かぐや姫 6
その日から、家に帰るとハナは毎日カグヤに「笑顔レッスン」をした。無抵抗なカグヤを見ていると少し安心するからでもあり、なんだか彼女を放っておけないからでもあった。自分でも彼女を家から蹴りださない理由付けを何故か欲していることに気が付いていた。しかし、理由付けを止める気にはならなかった。そうすべきな気がした。
次は何をすればいいのですか、そう訊いてくるカグヤがハナはとても愛らしかった。
「はい、いー」
「い、い……」
二人は鏡の中で微笑んでいた。ハナはこのぎこちない微笑みを好きになり始めた。そして少しずつ、この少女を信じたいと思い始めていた。
それから一週間、レッスンは続いた。夜多くまで映画を観て、カグヤに感情を伝授した。
「君の瞳に……乾杯」決まった、そう思ってハナがカグヤを見ると、カグヤは震えている。
「ここは泣くシーンだって!」
カグヤは震えて、「吉井さん……全然似ていませんよ」
少しづつ色々な表情を見せるようになったカグヤを見て、ハナは少し安心してはじめていた。
カグヤが家に来てから数日が経った。その間も人は死に続け、都市の警備は強まっていく一方だった。それでもハナはレッスンをやめなかった。心のどこかでカグヤを棄てられなかった。
皆の不安が高まる中、ハナはカグヤとどう接してよいか測りかねていた。どうすれば良いのだろう。カグヤを信じたい気持ちとそうでない気持ちがせめぎ合っていた。
信じるべきじゃないわ。あんな奴。ハナの頭の中にカグヤの筋肉質な肉体が浮かぶ。質問板に頼めば、何人もの人が「警察に届けるべきだ」と言うはずだ。
友人もそう言うのはずだ。私はどうするべきなのか。自分で判断できない事はすぐに人に言うのが自立した大人なのか。
それとも……。
ハナ、この事はお母さんには秘密だよ。
ハナははっとし、父親の声を振り払う。電車がハナの不安をあおるように揺れていた。しっかりしなきゃな、ふとハナは思った。
アパートに帰るとベッドにカグヤがいなかった。ハッとして部屋を走ると、窓の外から規則的な荒い声が聞こえた。
焦って窓を開けると、狭すぎるベランダに連なる小さな庭で見知らぬ少女がシャドーボクシングのようなことをしていた。
ハナは慌ててバックから教科書を取り出し、盾にした。
「あ、吉井さん……お帰りなさい」
見知らぬ少女は金色の髪を揺らしながらハナにあいさつした。カグヤとは違い、優しげなたれ目が焦るハナを見つめていた。余分な筋肉も脂肪も一切ない絞られた体が湯気を立てていた。
「誰」
ハナの言葉など耳に入らないようで少女はベランダから部屋に入ってきた。
「誰ってカグヤですよ」少女は照れ臭そうに言った。もわっと汗の臭いと熱気が部屋に充満した。
「はぁ?」カグヤと名乗る少女は窓を閉め、微笑んだ。そのぎこちない笑みと強靭な肉体だけはカグヤの面影を残していた。
「本当に……?」
「ええ」カグヤは静かに金髪を掴み、微笑んだ。金髪はするりと外れ、カグヤのベリーショートが顔を出した。
「あわわ……」
驚くハナをしり目にカグヤは目じりをもむように目に触った。さっきまでのたれ目は、普段通りのカグヤのつり目に戻っていた。よく見るとその眼の周りには化粧跡が残っていた。
「洗面所借ります」
「は、はい……」ハナは目の前で起こっていることをどう整理してよいかわからず、ただその光景を眺めていた。洗面所からは水を使う音が聞こえた。
ハナはぼんやりとその場に立ち尽くしていた。すぐにカグヤが現れ、
「今日はコンビニに行きませんか?」
「え、あ……はぁ」ハナの家に来て一週間、泣いてばかりだったカグヤとは似ても似つかぬ行動にハナは少し驚いた。
「良いよ。何か買いたいものでもあるの?」
肩の荷物を下しながらハナが訊くと、
