十七
「よぉ、土御門捜査官。どうした? んな暗い顔して」
池袋、関東管区陰察局。
ガラス張りのエントランスへと足を踏み込もうとした青年に、草臥れたサラリーマンのような男が声をかける。
「暗い顔をした覚えはありませんが」
「うん、いつものどおりの能面だな」
呆れたような目をしながら男――坂下は「けど」と、言葉を繋げる。
「なんか、イラついているような目をしてるぞ」
「……」
「顔もいつもより白いな」
その指摘に土御門春一は沈黙を返した。
「実家で何かあったか? それとも、本部?」
春一は答えない。坂下の言葉など聞こえていないかのように足を進め続ける。
エントランスに張られた透明な結界をすり抜け、広いロビーを通り過ぎる。綺麗に磨かれた床に靴音を響かせながら、自分の部署へと向かおうとした。
その冷たい背中を追いながら、坂下は続ける。
「そういや、片瀬くんどうしてる? ちゃんと突っ走って危険なことしないように注意しといたか?」
「下校する際に釘を刺しておきました」
やっと、返事が返ってきた。
「釘ってお前……きつい言い方してないだろうな?」
「忠告に甘いもきついもありません」
相変わらずの辛口に坂下の口から溜息が零れる。
「そんなんだと、人が離れてくぞ」
「俺は友人を作るために仕事をしているわけではありません」
「いや、そうじゃなくてさぁ」
「今、俺たちが知る限りでは片瀬桐人が一番、この事件の近い所にいる」
春一の足が止まった。人形のような横顔に感情はない。
「例え、それが的外れでもそうでなくとも、あいつを張らなくてはならない理由もある」
「だから、厳しくするって? そりゃあ、ちっと可笑しいんじゃねぇのか?」
動かない青年の背中に、坂下は己の疑問を投げかけた。
「要注意人物だってぇなら、「何もするな」と釘を刺さずに、そのまま好きに泳がしときゃ良いだろうよ。その方が、こちらとしてもやりやすい。まあ、あんまり危ないことされるとこっちも困るけど」
そうだ。もしも片瀬桐人が限りなく黒に近い存在だとして、坂下たちには彼を捕らえられるほどの証拠を持っていない。ならば、必要以上に彼の行動を制限し警戒させるよりも、好きに泳がせ、彼が隙を出す瞬間を待てばいい。
「けど、お前は違うな。被疑者として疑ってるわけではない。のに、異様に片瀬くんの行動を警戒している」
土御門春一とて、馬鹿ではないはずだ。
しかし現に彼は、らしくもなく片瀬桐人に厳しい目を向けていた。それも、必要以上にだ。それは彼自身に理由があるのか、それとも――。
「例の蟲喰いか?」
春一の発案により、捜査協力を要請することになった野良の蟲喰い。坂下も以前の「朽木文子事件」から、その存在は耳にしていた。
けれど、だからといってその蟲喰いが一体どのような人物像をもっているのか、坂下は知らない。ただ春一が警戒させるほどの何かがある、ということだけは知っている。
坂下の疑問に答えるように春一は背を向けたまま、口を開いた。
「片瀬桐人は、普段、大人しい性格をした少年です」
それは、彼自身が片瀬桐人に抱いている印象なのか――。
「けど、同時にとんでもない行動力を発揮することがある」
土御門春一は続けた。
「あの黒い妖刀も、片瀬がいなかったら露見しなかったかもしれない」
「だったら、」
「だからこそ、抑制する必要がある」
坂下の声を、青年が遮る。脳裏にあの日の光景が流れた。
赤黒い巨体を突き刺す小さな少年が、記憶の中で蘇る。その黒い眼を思い出した瞬間、春一は警報にも似た予感を覚えた。
「俺たちは、何かを見落としている」
自分たちの前へと突如現れた嵐のような存在。それは人の注意を奪うほどの衝撃と、強烈な存在感を放っていた――他の要素など、除外してしまうほどに。
不意に、春一の記憶の中で片瀬桐人の姿が誰かと重なった。
「……それに、あのままあいつの好きなようにさせれば」
いつもなら平和ボケしているかのような、柔らかい光を反射する目。だけどあの時、瞳が宿していたのは深い闇と、抜身の刀のような危うい煌き。
「――大事な鍵を、俺たちは失いかねない」
瀕死の蟲の上に立つ少年は――一見生気に満ちていたかのように見えて、実際には違った。
黄ばんだシャツには赤が滲み、顔から腕までを切り傷や痣が覆っていた。腹には浅く抉られた痕と、胸部には折れた肋骨。だというのに、あの少年は動いていた。まるで、そんな怪我などしていないかのように。
それは風間菜々美を救いたいがための強い意志か、根性か。
いいや、そんな単純なものではない。
片瀬桐人を動かし続けたそれを、春一はなんと呼ぶのか知っていた。
――あれは、狂気だ。
常人ならば恐怖で震えて立ち止まるほどの現場。激痛で機能停止するはずの怪我。それなのに、何事もなく走り回っていたあの身体。
それは、一種の狂気――自分さえも殺しえる『執念』だ。
土御門春一には断言できる。このまま片瀬桐人の好きにさせれば――奴はいずれ死ぬ。
別に死にたいのなら死ねばいい。心のどこかでそう思っている春一がいる。
だけど、土御門春一は陰察官だ。表と裏の均衡を保ち、「陰」から人を守る義務がある。
