十一
「ーーやはり、ダメか」
薄暗い部屋。ソファとローテーブル、そして大きな液晶テレビ。それ以外は何もない殺風景な居間で、ポタリポタリと、雫が零れる音が響く。
ソファの横、絨毯を汚さぬようフローリングの上に座り込む万葉の右手には血塗れの包丁が握られていた。彼女が睨む先には青白く発光する紅い腕。肘から手首を切り落とそうとして失敗したのか、手首は未だ中途半端に腕にぶら下がったままで。その箇所からは赤い肉と白い骨、上腕と下腕を繋ぐ青い流線が覗いて見えた。
(完全に同化している)
淡い光を放つ流線は霊脈だ。
腕輪の中で廻り続ける思考回路から紡ぎ出された動脈。ソレは万葉から霊力を吸い取る、切っても切れない根となっていた。
「くそが、」
我知らず、万葉の口から悪態が漏れる。
大量の霊力を喰らわれてるわけでもなし、命に害はない。腕輪が利用しているのは指先程度の力だ。それでも、あの少年に縛られているこの状況は辛い。これでは下手に動けないし、要らぬことに神経をすり減らすだけだ。
(あの唐傘、)
暫くこの状態のままでいることになったら、本当に無事では置かない。片瀬桐人や土御門に怪しまれてはいけないので、下手には動けないが。
「ーー喰い散らかしてやる」
手元に用意していた食事を鷲掴んで腕の修復を始めた。
萎みゆく鉄線の花とは逆にみるみる傷口が塞がってゆく腕。その様を感慨なく観察しながら万葉は思考した。
「可笑しな話だな……」
命を象徴する心臓もなく。他者の『時』を食らうことでしか存在さえも出来ぬ不安定な身だというのに、一太刀いれれば血は零れ、肉と骨が姿を表す。けれど、痛みさえも感じるこの身体は結局は『形』の定まっていない物体。
空っぽの人形。器のない液体。ああ、なんてーー矛盾した存在なのだろうか。
(いや、そもそも私たちは存在さえも定まっていないのだったな)
くつりと、自嘲のような吐息が女の紅い唇から溢れた。
♢
翌日。小宮高校、図書館。
ポツリポツリと窓に当たる雨粒を横目に万葉は身支度を始めていた。今朝の天気予報の通りならば、あと半刻もしない内にこの雨も止むだろう。
もう直ぐで約束の時間だ。今日は別に当番ではないし、仕事もないのでこれで失礼しようと万葉は観覧席から立ち上がった。手にしていた本も棚へと戻し、通学鞄を手にとって出口へと足を進めようとした。その一寸先。
「佐々木」
一月以上は口を聞いていない同級生が其処に立っていた。
同日に復学した男とは挨拶もしていなければ、会話さえもまともに交わしていない。真っ先に己に探りを入れてきそうな奴が何の行動も起こしてこなかったので、自分のことなど既に眼中にないのだと安心していたのだが、どうやら早とちりだったらしい。
面倒くさいのが来た。しかもかなりタイミング悪く。
頭痛を覚え始めた万葉は相手に遠慮することもなく、これみよがしに溜息を吐いた。
「ーー何かしら、土御門くん?」
眼鏡の奥に潜む双眸は相変わらず冷たく、無機質だ。
すっと顎で外の廊下を指し、土御門は口を開いた。
「ーー聞きたいことがある。少し時間をもらいたい」
ああ、最悪だ。
一難去らないうちに、また一難。嫌なことは重なるものだと、万葉はこの瞬間痛感した。
♢
「ーー遅いな、先輩」
新宿、大橋病院前。病院患者から一般の親子まで入り混じる広い公園の中央に、桐人はポツンと立っていた。隣の噴水の縁に腰掛ける唐傘を、横目に見やりながら先ほど購入したジュースのボトルを開ける。
「か、片瀬殿……わ、私めにも一口」
「あいよ」
ジメジメとした暑さに耐えきれないようで、パタパタと傘を仰ぎながらからかさが口を開いた。
すっと、ボトルを差し出してやればあっという間にそれを飲み干す勢いでゴクゴクと音を立てる。「それ、飲み干したら買い直しな」という桐人の言葉が聞こえてるかは謎だ。
万葉を待ち始めて約十五分。暑さに少しやられ始めた桐人は風が入るようにシャツの襟を崩した。先程まで降っていた雨の痕跡は一つも残っておらず、空には燦々と太陽が輝いている。
「にしても、大丈夫かな」
背後に建つ病院を振り返りながら、桐人は物憂げに眉尻を下げた。
大橋病院は桐人が以前、土御門等陰察官に事情聴取を受けた場所である。例え、陰察官が居なくともあの事件の被害者の殆どが此方に搬送されてきたと聞いている。ということは、寄生された被害者たちから蟲を取り除くことができる呪術医が彼処に居るということだ。といっても、桐人もあまり詳しくないのだが。
(けど、先輩の方がよく知っているだろうしな……)
なら自分のことは心配は余計なお世話なのかもしれない。きっと、万葉には万葉なりの考えがあるのだろう。
そう、思い直して桐人は前へと向き直った。
(もう、一ヶ月近く経つのか……)
蟲に襲われ、腹を抉られ、土御門や阿魂に散々言われてーーもう随分と昔のことように感じる。
(そういえば、あの時。俺、こいつにある意味救われたんだよな)
ちらりと唐傘を盗み見れば、丁度自動販売機から戻ってきているところだった。どうやら飲み干した飲料水を律儀にも買い直してきたらしい。
「片瀬殿ー、これ」
「ありがとよ」
差し出されたボトルを握れば、ひやりと気持ちの良い冷たさが掌を覆った。ぴとりとそれを自分の首へと当てながら、桐人は思い出したように独り言を零した。
「そういえば、まだちゃんと礼をしてなかったな」
「え?」
目を瞬かせるからかさをぼんやりと眺めながら、桐人は「でもなぁ」とボヤいた。
(こいつにはあの時の感謝の気持ちも失せるぐらい散々迷惑被ったし。つーか、考えてみれば俺、こいつに貸しいっぱい作ってるよーな)
悶々と今までのことを振り返った桐人。相当な鬱憤が溜まり始めたのか、その目は座り始めている。
「あ、あの……片瀬殿?」
不穏な雲行きに珍しくも勘が働いたのだろう。からかさの頭部から汗が伝い落ちた。
なんか、よく分からないがまずい。桐人の機嫌を浮上させる話題を振らなければ。というか、佐々木万葉、どこ行った。
グルグルと思考を回転させながら唐傘は何かを言おうとした、そんな時。
「ーーからかさくん?」
「え?」
誰かに名を呼ばれた。
「周防殿?」
パチリと瞬きをする一つ目が見つめる先には、車椅子に座る何時ぞやの老人が居た。