三十 EX.
「あー……生きかえる」
何百もの細かい湯の粒が白い肌を打ち、滑り落ちる。それと共にさあ、と梅雨のような音が耳朶を叩いた。
考えてみれば、三週間ぶりの湯浴みだった。
「うわ、きたな」とその事実に気がついた時には、流石に自分でも思ってしまった。
別に異臭は全くしなかったし。この身体は人間のような『生身』でも無いのか、他者のように風呂に入らずとも髪が脂ぎったりすることはないのだが、やはり習慣で、身体を洗わないのは心情的に憚れた。
――桐人の元で『憑依』を解き、やっと人の姿に戻れた万葉は新宿で借りているマンションへと帰宅していた。
あの怒号を向けられた後、色々とわぁわぁ騒がれたが其処は割愛させていただく。
唯。人の目を掻い潜って少年の部屋を後にする際、何か言いたげな顔をされたが。それでも万葉は敢えて気にせず別れの挨拶を返してやった。奴の母親が丁度玄関に上がってきた所だったのだ。致し方あるまい。まあ、どちらにしろ相手にするつもりは彼女には無かったが。
何はともあれ。やっと念願の根城に帰還でき、万葉はホッと息を吐いていた。
疲れと憂鬱と安堵と共に吐息が零れる。
そして疲労からか。何かに捕まりたくなって、腕を伸ばして前に手を着く。
髪も身体も一通り洗え終え、心ゆくまで温かい湯で身を暖めきった後。蛇口へと手を伸ばし、シャワーを止めた。水も勿体ないことだし、身体も暖めたいならシャワーではなく風呂に浸かった方が良かったのだろうが、それだと寝落ちしてしまう気がしたので結局シャワーにしたのだ。
湯を止めれば、視線は自然と蛇口から上がり、眼前の鏡へと移る。
白い女が見えた。
真っ白な肌に、黒い髪。どこか生気を削ぎ落されたかのように見える、色彩の無さ。
白と黒。それと、双眸にある暗い琥珀色。今や見慣れた自分の色。
「……」
無機質だ。
人形のように美しい、とかそういうわけではない。整った姿形はしているし、普通に綺麗と評す部類の造形ではあるが。
だが、無機質だ。どこか機械染みていて、でもちゃんと生きているようにも見えて――。
そう。これは、『命の灯った物体』だ。
少なくとも自分にはそう思えた。きっとそう思うのは自分だけで。そう思うのは自分がどういう存在なのか、知っているからだろう。
鏡に映る女は自分と手を重ねるように腕を伸ばしている。
その様子を感慨無く眺めた。過去の記憶と今の己を照らし合わせるように。
どれくらい眺めていたのか分からない。
ぽたりと頬に貼りついていた髪の毛先から滴が滴り落ち、静寂に音を与えた。
ふっと、意識を現実へと引き戻される。
それを合図に肌寒くなった身体に気づき。次いで鏡に着いていた手を離した。
はあ、と溜息を零しながら前髪を掻き上げる。ぼうっとしすぎた。湯冷めしてしまった。
「……お茶しよ」
身体を拭いて、服を着て。そうしたら、棚に仕舞っていたお菓子と共に、紅茶でも用意しよう。
先の想像を膨らましながら、万葉は身を翻した。鏡から彼女の姿が離れてゆく。白い裸体が消え、靡く黒髪までもが写された景色から退場しようとした。その刹那。
――一瞬だけ。それが鋭い刃のように煌めいた。
だが、万葉は気づいた様子を見せない。
代わりに風呂場を出る彼女の耳奥に、いつかの声が蘇る。
『強固とした存在になりたくば、心臓を取り戻せ。さもなくば、永遠の時を『何者でもない』者として彷徨うことになる。
奪い合え、心臓を。勝ち取れ、存在意義を――』
記憶の中で。男が最後に音にならない言葉を口にする。それは小さな動きで。無感動な動作で。一見なにを言っているのか分からない。
だが、記憶の中で動くその唇の意味を万葉は読み取っていた。
掘り返した記憶を脳裏に流しながら服を着る。
バスタオルを投げ捨てれば、カタリと少年に借りた服を投げ捨てた洗濯籠が音を立てた。
視線がふと、何も無い胸元へと落ちる。
――『心臓』はまだ、見つかりそうにない。
此処までお付き合いくださり、誠に有難うございました。
これにて『ひねくれもの』、契の章は完結とさせていただきます。
長らくお待たせしてしまった皆様には本当に感謝と申し訳なさでいっぱいです。
そして感想や応援のメッセージなどをいただけ、嬉しかったです。
本当に有難うございます。
これからも皆様の言葉を励みに、頑張っていきたいと思います。
次回の章の掲載の予定は恐らく来年の一月。遅くて、一月末になるかと思われます。
詳しいことは活動報告で近いうち(今週中)に説明いたしますので、宜しければ後々そちらをご確認ください。
それでは、私はとりあえず此処で一旦失礼させていただきます。
皆様、本当に有難うございました。
どうか風邪など召されぬよう、お体には気をつけて。




