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二十九

 深い深い海の底を、漂っているような気がした。

 最初に聞こえたのは、高いとも低いとも評せない声。けど、聞き覚えのある温度の無い声だった。


 『――片瀬桐人が握っていたあの妖刀は、異質だ』


 それが、眠りから目覚めて耳にした第一声。最悪の人間から聞いた、最悪の事態を差す言葉。

 ――どうやら、自分は予想していた幾つかの未来の中で最も面倒な状況に陥ってしまったらしい。






 ちゃりちゃりと金属音が硬質化した(・・・・・)ままの自身から鳴った。

 ポケット(・・・・)の中は当然だが狭く、また動いているため、揺れ具合が酷い。もんわりと湿気も感じる。夏だ、と嫌が応にも実感させられた。


(……これじゃあ、おちおち休めもしない)


 暗闇の中、万葉は内心疲れた様子でぼやいた。


 あの蟲事件が終息した日。万葉は蟲が崩壊する瞬間に、刀の『憑依』を解き、咄嗟に桐人の懐に入っていた『物』へと乗り移っていた。そうして桐人が病院へと緊急搬送されている間、自分もそのまま奴の『持ち物』の一つとして装いながらも、泥沼のように意識を落とし眠りに就いた。

 眠りから目覚めたのは二週間近く経ってからだった。正確には二日。桐人が目覚める二日前だ。

 気がつけば、片瀬桐人が眠る寝台の横。黒い鞄から食み出るように、自分は収納されていた。どうやら奴の懐から荷物へと移動させられたしい。


 ――だるい。


 それが、最初に思考を走った一言。

 全身がだるく。そして厄介なことに力が入らなかった。人の姿に戻りたいとは思ったが、まずいことに傍には陰察官たちが待機しており、出来なかった。


『――あの妖刀は、異質だ』


 そう言葉を発したのは、鴉のような濡れ羽の髪をした青年――土御門春一だった。

 とてつもなく面倒でややこしい事態になったことは、奴と壮年の男――坂下と言ったか。二人の話を聞いいていれば嫌でも理解してしまった。

 少年片瀬桐人が眠る病室の入口で会話を軽く交わす二人の姿は、万葉にも確認できた。


 会話で耳に出来たのはどれも調べれば簡単に出てきそうな内容だったが、奴らが口にした陰察庁の推測は違った。


 利用価値は大いにあることだろうし。陰察庁が己のことを執拗に調べたがることは大体予測していたが、まさか「あの蟲事件に深く関わっている」と疑われるとは思っていなかった。

 いや。そんな想像も一度はしたが実際に現実に起きると、信じがたいものだったのだ。

 奴らの前に姿を表す気も、自分のことを気取らす気も一切無いが、一刻も早くそのくだらない疑念を晴らしてもらいたいものである。

 「全くの無関係」とまでは今となっては断言できないが、少なくともあの事件の首謀には関わっていないのだから。


 幸い、片瀬桐人がしっかりと約束を守ってくれ。また、からかさたちに口封じをすることも忘れずに居てくれたことで当面の心配事は消えた。いや。あの傘の口の軽さには些か不安はあるが、まあ後々見張っておけば問題ないだろう。いざとなったら消してしまえば(・・・・・・・)良い。


 とにかく、だ。やはりというか、なんというか。片瀬桐人に手を貸してしまったばかりに、下手な身動きが更に出来なくなってしまった。

 なんで自分はあの時、少年の頼みを聞いてしまったのだろう、と悔やむのも後の祭り。ちょっとした感傷と酒に浸っていたのが良くなかったのだ。自業自得である。


 とにかくしばらくは動けない。理由は、己がある意味追われてることはもちろん、身体的な要因もあった。

 要するに『時』を喰らい過ぎた『時酔い』の後遺症のようなものである。

 器に収まりきらなかった『時』はその瞬間に周囲の人間へと放ったが、それはかなり神経を使う作業だったのだ。

 なにせ、再びあの蟲に『時』を与えてしまったら、終わり――あの本体の息を吹き返してしまうのだから。

 だからこそ『時』が奴へと戻らないように、自分で張って作り上げた『霊脈』を何百人もの人間に繋げて。其処から『時』を流し込んだのだ。

 まあ、流し込んだ。というよりは『爆発』のような嘔吐に近かったが。吐き出す勢いが激しかったせいで幾つかの『時』を零して霧散させてしまい、余分な量を一部の人間に与えてしまった。『酔い』に耐えきれなかったのだ。

