二十三
「こちらが、佐々木様の部屋となります」
そう言って、屋敷に泊まることになった万葉が案内されたのは、空っぽの和室だった。
小さな机と布団以外には何もない部屋。凡そ六畳間のその客室には窓もなく、物置部屋と称しても相違はないものだった。小さな床の間に飾られた椿の花と、壁に掛けられた掛け軸が、【客室】という名の体裁を、部屋にかろうじて保たせていた。
だが、そんなのものはただの飾り。
万葉から見れば、その部屋は――。
(まあ……立派な収容所だこと)
外界との接触を完全に遮断した部屋を、「見事に尽きる」と言えば、きっとどんな馬鹿でも皮肉か嫌味だと理解できるだろう。
万葉は嘲るような笑みをひっそりと、蛇帯には見えないように浮かべた。
「組の者が必ずお傍に控えておりますので、なにかありましたら、お呼びください」
「ええ、ありがとう」
側勤めのように控える着物の女共は、監視だろう。ご丁寧に「その手」の者も紛れ込ませているようだ。
短い間に、どうやら万葉は随分な危険人物と認定されたらしい。
実に、ありがたい買い被りだ。
(これは、私の名前を出してくれた輩には、たっぷりとお礼をしてあげるべきなんでしょうね)
どこまでも面倒くさい状況に、万葉は暗い笑みを浮かべた。
♢
一方、その頃。
【裏】を無事に抜け、【表】の世界へと無事に連れ戻された桐人は、池袋に点在する陰察局のビルへと踏み込んだところで、土御門春一につっかかっていた。
『今、ここで【椿会】と揉めるわけにはいかない』
土御門春一から向けられた最初の一言はそれだった。
「……けど、先輩はっ」
「そもそも、佐々木万葉が重要参考人であることには、変わりない」
蟲事件の日――最初に蟲が出没し、襲撃された東八町停から忽然と消え、陰察官からも監視と疑いの目を向けられるようになった【蟲喰い】。それは、【蟲】について調べるならば、最初に手を付けるべき【ヒント】となっていた。
「たとえ本当に佐々木万葉が今回の事件になんの関わりがなかったとして……蟲を繁殖させる媒体となっていた【パラダイスシフト】を売りさばいていた椿会の元組員から名を出されれば、どうすることもできない」
「【薬】を売りさばいていたって……」
「今回、椿会に追われることになった妖は、密売を行っていた重罪人だ」
「そのパラダイスシフトって、蟲の卵なんですよね? それを売っていたってことは、その人たちが蟲事件の犯人ってことなんじゃ」
「そうだな。どのような意図が本人たちにあったとしても、あの事件を起こした一端となっていたことは間違いない」
ふと、春一のあとを追っていた桐人の足が止まった。
「……全然わかんないです」
ぽつりと呟かれた言葉に、春一の足も止まる。振り向けば、当惑した表情で桐人が春一を凝視していた。
「その密売人も、今、疑われている佐々木先輩も……【蟲事件】自体、陰察庁が解決すべき問題だろう?」
確かに今、全ての問題の渦の中心にいる【椿会の裏切り者】は椿会の問題であり、その問題に一番始末をつけたいのも彼らでもあり、彼らにもその権利はあるのだろう。
だが、この事件解決の舵を握っているのは陰察庁のはずであり、陰陽道に関わる全てから人を守る役目を与えられた行政機関として、陰察庁が動かなくては行けない案件なのだ。
事件においても、全ての実権は陰察庁にあるはず。
「それなのに、なんでこんなにあっさりと引いてんだよ? しかたないって、あんた本当にそう思ってんのか?」
「……」
「大体、椿会の組員が密売を行っていたってことは、椿会そのものが黒だって可能性もあるじゃないか。確たる証拠がなくたって、あっちも他人のことを言えないほどには疑うべき要素が多く持ってる」
だというのに、土御門らは動いていない。
「——―なあ、おかしくないか?」
桐人の頭は混乱していた。突然に放り込まれた大量の情報と、そこから生じる謎と矛盾に、脳の処理が追いついていないのだ。だけど、一つだけハッキリと分かることがある。
「俺には、陰察庁と椿会の立場が逆転してるように見える」
