二十五
万葉の記憶に残る『夜咲』という少女と、目の前で茶を啜る『お蝶』は同じようであって、やはり違うように思えた。
少なくとも『ど頭をかち割る』などと、思っても口にする少女ではなかったし、そんな物騒なセリフを口にしたとして、その可憐な容姿によって脅しの効果は半減されていただろう。誰が聞いても、鼻で笑っていたはずだ。
――はずなのだ。
だが、現実はどうしたことか。
『お蝶』と呼ばれる見目麗しい女性が放った一言は、室内を一瞬だけ凍らせる効果を十分に放っていた。
その効果はどこから来るのか――一見穏やかで、暴力的な言葉はとても似合いそうにない面で放たれたことによるギャップか、万葉には分からない。分からない、が……
(二百年前とは別人だと考えた方がいい、ということはよく分かった)
頭で分かっていたようでいて、万葉は心のどこかで『お蝶』と『夜咲』を同一視していたのかもしれない。
先程の強烈な一言によって、その見方は木端微塵に砕かれたが。
(……というか、私、何かしたっけ?)
嫌われていないどころか、『半楼』時代の自分は、ほんの少しくらいの好意は向けられていたはずだと思っていたのだが、どうやら恥ずかしいことに、それは唯の自惚れだったらしい。
少なくとも先ほど向けられた言葉には一切の好意は感じられなかった。それどころか、仇に向けるような寒々しさが含まれていた気がする。
何故、そんな感情を向けられているのか、正直気になるところではあるが、今は気にしている場合ではない。
とにかくお蝶が、万葉を『半楼』だと気づかないことを祈るばかりだ。
「――それで、確認をしたいのですが」
ふっと、思考を現実へと引き戻された。
ことりと墨色の湯呑を高足善の上に置いたお蝶が、後ろに控えていた蛇帯へ目配せをする。万葉もその視線を追えば、蛇帯は流れるように万葉の前へ移動し、ぱさりと二枚の写真をお膳の上に並べた。
「その顔に覚えは?」
「……いいえ、まったく」
正直にそう答えれば蛇帯が訝しむように万葉の顔へと距離を詰めたが、万葉は顔色を変えることなく相手を見つめた。
「本当に?」
「ええ」
「嘘を吐いても、後で痛い目に遭うだけですよ」
「と、言われてもこちらには全く見覚えがないので、困るわ」
いくら問い詰められようが、脅されようが、万葉には蛇帯が望むような答えを与えてやることはできない。
実際に見覚えがないのだ。
じっと差し出された二枚の写真を凝視するが、待てど暮らせど写真に写る二人を思い出す気配は皆無。いや、そもそもこの二人に会ったことも、見かけたことも無いはずなので、思い出そうにも無理があるのだ。
ふっと、なんだか終わりが見えそうにない無駄な時間に万葉が嘆くように溜息を吐いた時だった。
「その二人こそが、今回『椿の毒』を盗み出し、椿会の御法度を破ったものたちです」
まるで、「今日は雨だ」と天気の話をするかのような調子でお蝶が写真の説明を始めた。
「赤い肌の巨漢が志戸、小麦色の髪の童子が岸松。三日程前から姿を暗ましています」
「……つまり。私の名前を口にしたのも」
「その二人です」
もう一度、写真に写る人物を観察した。
どこにでも居そうな一本角の鬼に、小奇麗な顔をした子供。ふと、少年の髪色が、万葉の記憶に引っかかった。
どこかで見た気がする。だけど、思い出せない。
訝しげに写真を手に取って見つめる万葉に、お蝶が更に言葉を重ねた。
「最初に貴女の名前を口にしたのは、志戸。部下によると彼は貴女の名前を口にしたその直後に……蟲を服用していたようで、変形しました」
「売人自身が、薬を服用していたわけですか」
別に珍しい話ではない。薬の売人というのは、薬に嵌った阿呆が大抵なるものだ。その薬欲しさに売子を買って出る奴はこの業界に巨万と居る。
