは、アニメの登場人物の名前に似ているから覚えていただけだ。
「雲部さんは、薔薇が好きなの?」
「好きというか、両親が薔薇が好きだったから。子供の頃からずっといろんな薔薇に囲まれて育ったから、けっこう詳しくなって」
「じゃあ、雲部さんにも得意なことはあるじゃないか」
「こういう環境だったら詳しくなっても当たり前だよ。それに薔薇に詳しくたって、結局私名前も覚えてもらってないし」
雲部さんは存在感の薄さを気にしていないようで、結構気にしているようだ。僕は改めて自分の記憶力の悪さに恥じ入る。
「雲部さんの問題じゃないよ。僕が周りをよく見てなかっただけだから」
「エーコでいいよ」
「じゃあ瑛子、さん。その名前は絶対に忘れないから。これは約束するよ」
「うん、ありがと。じゃあ私そろそろ行くね」
雲部さんは少し寂しそうに笑うと、そのまま教室を後にした。
彼女の後ろ姿を見送りながら、僕は彼女の名前のモデルになったであろうイタリアの作家の名前を思い浮かべていた。僕が少しだけ薔薇に詳しくなったのも、彼の小説のタイトルに魅入られたからなのだ。
雲部さんは自分には特別なものは何もない、と言っていた。彼女がそう感じてしまったのは、僕が彼女の名前を知らなかったこともあるのだろう。僕は自分が目立つことばかり考えていたことを少し反省し、彼女の心の隙間を埋める方法についてしばし考え込んだ。
年度が明け、僕は高校二年生になった。廊下に張り出されたクラス名簿を見て、僕は雲部瑛子と同じクラスになったことを知った。僕は自己紹介の内容に大幅な変更を加え、新たな一年のスタートを切ることにした。
新学期が始まり、僕の自己紹介の順番が回ってきた。僕は教卓の前に立つと、雲部さんの位置を確認した。彼女は窓際の後ろの方の席で、下を向いたまま僕のほうを見ようとしない。
「僕は平沢均といいます。我ながら平凡な名前だと思いますが、そんな僕にもひとつだけ、誇れることがあります」
僕はいったん言葉を区切ると、大きく息を吸い込み、用意していた台詞の続きを読み上げた。
「僕は薔薇が好きです。好きになったきっかけは、『薔薇の名前』という小説のタイトルに惹かれたからですが、もうひとつの理由はこの小説の作者の名前です。この作者の名前は不思議な響きがあって、なぜか心に残るんです。僕はこの作者の名前が好きなことにかけては、誰にも負けないと思います」
そこまで一息に話すと、僕は次の一言に力を込めた。
「その人の名前は、ウンベルト・エーコと言います」
雲部さんは弾かれたように顔をあげた。遠目にも、眼鏡の奥で彼女の目が大きく見開かれているのがわかる。
僕のこの一年は、去年とは少し、違ったものになりそうだ。