 片瀬桐人にも『時』を分けてやるつもりだったが少量しかやれなかった。寧ろ、爆発の衝撃を間近で受けてしまった影響で、意識を少なからず混濁させていたように思える。悪いことをした。


 情けないことに、自分も手一杯だったのだ。吸い込んだ『時』の量が予想していたよりも多かったのもあるし、自分で『霊脈』を広範囲まで張り巡らせるという試みをするのは初めてだったのだ。原理と仕組みは理解していたが、実際に行った経験は過去に一度とて無かった。


 本当に、色々あった気がする。軽く十年分もの時を過ごしたような気分だ。

 

 その疲れもあって、万葉は目覚めても動けなかった。長い眠りに身体が麻痺をしていたのもあるし。『酔い』も抜けきっていなかったのもあるのだと思う。


 此処(・・)から出て自宅へ戻ろうにも、陰察官たちが其処ら中で巡回している。

 もう少し。動けるまで、しばらくはこうしていよう(・・・・・・・)


 そうしてほんの少しの微睡に揺蕩いながら、万葉はもう一週間ほど回復に時間を費やした――。



「つ、つかれた……」


 掠れた声が万葉の耳を刺激し、回想から現実へと引き戻す。


 桐人が目覚めて一週間。奴は退院した後に『検査』という名目で陰察局へと連行され、取り調べを受けていた。

 とにかく疑いが晴れるまで、というよりは陰察官たちの気が済むまでありとあらゆることを調べられ、尋問され。そうして丸一日を奴らに潰されたのだ。

 退院して帰宅して母の暖かい手料理を味わうはずが、どうして、こうなった。そう桐人が嘆くのも仕方のない事だろう。


 とりあえず気が済んだらしい陰察官にぽいっと外へと放り出され、帰宅することを許された桐人。

 とぼとぼと誰の見送りも出迎えも無く、奴は一人で帰路に着いていた。

 「警察の事情聴取を受けに行く」と息子の話を聞いていた家族は全員それぞれ仕事へ行くなり、夕飯のための買い物へと出かけたりと、好き勝手に日常を謳歌しているらしい。

 電話越しに母の朗らかな声を聞いて、少年は泣きそうになっていた。


 ――何故、自分だけ。


 そんな踏んだり蹴ったりな一日を過ごした少年を、万葉は少なからず哀れに思った。まあ、確かに病院を退院したばかりの少年にする仕打ちではないな、と。


 どこか沈んだ様子で、焼けたアスファルトの地を踏む桐人。そして、その愚痴を雑音のようにポケットの中で耳にする佐々木万葉。

 「早く奴の家にでも何にでも、とにかく人目のつかない場所に着いていくれないかな」と布に包まれた闇の中で思考した。


 ――そろそろこの洗剤の匂いから解放されたい。元の形態に戻って身体も伸ばしたくなってきた。


 長らく箱に閉じ込められていたような気分なのだ。窮屈さを感じてならない。

 そわそわとして、「外の空気が吸いたい」などと万葉が夢想して十分。

 青い屋根の家が、桐人の視界の端に映った。


 万葉の身体の揺れが止まる。桐人が足を止めたのだ。

 するりと闇の中で己を撫でる指先を感じた。ちゃり、と音を立てて久方ぶりの外界へと引きずり出される。

 光が視界を照らし、少年の顔を映す。

 密閉した布の隙間から解放されたものの、肌に纏わりつく湿気は相変わらず酷かった。日差しも想定していたものよりも遥かに眩しく、熱い。


「……あれ?」


 何か違和感を感じたのだろう。視界一杯に映った少年が眉を顰めた。


「こんな形してたっけ?」


 どうやら自分が憑依している『物』ならぬ――『鍵』の形が、奴の記憶のものと一致しないらしい。鏡などで確認していないので、実際に自分がどんな姿になっているか万葉は知らないが。