椿会を捜査する気配が見えず、それどころかあちらの要求を飲んでいるように見える。伺っているのだ。椿会の様子を。まるで、猫を警戒する鼠のように。
今、目にして言える状況を桐人は疑わずにはいられなかった。
「それとも拮抗してんのか? あんたらの力は?」
「……相手は、『表』のものでもない」
「それがなんだっていうんだよ!! 今まで、誰それの意も心もお構いなしに、事件解決を第一に動いてきたくせに、なんでココで引いてるんだよ。それも、ヤクザにっ」「椿会は正確にはヤクザではない」
桐人が興奮したように矢継ぎ早に質問を重ねる。それを遮るように春一は言葉を重ねる。
「じゃあ、なんなんだよ椿会って。なんで、あんたたちはここまで慎重になっている?」
「椿会は新宿地区の『隠り世』を取りしまる、いわば自治体だ」
「じ、ちたい……?」
あの極道のような団体がか、と桐人は己の耳を疑った。
「お前は何かを勘違いをしているようだが、陰察庁が強制執行権を持てるのはあくまで、現世と、現世で問題を起こした被疑者に対してだけだ」
「それって、」
「基本、『隠り世』に法は存在しない。あそこは人の手が及ばない無法国家だ」
つまり、無秩序な世界に、人によって作られた規制は通用しないということだ。
「あそこに法は存在しない。だが秩序を保つかのように、隠り世のバランスをうまく作っている組織はいくつか存在している」
「バランス?」
「……隠り世を、一つの大きな皿だと思え」
「はい?」
「いいから、想像しろ」
「……」
「いいか。その大きな皿には、今にも溢れそうなほどの量の水があり、五本の細い棒の上でバランスを保っている」
「……」
「片瀬。その皿、かあるいは棒の一本をつついたら、どうなると思う?」
「皿がバランスを失って崩れ落ちる」
「その通りだ」
大きな皿は、隠り世。『水』は隠り世に住む『妖』たち。そして『五本の棒』は隠り世の中で力のある『団体』たちを差している。
一つでも無暗に突けば、隠り世のバランスは崩れ、今までその団体たちによって押さえつけられていた破落戸たちが、隠り世の外へと『水』の様に零れ出す可能性があるということだ。
隠り世は――【裏新宿】は、危ういバランスの上で、保たれているのだ。
「その、棒の一本が椿会ですか?」
「そうだ」
基本、隠り世は深く広く、陰察庁の手に負える世界ではないのだ。
過去に実際にあの世界へと自治権を広げようとしたが、結局はどの試みも失敗していた。
「確かに椿会を無理やり引っ張れたら楽だろう。だが、そんな隙を与えるほどアレは優しくはないし、無理に引っ張ろうとすれば、そこから余計なものまで引きずりだしてしまう可能性だってある」
「……」
未だに、春一の言っていることの全てを理解できたわけではない。
だけど、ことはそう単純ではなく、【表】と【裏】は、見えない糸で雁字搦めに縛られていて、緻密に張り巡らされた糸を一か所から引っぱったところで、どうにもできないということは、分かった。
――それで、「はいそうですか」とこのまま万葉を放っておけるかといえば、別の話だが。
(なにか、解決の糸口はないのか)
「先輩」
「なんだ」
「その椿会の元組員の写真……て、ありませんか」
緊張が、春一との間に走った。
彼の表情は変わっていないが、肩に乗る空気が重くなったのを桐人は感じた。
「なぜ、そのようなことを聞く」
「俺は、先輩の疑いを晴らしたいんです」
まっすぐに相手の瞳を見つめるが、そう簡単にうまくいく相手ではない。
実際、考える間もなく、桐人の願いは一刀両断された。
「お前がこの事件に関して自由に動けていたのは、そもそも佐々木万葉がいたからだ」
桐人は所詮、付属品にしか過ぎない。
桐人とて、それは痛いほどに解っている。それでもここで引き下がるにはいかないと、尚も食い下がろうとするが、春一の有無を言わせぬ眼差しで押しとどめられた。
「それに、俺が気づいていないとでも思ったのか?」
ひたりと無機質な視線が、桐人の手頸へと注がれた。
「……隠り世を出てから、手錠が随分と小さくなっているな?」
「……っ」
チリ、と一瞬、警報を鳴らすかのように手錠から走った小さな衝撃を、桐人は無表情で耐えた。