「ええ」カグヤは少し照れたように笑い、「先に外に行っていてくれませんか、着替えがあるので」
「わかった」
ハナは言われたとおりに外に出て、ぼんやりと空を眺めていた。風が静かに髪を弄ぶ。何をしているのだろう。もしかしたら本当は男だから着替えを見られたくないとか、ナイフを隠し持っていたりして。
とめどなく疑い深い思いが浮かんできた。
「お待たせしました」
カグヤが照れ臭そうに部屋から出てきた。
「あ、着てくれたんだ」
カグヤは、謎の入金でハナが買った服を着ていた。さっきまでの疑心暗鬼はすぐに消え、
「へぇ……結構似合うね」
ハナはボーイッシュなカグヤの姿に惚れ惚れした。はたから見ればボーイッシュと言うより男そのものであった。
「そ、そんなことないですよ」
カグヤはベリーショートを揺らして微笑んだ。唇から覗く八重歯がかわいらしかった。
「さ、いこっか」二人は肩を並べて歩き始めた。夕焼けが空を朱に染め始めていた。
家からにぎやかな声が聞こえだす。ハナはもしかしてカグヤが消えてしまっていたりして、と思いふとカグヤを見た。
「どうかしました?」夕焼けを眺めていた横顔がハナの方を向いた。
「うんうん、別に」
ぼんやりと一人だったころの事を思い出そうとするけれど、それは思い出せなかった。ちょっとおかしな子だけど、いないよりはずっといいような気がした。蹴りだすなんて到底考えられない。
「あ、ここです」カグヤが指さしたのは大学生が良く使うコンビニだった。
「入ります?」カグヤは入る直前でハナに言った。
「え?」
ハナは一瞬考えて、
「カグヤお金あるの?」
カグヤはその問いにきょとんとして、「ありませんよ」
「はぁ……?」
ハナが考えている間にカグヤは店の中に入ってしまった。軽快な音楽が風に乗って耳に届く。
まさか、万引きとかじゃないだろうな、ハナの肌を冷たい物が舐める。軽快な音楽が恐怖を増幅させた。
「あ、ちょっと!」
店員がびくりとしてハナを見た。ハナは小走りで店の中を見た。しかし、カグヤの姿はどこにもなかった。
もしかして、トイレ……。ハナは真っ青になりながらトイレに駆け込んだ。すると案の定、カギが掛かっていた。一瞬でカグヤへの疑惑が蘇る。
今すぐにでも通報するべきなのだろうが、なぜかする気にならない。
「あっ開けなさい!」
ハナはドアノブを乱暴にねじった。しかし、中からは一切の音も聞こえてこない。もしかして隠し持った凶器を細かく砕いてトイレに流していたりして。脳裏に冷たい戦慄が走る。
「今ならまだ大丈夫よ、ねぇこんなことやめましょうよ」小声で呼びかけるが応答はない。ハナの額を冷たい汗が伝う。
「どうかしました」必死なハナとは対照的にカグヤは何でもない顔でトイレから現れた。
「あわわわ……」ハナはカグヤの体を弄ろうとして、叩かれるのを恐れ、手を止めた。
「お願いだから……こんなことはもうやめて」
ハナはできるだけ静かな声で言った。カグヤは眉間にしわを寄せた。
「それはできません」鋭い目が周囲を舐める。その瞳は使命感に燃えていた。
「次の店に行きましょう」
ハナの華奢な手を掴んでカグヤは店を飛び出した。
「ちょっと!」
ハナはカグヤの手を離して、
「こんなことはもうやめてよ。お願い」
カグヤは眉を寄せ、むっとして言った。
「お願いします。いつか分かる日が来ますよ」
これ以上言えば殺されるような気がしたのでハナは黙ってしまう。やっぱりこいつが殺し屋なのか。
「次は東店に行きましょう」カグヤは何事もなかったかのように歩き出した。
ハナは仕方なく従うことにした。夕闇が静かに空を青に染めていた。
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