「……うわ。よく見ると黒っ! しかもなんか、ごつい。いや、いかめしく、なってるような……こんな模様も、あったっけ?」


 ごつい、とな。それはまた随分な形容詞を選んてくれたものだ。

 これは怒るべきなのだろうか。それとも嘆くべきなのか。初めて向けられた言葉に、万葉は何と言えば良いのか分からなかった。


「……ずっとポケットん中入れっぱなしだったからなぁ。胃酸でやられちゃったのか……しくったな」


 これで、家に入れるのだろうか。

 そうやって苦々しそうに自宅の扉を睨む桐人。参ったように溜息を吐く奴に、万葉は頭の隅で語った。


 ――鍵なんて、穴に形状を合わせれば幾らでも開けれるわよ。


 見も蓋もない言葉だ。

 桐人が聞いていれば、絶句していただろう。


 だがそんな彼女の言葉どころか、その存在さえも露知らず。桐人は鍵の開錠を試みる。


「あ、開いた……」


 案外すんなりと開いた玄関に、ポロリと呆気なさそうな呟きが零れた。


「た、だいまぁー……」


 どすん、と重たい荷物を玄関口に置く。

 中に一歩踏み込むと、外より幾分かひんやりとした涼しい空気が肌を刺激した。


 一応帰ったことを伝える言葉を口にするが、誰かが返事をくれる気配は無い。いや、誰も居ないのだから当たり前か。

 母はきっと未もスーパーで夕飯の材料の物色中なのだろう。

 

 人の気配も何もない薄暗い玄関に上がりながら、桐人は虚しそうに息を吐いた。

 そうしてまずは一段落を着けようと握っていた『鍵』を再び懐へと戻し、荷物を抱えなおして、二階へと上がる。




「……やっと、帰れた」


 寝台のスプリングが盛大な音を立てる。

 完全に脱力したように俯せに倒れた少年は、セミの抜け殻のように生気を失っている。相当疲弊しているようだ。


「風呂。いや……シャワー」


 燦々と照らしつける太陽の下を長時間歩いていたせいか、背中が汗でべっとりと濡れていて気持ちが悪い。

 正直起き上がるのも億劫だが。このまま眠ってしまえば風邪を引きかねないし、汚れたまま布団で寝落ちするのは気が引けた。


 ノロノロと起き上がりながら、寝台を降りる。次いで、着替えを取り出そうと部屋の隅に設置された箪笥を開けようとした。瞬間。


『――別にシャワーを浴びるのは良いけど、まずポケットから鍵を出すことを忘れてない?』

「……」


 思考と共に身体が動止した。

 「そのまま洗濯物と共に鍵を廻す気か」と窘める声が耳元を通り過ぎる。


 一拍。二拍。三拍。


 数拍の間を置いて、少年はふっと吐息を漏らした。


「……疲れてるんだな」


 そう言って箪笥を開け、シャツやらズボンやらを引き出す。

 だが、幻聴は止まない。


『いま此処で憑依を解いたら、君のズボン。悲惨なことになるわよ』

「……」


 再び手がピタリと静止した。

 恐る恐る。下を見る。視線の先は砂色のぶかぶかのズボン。足の付け根に入った切り込みだ。


 するりと手を滑らした。触れた生暖かい金属を掴み、引っ張り出す。

 

「……」

『ありがとう』


 鳴りやまぬ声。その声の根本は恐らく、鎧を纏ったかのように通常の鍵より厚みを増している『黒い鍵』。

 少年の顔から表情が削ぎ落される。まるで能面のような無表情だ。


 これはかなり驚いている。いや、寧ろ状況を理解できていないようだ。

 じっと色の無い双眸で此方を見つめる少年に、万葉はとりあえず謝罪をしてみた。


『ごめん。驚かせた?』

「っ、ぎゃああああああ!!」


 徐々に限界まで見開かれる双眸。ああ、これはかなり吃驚しているな。と他人事のように観察していれば、悲鳴と共に――投げられた。

 

『ちょっ――!?』


 かつん、と冷たい床に鍵の頭から落下する。別に痛みは無いが、衝撃は感じた。


 ――え。そこまで?