そうだ。【裏新宿】を出た途端に、手首との間に余裕があった手錠が、今では隙間をすっかり失くし、ぴったりと腕に当てはまるようになっていた。
「手首に異常が出始めたらすぐに報告しろ。そこは自己の判断で佐々木の近くに――【裏】に近づいても構わない」
「……それって、」
「俺に、お前の行動を縛る権利はない」
一瞬、我が耳を疑った。
それは、つまり、動くことを許すという意味ではないのか。
期待でわずかに膨れ上がりかけた桐人の胸を制するように、春一は言葉を重ねる。
「協力はしない。監視もつける。行動には十分、気をつけろ」
「はい」
行動には気をつけなければいけないが、動いていい、ということか。
否定的な指示ばかりを口にしているのに、何故かこの時の春一は肯定的に思えた。なぜだろう。
疑問を抱きつつも、この先の計画を立てながら桐人は春一の背中を追った。
コツコツと靴底を鳴らしながら、広いホールに設置されたエレベーターの前に立ち、ふと、ある違和感に気がつく。
「あれ……」
「どうした?」
「……からかさは?」
♢ ♢
部屋に閉じ込められてから、どのくらいの時間が経ったのか。十分にも満たないかもしれないし、或いはもう既に数刻は過ぎているのかもしれない。
時計のない部屋で、万葉はボーと、宙を眺めていた。
暇つぶしに外の景色を眺めるための窓もなく、非常に退屈だ。敵意があるとはいえ、客に対してこの待遇は如何なものだろうか。
今の自分の立場の悪さに、思わず溜息がこぼれた時だった。
「――佐々木様」
蛇帯の声だ。
襖越しにかけられた呼びかけに、答える。
「はい」
「お蝶様が、お帰りになられました」
――来たか。
「ご挨拶をされたいとのことで、少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん。かまいません」
むしろ、願ったり叶ったりだ。今の自分に対する待遇についても物申したいところだったので、丁度いい。
そう思って了承したのだが、襖が突然に開いて、瞠目した。
行儀悪く立てていた片膝を下ろし、姿勢を直して相手と向き直る。
「突然のご無礼、失礼いたします」
開いた襖の向こうには、黒い旋毛が見えた。床に添えられた指を覆う着物は、宵闇に近い美しい色で、下品にならない程度に金色の刺繍が施されていた。ゆったりと結われた黒髪に刺された、金の簪がしゃなりと音を立てた。
頭を下げる女性の隣で、蛇帯がオロオロとしているのを見るに、恐らく彼女が割り込む形で、勝手に襖を開けたのだろう。
だけど、蛇帯に咎められないということは。
(彼女が――)
「ご挨拶が遅れました」
鈴のなるような艶やかな声は、可憐のようで、腹に響くような音を持っていた。
人を、従わせる声だ。
伏せられていた顔がゆっくりと上がる。
白い肌が徐々にあがり、長い睫毛で隠れていた綺麗な眼が、こちらへと向いた。
黒曜石の瞳に、驚いた顔をした万葉が映った。
「まずは、このような無礼を働いてしまったことを、お詫び申し上げます」
射貫くような双眸は真っすぐなもので、堂々としている。
部下の非礼を詫びる姿は、この屋敷にはどこか不釣り合いのようで、妙に似合う、美貌だ。
「改めまして――私、椿会の総会長……お蝶、と申します」
そうだ。『彼女』はあの座敷でもそうだった。夜には不釣り合いなほどに可憐だったのに、内側からにじみ出る逞しさが、どこかしっくりと、あの格子で囲われた町に合っていたのだ。
万葉の耳奥で――昔。そう。ずっとずっと昔、耳元を擽った愛らしい声が蘇った。
その声が、目の前で挨拶をする女性のものと重なる。
「どうぞ、よしなにお願いいたします」
『――半楼ねぇさん』
なんとも奇妙な縁だと、万葉の口角がわずかに上がった。
僥倖と喜ぶべきか、最悪だと嘆くべきか。
(まさか……夜に咲く【花】が、蜜を吸う【蝶】になるとは)
果たして目の前の彼女は自分に、気づいているのか。いないのか。
随分と可笑しな展開になってきたものである。
「――こちらこそ、よろしく。お蝶、さま?」
――いや、それとも『夜咲』と呼ぶべきか。




