三十
「そもそも、椿会に纏わる『瓶』は今に聞いた話じゃない」
そう吐き捨てた万葉の言葉に、意外にも搗山は納得したように頷いていた。
「だろうな」
「……昨晩と言ってることと態度がずいぶんと違うわね」
かこん、と中庭の鹿威しが小気味よく鳴いた。
右耳を小指でほじくりながら胡座をかく搗山に、果たして聞く耳があるのかないのか、万葉は呆れたようにその面を一瞥しながら言葉を続けた。
「椿会が代々守り続ける『瓶』っていうのも、都市伝説みたいに面白可笑しく昔から語られていた眉唾ものの話題で、不老不死の薬だのなんだのと破落戸共が騒いでいるけど、実際のところ誰も信じちゃいない」
「まあ、都市伝説みたいな扱いをされてるあやかしが、不死について語るのもちゃんちゃら可笑しな話だけど」と鼻で笑いながら付け足せば、今度は搗山が呆れたように口を挟んでくる。
「アンタも、妖しものだろうが」
「そうね。確かに、存在のあやしい妖しものだわ」
「可笑しな言い方をするな……まるで、人間みたいなことをいう」
「まさか」
人であることを、捨てるか捨てないか以前に、その選択肢を疾うに奪われた万葉に、「人間」である自負は既に無い。
佐々木万葉は、人でも無ければ妖しでも無い。
存在自体があやしい『なにか』である。
「そういえば、ここも一応『隠り世』の一部なのよね?」
「あ?」
唐突に繰り出された質問に、搗山が薄い方眉を跳ね上がらせると、元から悪かった人相がさらに悪化する。
だが、本人はべつに凄んでいるつもりはないようで、万葉は気にせず口を動かした。
「まあ、裏新宿を取り仕切ってるんだから、裏新宿のどこかにあるんだろうけど」
「ああ、それがどうかしたか?」
「――沼」
たった一言。
淡々とした声でそう呟けば、だらしない恰好で居た男に、ぴん、と糸が張り詰めたような雰囲気が加わった。
沼――水を意味する「さんずい」に、「招」が合わさった、小学生でも書けるとても単純な形の、漢字。
「『内藤新宿』と名付けられる凡そ三百年前まで、ここら一帯はそう呼ばれていた」
なぜ、此所らが「沼」と呼ばれていたのかは、誰もはっきりとした理由を知らない。
この地帯に沼があったという記録は残っていないし、そもそも誰も「呼び名」に興味もなかった。
しかし、万葉はこの呼び方に、細い蜘蛛の糸のような、小さな引っかかりを覚えていた。
「そもそも、『新宿』とはどんな場所なのか?」
全ての問題の根幹はここにあると、万葉は『新宿』を示すように畳を指先で叩いた。
「――異様な霊気に満ちた、楽園の地」
東京都市の中でも一際つよい色彩を放つ、大きな街。
天下取りを志す大空けどもが、集う恰好の戦場ないし狩り場でもあり、ありとあらゆる者が最後に辿り着く、掃溜めの区域ともいわれる。
その事の由は空気中に存在する霊濃度、つまり、霊子の量にあるわけだが――何故、こんなにも他所と違うのか。
専門家でもある陰陽寮の観察員や、陰業警察庁の霊視官、果てには科学技術振興機構の研究チームが、こそこそと新宿地区の地脈からあらゆる物を採取して、辺りに生息する子妖怪どもを浚っては研究を進めているそうだが、強固とした学術的根拠は未だ発見できていない。
「私も、学者が挙って掲げた推論を色々と調べるために新宿のあっちこっちを回ったけど、どれも本当に推測の域を出ておらず、けっきょく唯の無駄骨」
『新宿』という区域が高濃度の霊気に満ちているのは、その蔭に潜む夥しい数の妖しによるものなのか。
循環する空気中の霊子の流れに作用する、何らかの仕組みとなる環境が、どこかで出来上がっているのか。