 桐人のあまりの反応に万葉は呆気に取られる。

 どうして其処まで戸惑う。大太刀に化していた時も似たようなことをしていたではないか。それに当たり前のように妖と関わってきているのだ。其処まで驚愕、いや、怯える必要があるか?

 

 まさかぶん投げられるとは予想できず、なすがままにされてしまった。

 とりあえずこの格好は情けないので、元の姿に戻ろうと万葉は鍵から抜け出そうとする。


「え……ちょっ、え。なに!?」

 

 空気中に存在する霊気が揺れ、異変を肌で察知した桐人は目を白黒させた。

 室内に突風が起き、カーテンから机の上の教科書のページまでもが捲れる。少年にも認識できるほどの霊気が『鍵』から迸ったのだ。

 透明な粒子が何百何億と見えた。それらが一つとなり、風になり、渦となる。

 霊子の渦が『何か』を形成しようとしていた。


 ――デジャブ。


 桐人はこの光景を知っている。


 平均にも満たない霊力を持つ桐人が視覚できるほどの濃い霊気。以前はそれが起こす強風の所為で目さえ開けていられなかったのだが、今は違う。

 微風が頬を撫で、己の視線をその『霊子』の塊へと引き寄せる。

 渦巻く粒子は呼応するかのように煌めき、スルスルと糸車のように『形』を作り始めた。

 

 長く繊細な指から、細い手首に、しなやかな腕。色の無い爪先から、壊れそうにも見える足首。其処から綺麗な曲線を描いて、付け根まで。優美な肢が覗き始める。


「……っ」


 眼前で『何か』が創造される過程を桐人は圧倒されたように見ることしか出来なかった。

 混乱した頭を整理させようにも、そうしている間に淡い光の粒子は終息してゆく。


 白い肌、が視界に現れた。


「――っん、あー……」


 呻くような女性の声が、室内に浸透した。

 ぐん、と陶器のような肌をした腕が目一杯に広げれられば、ぱきりとその付け根が鳴る。


 ――やっと、戻れた。


 鍵や刀に憑依していた時のような堅苦しさはもう無い。

 錆びた機械のように感じられた関節の感触も、同化を解いた今。最早感じられない。


 何日も閉じ込められていた木箱から解放されたような、爽快な気分だ。

 やっと外の空気を吸い、自由に動けるようになった気がした。と言っても、身体のあちこちに未だに肩が凝ったような、軋みを覚えるのだが。


(まあ、あれだけ長時間『物』に憑いていたらこうもなるか……)


 こきこきと首を鳴らしながら、深い息を零す。


 久々の開放感。そのなんとも言えない愉悦を味わいながら、万葉は「さて」と壁際で腰を抜かす少年に視点を合わせた。


「いや、本当に悪かったわね。まさか、其処まで吃驚するとは思ってなかったのよ」


 はくはくと金魚のように口を開け閉めする少年の顔は、なんとも間抜けである。 

 それを我知らず笑ってしまいながら、何故『あんな所』に入っていたのかを説明してやった。


「いやね。あの蟲が崩壊したのは良いんだけど、下には陰察官がうじゃうじゃ居たでしょ? 見つかったらいけないと思って、咄嗟に刀から離れて、君の懐に入ってたこの鍵に乗り移ったわけよ」


 ひょい、と足元に転がる銀色のカギを拾い上げて眼前へと翳す。少年は相変わらず喘ぐように口を震わせている。


「で、良いタイミングで。隙を狙って之から離れて帰ろうと模索したんだけどさ。流石に疲れちゃって、そのまま寝落ちしちゃったの」


 「あ、こうして見るとちょっと曲がっているな」と鍵の微妙な変形に気づきながら、言葉を続けるが。少年が果たして聞いているのは定かではない。心なしか、その顔色が変わり始めている気がする。