だが、今回の薬に関しては引っかかる。身体強化以外に、快楽と幻覚を与える作用は含まれているようだが、《パラダイスシフト》が蟲の卵であることに変わりはない。それを理解した上で、果たしてこの薬を服用するのか――。
(自ら蟲に身を委ねて能力を強化をする馬鹿や、現実から逃れるために楽に自己を手放す自殺志願者は居るが――)
単なる馬鹿か。或いは別の理由があるのか。どちらにしても愚かなことだ。
道端のゴミを見るような無機質な瞳で写真を眺めながら、万葉は内心で吐き捨てた。
しかし、ふとある事に気がつき、口を開く。
「……そういや、うちの連れが昨日、襲われてたわね」
四つん這いで走り回っていた赤い巨体を思い出して、万葉は呟いた。
虱潰しに街中で聞き込み調査をしていた時に、遠方から悲鳴と怒号が聞こえ、気になって騒ぎの元へ駆けつけてみれば、見つけた赤い肉達磨。涎垂らしながら幼気な少年たちを追い掛け回していた般若と、写真に写る厳めしい顔がかちりと重なった。
「理性もへったくれもなく街をぶっ壊しまくなりながら暴れまわってたのが《志戸》だっていうのなら、確かに覚えてるわ。
まるで昨日のことのように……どころか、昨日のこととしてしっかりと記憶してる」
――その直後に詳しい説明もなく、どっかの誰かさんに連行されたしね。
嫌味も混ぜてそう口にすれば、蛇帯が気を害したように、ゆらりと帯を揺らした。
「その通り。昨日、貴女がふっとばしていたあの鬼こそが、志戸です」
「へぇ。あれが貴方たちの追っている《志戸》」
芝居がかった声で驚きの表情を見せ、万葉は続いて氷柱のような冷たく鋭い言葉を向ける。
「――じゃあ、今度こそちゃんと捕まえられたわけだ」
沈黙が落ちる。答えなど分かりきっていた。
「あんなデカい図体でド派手に暴れまわれたら、直ぐに気がつくし、捕まえることなんて椿会にとっては容易なことよね」
意地悪な言い方だ。
本当のところ、万葉にだって分かっているのに。
手掛かりが手元にあったら、ここまで執拗に万葉を追い詰めるような真似はしていない。
つまり、蛇帯たちは未だに《手掛かり》を掴んでいないのだ。志戸の居場所さえも分かっていないのかもしれない。
おかしな話だ。裏新宿を取り締まるほどの総力を持った椿会が、たった二人の下っ端にここまでしてやられているのだ。一体、何が絡んで、事をここまで難解にしているのか――時が経てば経つほど増すきな臭さに万葉の神経がざわざわと反応を示し始めていた。
裏新宿に広がりつつある、この澱んだ空気を、万葉は知っている。
「――志戸がそのように姿を現したのは今日が初めてです」
ふっと、室内に漂っていた重々しさが霧散した。ちりんちりん、と縁側に飾られた風鈴が空気を浄化するように、鳴いていた。
鈴の澄んだ音に呼応するように、お蝶が涼し気な顔のまま口を開く。
「とても、静かでした」
椿のように真っ赤に映える唇が、言葉を紡いだ。
「その身形はどうやっても他者の目につくはずなのに、どこそこで見かけたという噂一つありゃしない」
志戸のことを、言っているのだ。
蟲を服用し、第二段階まで症状が悪化した妖は、どこへ隠れようとも必ず誰かの目につく。それほど、『蟲』は今、注目の的となっているのだ。
だというのに、派手な事件を起こした志戸は今日まで、街に居る気配を微塵も見せなかった。
「それが唐突に、今日になって、周囲の目もお構いなしに街中を荒らしながら現れた」
豪快に破壊音と土埃を上げながら、街中を猛進する赤い巨体は最早『鬼』とは呼べず、その影は『牛鬼』を連想させるほどの醜悪さと獰猛さを詰め込んだかのような悍ましさを纏っていた。妖さえも吸うことを躊躇してしまいそうなほど濃く澱んだ瘴気を撒き散らしながら動く図体は、周囲の目を引き付ける見世物がご如くその強烈な存在感を放っていた。