片瀬桐人の立場は限りなく「黒」に近い「灰色」だ。だけど彼奴の中身は恐らく「白」。どちらにしても、陰察庁は今ここで彼を失うわけにはいかない。
今回の怪奇事件で陰察庁は大きな失態を犯した。見す見すと新宿を襲撃され、二百以上の被害者を出し、事件が収束した理由も、実態も、なんの成果も得られず、全てが終わってしまった。殆ど何も、出来なかったのだ。
踊らされた、と言っても良いのかもしれない。陰察庁の名に、弄ぶような傷跡を残されたのだ。
――これ以上の失態は許されない。
それは捜査に関わってきた春一たちの肩に圧し掛かる重圧でもあった。責任は、彼らにあるのだ。それを春一は嫌というほどに理解していた。
誰よりも今回の事態に苦い感情を噛みしめている青年の背中を、坂下が軽く叩く。
「あんまり気取られんなよ」
そう言った坂下は、上着の右ポケットを探ると一枚の写真を取り出した。
「ほら」
翳された写真を横目にすると、春一は眉を顰めた。
「――それは?」
「薬の売買に関わっていた一人だ」
小麦色の髪に、白い肌。中世的な顔をした少年がその紙には写っていた。
「椿会の組員だそうだ」
椿会――裏新宿を取り締まる暴力団の名前だ。『裏新宿』では有名すぎるその名に土御門は増々眉間の皺を深くした。
その心情を坂下も察しているようで、同調するかのように嘆息を吐いた。
「……今までの比じゃねぇくらい、厄介なことになるぞ」
いつだったか、誰かがこう言った。
――『表』と『裏』の間に存在する溝には、泥のような水が流れている。
♢
同時刻――『裏新宿』。
「おらっ!!」
ブラインドのかかった窓に、灰色の壁。
灯り一つないその暗い空間で、打撲音と誰かの呻き声が響いた。
「答えろや、岸松! 瓶をどこにやった!!」
「……っ」
「ひとつめ、金槌持ってこい」
無機質な声に答えるように、先ほどまで怒鳴り声を上げていた男が舌打ちをしながらその場を離れる。
床に蹲る少年の頭を、赤いマフラーを巻いたスーツ姿の男が掴みあげた。
中世的な顔をした少年の顔は痣だらけだ。苦心に満ちた表情で少年は男を睨む。
「瓶は、どこだ? 持っているのは志戸か?」
「……」
男の問いに、少年は答えない。
背後で誰かが引き戸を開ける。振り返れば、パンチパーマにサングラスをかけた男が其処に居た。男の右手には誰かの服の襟が握られている。
「おー、塗り坊。志戸、捕まえたぞー」
ぽいっと、まるでゴミのように男が手に持っていたそれを投げ捨てると、『塗り坊』と呼ばれた男が少年の顔を無理やりそちらへと向かせた。
影に隠れていたもの――一本角の鬼が少年の眼前へと晒される。
「……っきし、まつ」
鬼が、掠れた声で少年に呼びかけた。投げ出された四肢が纏うシャツは土埃を被っており、そこから除く赤みを帯びた肌は傷だらけだ。鉄色の髪を揺らしながら、うつ伏せに倒れている鬼――志戸は少年を縋るように見た。
だが少年はその声に反応することもなく、鬼を一瞥すると再び眼前の男を睨みあげる。
「……」
「塗さん。金槌、持ってきましたー」
先程姿を消したひとつめが、黒い武器を翳しながら現れた。それに言葉を返したのは志戸を部屋へと投げ入れたパンチパーマの男だ。
「丁度いいや。ザキ、それわしにくれや」
「え、あ、はい」
自然な流れのようにその黒い金槌を握り、鬼へと近づき片膝を付くと、容赦なくその赤い指先を叩き潰した。
「ぁぁぁああああ!!」
「はいはい、痛いなぁ。やめてほしかったら大人しく物を出すか、場所を吐け。そしたら軽い折檻と牢獄行きで済ましちゃる。姉さんのことだから、それで許してくれるだろ」
空気を切り裂くような悲鳴を上げる志戸に、男が悠々と話しかける。
床の上を芋虫のように這う鬼と、それを平然と眺める男の背中を少年は白い顔で見つめた。すると、男が気づいたかのようにサングラスをかけ直しながら少年へと振り向く。
「岸松、お前もだ。指全部失う前に吐いとけや」
黒いレンズから覗く蛇のような眼光に少年は沈黙を返す。『塗り』と呼ばれた赤いマフラーの男は、ちぎれる少年の髪に構うことなく、そのまま小麦色の頭を更に高く引っ張り上げた。
白い喉が苦しそうに動く。
「……岸松」
『塗り坊』が少年の名を呼ぶ。少年は答えない。
代わりに口を開いたのは、潰れた指を抱きしめる鬼だ。
「……ズは」
「あ?」
もう一度、とパンチパーマの男が志戸の頬をぺちりと叩く。
「さ、さき……かずは」
「――そいつが、瓶を持っているのか」
男がそう問い返した瞬間――ぼこりと、志戸の背中が膨れ上がった。
「ぁあ!?」
突然変形した志戸の身体に、男たちは戸惑ったように声を上げた。
瞬時に危険を察知した『塗り坊』と『パンチパーマ』が志戸から飛び退く。
志戸の形相が変異する。牙は向きだし、眼球がごろごろと蠢く。喉から苦しそうな喘ぎ声を掠れ出た。その酸鼻極まる光景を『岸松』と呼ばれた少年は呆然と見つめると、はっと我に返ったように立ち上がる。
「――待て、岸松!」
『パンチパーマ』が声を荒げ、『塗り坊』が手を伸ばす。だがそれよりも一寸先に志戸が動いた。
腕を振り上げ、床を叩く。灰色の表面が割れる。赤い手が沈む。がらがらと瓦礫が騒音を立てる。
――土埃の舞う景色へと二人の影が姿を消した。