或いは、霊子をその地一帯に留める何らかの『結界』または『呪具』が何処かに眠っているのか。
「この地帯が何故、こうも現実に影響を及ぼすほどの異常な霊気に満ちているのか、諸説はあっても、一度も頑固とした証明を持って、謎が解明されたことはない」
謎の全貌どころかその尻尾の先でさえも、この何百年の間、人類も妖しも掴めていないのだ。
これだけの人間と妖しが何百、何千年も、太古の昔からこの地に居たというのに。
そもそも、いつからこの地帯はこれほどの霊気に満ちていたのか――その答えさえも判然としていない。
しかし、と万葉は言葉を付け足した。
逆接を使って、そんなことはどうでもいいのだと彼女は言う。
そんなことよりも、だ。
「要点を絞らず『新宿』について、いくつか別の事柄を見てみると――霊地どうのこうのの問題と一緒に、もう一個、違和感に気づくんだよね」
ぴっ、と白い指先で搗山を指し、「あんたたちさぁ」と、行儀悪く胡座をかいた膝に、頬杖をつく。
白く柔らかそうな頬が掌につぶされて、赤い唇を歪めた。
「なんで、ここに居るの?」
搗山はなに一つ、答えなかった。
ただ色のない口元を緩ませて、昏い瞳で万葉を眺めている。
どうやら、まだ、何かを喋る気は無さそうだ。
仕方がない、話を戻そうと万葉は小さく嘆息した。
「いいか?」と、乳白色の畳をまた、とんと細い指先で叩く。
「新宿の異常な濃度は、新宿の下――つまり、この地の下にある、馬鹿みたいな数の霊脈にある」
どこからか樹木のように枝分かれを繰り返しながら、伸びる霊脈。
その拡張範囲と規模は他区と比べるまでもなく、圧倒的な壮大さを誇っていた。
だが、どうやってその不自然なほどの数が形成されたのか、空白の経緯は依然と明確にされていない。
「細かく枝わかれて、神経のように新宿の下に広がる霊脈と、そこから漂う霊子」
そもそも『霊脈』とは、何か。
『龍脈』とも呼ばれる大地に潜むエネルギーの流れであり、人の中にも張り巡らされた『霊子を運ぶ管』、または『神経』である。
「霊脈には、二種類ある。人の血管のように働く『霊脈』と、大気と水の循環のようなシステムで成り立っている地中の『霊脈』だ」
「……んで?」
やっと、搗山が言葉を発した。
学者でもあるまいに、延々と先の見えない学説を語っていた万葉の独擅場を終結させるように、搗山が結論を言え、と顎を軽くしゃくらせて促した。
こんな陰陽寮の童どものような真似事をして、一体どうしたいのか、と小さくも鋭い瞳がわかりやすく問いかけてくる。
「霊子学の勉強会を開いて、何がしたい」
「したいのではなく、正確には、『言いたい』の間違いかな」
「けど、そうね」と、万葉は息を吐いた。
細かい話は省いて、本題に飛ぼうかと、ついていた頬杖を解く。
そして、背筋を伸ばした。
「全ての現象には、必ず理由がある」
なぜ、雨は降るのか。
なぜ、空は青いのか。
一見、馬鹿みたいな問いに思えるかもしれないが、それには必ず『答え』があることを、佐々木万葉は知っていた。
物事には必ず、それを形成する『何か』がある。
「本当は解明されていない、というだけで陰察庁も恐らく気づいてる」
ただ、根本的な『証拠』が手元にないだけで。
「その証拠が欲しいから、天敵であるはずの『椿会』とも微妙な距離を保っている」
そう言って、万葉はもういちど言葉を繰り返した。
裏新宿に漂う過剰な霊素濃度の理由は、地脈とともに広がる異常な数の霊脈にある。
では、大量の霊脈を作っているのは?