「で、しばらくして起きてみても君の周囲って大体妖や人が居て。陰察官まで傍をうろちょろしてるからさ、出るにも出れなかったんだよ」


 まあ、自分にも休息する時間が必要だったので、別に其処まで構わなかったのだが。だが、やはり無茶な体制で眠ってしまったせいか、身体に少しだけ違和感を感じる。


「――そういうわけで。監視や人の目から離れた今がチャンスだと思って、こうして『憑依』を解いたわけなんだけど……て、ん?」


 ふと鍵から少年へと視線を戻すと、ふるふると震えながら俯く少年が居た。


「え、ちょっと……大丈夫? どうした?」


 肩を縮込ませ、口元を覆うその姿に自然と万葉の足が踏み出す。すると、ぽとりと。少年の口元を覆う指の隙間から、赤い液体が滑り落ちるのが見えた。


「吐血? もしかして、まだどっか怪我してたの? それとも呪、い」


 まさかの事態に万葉は眉間に皺を寄せ、様子を伺うために奴に近寄って屈みこもうとした。が、その行動は奴の手から漏れる呻き声によって、阻まれる。


「……っヵら、」

「――え?」


 地を這うような低い声。それに万葉が首を傾げるも一瞬。


「――いいから、肌を隠せぇえええええええ!!」


 空間を震わせた叫び声に、万葉ははたりと我に返った。次いで下を見る。

 

 ――ああ、そうか。


 そういえば、いま裸だった。

 なるほど。通りでいつもより開放感に見舞われていたわけだ。

 




「いやぁ、ごめんごめん」


 桐人の悲鳴にも似た大声が室内に反響した数分後。

 奴からジャージを拝借した万葉は苦笑交じりに、謝罪を繰り返した。


 寝台の端に腰掛け。疲れたように頭を抱える桐人には哀愁が漂っている。随分と参っているようだ。

 落ち込んだ様子の旋毛を見下ろしながら、万葉は弁解するように口を開いた。


「憑依をする時って身に着けている物まで一緒に変形できるわけじゃないから、自然と服が脱げちゃうのよね」


 服は己の一部では無い。だから自然と何かに変形する時は置いてけぼりになってしまうのだ。

 潔く裸になってしまった理由を説明したが、少年が顔を上げてくれる様子は無い。代わりに蚊の鳴くような声が聞えた。


「……いえ。こちらこそ、すみませんでした」


 どこか苦心に満ちた様子に、万葉は狼狽した。

 一体どうしたというのだろう。それほど自分の身体は見苦しかったのだろうか。傷跡は無いはずだし、棘やら鱗やら生えてるわけでもあるまいに。普通の人間の女性と比べて、特に変わったところは無いはずなのだが。

 頑な桐人の態度に、万葉が奇怪そうに眉尻を下げた時だった。その様子を確認するために顔を覗きこもうとして、手から覗く肌が微かに赤らんでいることに気づく。耳も心なしか赤い。


(……なるほどね)


 合点がいった。

 随分と初心な少年だ。いや、それとも之が普通の反応なのか。だが、それにしたって引きずり過ぎではないのだろうか。

 ちらりと一度だけ此方を睨み上げると、桐人は再び気不味そうにに視線を逸らした。肌をちょっと見たくらいで随分と可愛いらしい態度を取ってくれるものだ。


 ついと、自分の今の格好を確認する。

 少年のシャツは胴も袖も長く、自分にとっては少しブカブカだ。流石に女物の下着を桐人は持っていなかったので、服の下には何もつけていない。お蔭でちゃんと服を着ている気がせず、スース―とした感覚がする。そしてズボンはというと、丈はそれほど己の足の長さと差異が無かったのであまり違和感は無い。

 微妙に服に着られているような、いないような。そんな出で立ちである。

 上半身をシャツ一枚だけで隠すのは心元なく感じたのか、ついでにジャージの上着も押し付けられた。どれだけ意識しているのだろう、この少年は。

  