「今まで身を隠していたことが嘘のように」
否、寧ろ――。
その姿を見せつけるように、自身の存在を知らしめるように――何かを誘き寄せるように、彼は何処かの穴から這い出た。そして、
「――そして、まんまと私が現れた?」
ぽつりと答えを炙り出すように、万葉は途切れたお蝶の言葉を繋いだ。
「けど、あの鬼は私が目の前へと躍り出た途端に逃走した」
「貴女の存在を恐れるように?」
「蟲喰い《・・・》に喰われたら、たまったものじゃないでしょう」
それ以外に何がある。
くつりと笑いながら、温くなってしまった湯呑を手に取った万葉。その余裕綽々たる態度に、お蝶は水を差すように否定の声を挟む。
「いいえ」
湯呑を傾ける万葉の手が止まる。
「蟲喰いは、もはや『蟲』の脅威にはなりません」
お蝶は断言した。
食物連鎖は当に崩れ落ちている。
『怪奇事件』が起きた時点で、天地はひっくり返っていた。『蟲喰い』が『蟲』の上に立つピラミッドはガラガラと倒壊し、今では『蟲』が『蟲喰い』の上へと這い上がろうとしている始末。
「喰らおうとすれば、逆に喰われ、栄養の糧とされる現象を私も確かに目の当たりにしました」
それは逃れることのできない現実。人に寄生することでしか生きられない『蟲』は、確かにヒエラルキーの最下層から上階へと這い上がり始めていた。
弱く、図々しく、意地汚く、醜く、悍ましく、これまで唾棄されてきたちっぽけな虫けらが、自身の天敵さえも飲み込もうとしている異端な何かに変貌しつつあることを、隠り世は徐々に理解をし始めていた。
呆気なく潰せてきたはずの蟲。最弱なりに生きる術として、他者に『寄生』することに特化した妖は、その特性だけを見れば畏怖されるべき存在だった。だが、器と見合わない中級以上の妖に寄生できず、また、『蟲喰い』の格好の餌にされることで、脅威とは見なされてこなかった。
虫けらのちっぽけな器に見合う、決定的な脆弱性――それが、今、消えつつある。
「そう遠くない未来。『蟲喰い』は、蟲喰いでなくなる」
怪奇事件の首謀者とされる加佐見徹が研究開発をし、人工的に作り上げた新たな『蟲』。それは、今までの生態系を覆す危険性を伴っていた。
事実、『蟲』を餌にしていた『蟲喰い』は、『蟲』の餌と化し、多くが喰われた。矮小な器に収まりきらない膨大な量の霊力を喰らい、進化を遂げ、寄生主の成長さえも煽ぎ、『蟲』は更なる『ご馳走』を探し彷徨う。
――異常だ。
ゾンビ映画も真っ青な事象が、現実に根を伸ばしつつあるこの事態を危険視してる者は多い。
とち狂っている。きっと、誰もが抱いている感想だろう。
だが、それよりもとち狂っているのは――その異常な『蟲』をドーピングなどの『特攻薬』として加工し、『パラダイスシフト』などとふざけた名前で売り捌き、商いをしている輩どもだ。
『パラダイスシフト』を服用した者の殆どが治療が間に合わず、あっという間に討伐対象と化す。日に日に増す『蟲』に対応する陰察庁も、既に『蟲喰い』には期待をしていない。
『蟲喰い』を前にしても『蟲』は逃走することなく変わらず活動を続け、終いには『蟲喰い』を喰らおうとしているのだ。
『蟲喰い』は既にその意味を成さなくなっている。
だからこそ、お蝶は今日の志戸の行動に違和感を感じていた。
「とても不可解な現象だと思っております」
不可解。そう、不可解。
『蟲喰い』を恐れない『蟲』。敵も味方も、弱敵も強敵も、構わず食い荒らす『蟲』。それが一体、全体、どうして、なぜ。
「あれは、一体、貴女の何を恐れたのでしょうね――」