その疑問に、搗山は答えない。
再び傍観と傍聴をはじめそうな不動の山に、では「はっきり、言おうか」と万葉が切り込む。
「新宿に張り巡らされた異常な数の霊脈――その半分以上は、元からあったものじゃない」
巧妙に、『元からあった霊脈』と入り交じってはいるが。
「あれらは――後から、付け加えられたものだ」
かこん、と鹿威しがまた、鳴いた。
太陽が燦然と照らす晴れやかな外界から遮断されたような、そんな静寂に満ちた空間が、ここに広がっている。
鉛を溶け込ませたような、陰鬱とした空気がじわりと滲む。
しかし、佐々木万葉は言葉の止めかたを知らないのか、淡然と、とうとう、その言葉に行き着く。
「そして、それは恐らく人工的に作られたもの、もしくは、生きた『人』か『あやかし』だ」
無音が辺りを支配する。
搗山は相変わらず閉口したままだ。
それでも尚、佐々木万葉は続ける。
問題のその先、全ての根幹へと話を掘り続ける。
「私はこれでも、霊視は得意な方でね。霊子を視認することも出来るし、霊脈の違いってやつを見分けることもできる」
「へぇ?」
たまらず、搗山が声を上げた。
それは万葉の言葉の真意を疑ってか、或いは、彼女が見せ始めた『尻尾』の一端に思わず、反応してか。
『霊脈』を見ることは、たとえ妖かしであっても、そうそう出来ることではない。
それも、妖かしの中でも下等の部類に当たる、『蟲喰い』に、だ。
しかし、佐々木万葉は言う。
『霊脈を霊視てきた』と。
何百何万本もある霊脈を、地中深くにある小さな小さな霊子たちの流れを、この女は『確認できた』という。
陰陽寮の観察員でさえも明瞭に視認できなかったものを、果たしてこの『蟲喰い』に出来るのか。
その真意の程は、如何様なものか。
だが、女に嘯いている気配はない。
依然と涼しい顔で――いや、獰猛さの入り交じる笑みを湛えて、真直ぐに男を見ている。
「ここ一ヶ月、新宿地区の霊脈はあらかた調べた。で、わかった」
一息、女が間を置いた。
過去を顧みるように、記憶を掘り起こすように、視線がすっと畳へと下ろされる。
確認した『霊脈』を思い出しているのか、昏い琥珀色の瞳が、畳ではない、もっと別の何か遠視しているように細まった。
「元からあった地脈のようなヤツと見間違いそうになったけど、微妙に流れの速さも、量も違う、全く別の霊脈が、確かに織り混ざっていた」
万葉がはっきりと、まるで顕微鏡を覗き込んでいるのかと疑ってしまうほど、何億万粒の霊子の光をその微細まで霊視できたのは、新宿でもっとも霊素濃度が高い、『小宮高校』でだった。
週末の校庭。
運動部が留守である早朝に、膝をついて小一時間程、じっと、白い岩瀬砂が敷き詰められた地面を刮目して、やっと全貌を掴めた蛍色の、光の脈。
人体の神経のように張り巡らされたその細い光の糸は、新宿の下に『繭』を形成しようとしているのではないかと疑ってしまうほど、層をなしていた。
最初は何らかの要因で、新宿の霊脈が『繭』のように複雑に枝分かれをして絡まり合っているのだと思っていた。
しかし、よくよく見てみると、『何か』が違う。
今し方、万葉は搗山に『全く別の霊脈があった』と明言したが、実際には唯のはったりだった。
全く違う霊脈が見えたなんて、嘘だ。
陰陽寮の観察員でさえも視覚できていないのに、万葉にそこまでハッキリと確認できるわけがない。
ただ、あの光の脈を視認できた瞬間、万葉は形容のしがたい感覚を覚えた。
胸がざわざわとするような、自身を形成する霊子が呼応しているかのような、そんな『ざわめき』だ。
初めは唯、新宿という『霊地』の仕組みを興味本位で覗くような気持ちだった。
それが、長い試行錯誤のあと、やっと地中深くの霊脈を感じ取れた瞬間、途切れていた一つの脳神経が再び繋がったような、閃きに代わった。
万葉はもう一度、新宿の謎に対する答えを、繰り返した。
「新宿には、元からあった自然の『霊脈』と、人工的に作られた『霊脈』がある」
断言をした。
それは推測ではない。万葉の全細胞が声高らかに表明している、『事実』だ。
ふっ、と我が儘な子供を前にしたような、そんな、仕方が無さそうな、力無い笑みを搗山が零した。
「それを、椿会が作ったって言いたいのかい?」
「さぁね。でも、持ってるんでしょう?」
「なにを?」
焦げ茶色の太い格縁が格子模様を描く白い天井に、乳白色の畳が敷かれた、空っぽの和室。
鉛が溶け込んだような重い空気は、いつのまにか霧散していた。
けれど、糸が張り詰めたような妙な静けさと雰囲気は、残ったままだ。
その中で、万葉は笑う。
凶暴な獣を思わせる獰猛さと、凍てつくような冷徹さを入り交じらせて、綺麗に笑う。
血液のような役割を果たす『霊脈』。
血液が、血を身体全身に送り出すために必要なものは『何か』――決まっている。
「――『心臓』だ」