 ――にょろりと、ちょっとした悪戯心が胸の奥から覗いた。

 

 そっと、閉じていなかったジャージの前を胸元で掻き合わせた。両手で裾を持ち、中のシャツを隠す。そして。


「少年、少年」

「……はい?」


 名前ではなく、『少年』という呼称で桐人に呼びかけた。すると、奴が疲れきった形相で此方を伺い視る。その刹那――万葉はばっと、上着の前を開いた。


「ばーん」

「っわぁああああああ!?」


 ずさりとシーツを引きずりながら、少年が後ろへと下がった。軽くゴン、と寝台の後ろの壁に後頭部をぶつける。


 ――やだ。なに、この子。


 予想通り。いや、それ以上の反応を返してくれた少年に昂揚感が沸く。

 一瞬、上着の下は裸だと錯覚してしまったのだろう。

 茹蛸のような顔で、焦ったように後ずさりした奴を前に万葉はにやにやと口角を上げそうになった。

 

「なにやってんの、あんた!?」

「なにって、ちょっと暑かったから上着の前を開けただけど」

「わざとだよね!? 絶対に今のわざとだよね!?」

「そりゃ暑いんだから、故意に開けたに決まってるじゃない」

「そっちの意味じゃねぇよ! 馬鹿じゃねぇの!? 馬鹿じゃねぇのアンタ!?」

「うるさいなぁ。別にシャツを脱いだわけじゃないんだから騒がないでよ」

「騒がせてんの誰だよ!?」

「君の煩悩」

「もうヤダこの人! お母さんん!!」


 きゃんきゃんと子犬のように吼える桐人。負け犬の遠吠えだ。それを表面では平静を装って眺めながらも、内心では笑い転げている万葉。だが、やはり耐えきれなかったのか口が狐を描いてしまう。

 まるで詐欺師と訴える被害者のような図である。


 ああ、面白い。

 青年漫画や小説でよく『女に慣れていない男子』を揶揄うように迫る『大人の女』の描写があるが。今、初めてその『女』側の気持ちが分かった気がする。

 唯の読者に対するサービスシーンかと思っていたがとんでもない。『女』たちはきっとこういう反応が楽しくて仕方がなかったのだろう。

 

 顔から首まで焦れた林檎のように肌を染め、きゃんきゃんきゃんきゃん。壁にベッタリと背中をテープのように張り付け、精一杯の虚勢を張る『高校生』。刺激をすればする度に、びくりとその肩を強張せるのだろう。

 その極端にも思える反応に、万葉は嗜虐心がくすぐられるのが分かった。


 初心な人間とは幾度も邂逅したことはあるが、此処まで過剰に反応する奴は初めてだ。

 実際に目の前で脱いだらどんな手応えを感じさせてくれるのだろう。自分は痴女ではないので流石に其処まではやらないが、試してみたい気持ちは無くは無い。

 

 が、そろそろお暇する時間だ。

 あまり騒いでいると周囲に気づかれるし、奴の家族も帰宅する頃だろう。

 そうして「長居は無用だ」と、寝台の上で疲弊したように蹲る青年を傍目に部屋を出ようとした時だった。


「あ、」


 半笑いのまま振り返ってしまったせいで、足元の鞄に気づかなかった。がつりと思いっきり蹴ってしまったのだ。

 通学鞄なのだろう。紺色のショルダーバッグが勢い余って引っくり返ったように倒れる。軽く中身を軽くぶちまけてしまった。


「ごめんなさい。ちょっと注意力が散漫になってた」


 そう言って、床に乱雑に散らばる物を掻き集めて戻そうと手を伸ばす。すると、ふと疎外感を覚える物が鞄から食み出ているのが見えた。

 本の角らしき部分。そのカバーの色彩に記憶の糸が引っかかる。


「あれ……これ、」

「へ?」


 するりとその本へと手を伸ばし、勝手で申し訳ないが、鞄の奥から取り出させてもらった万葉。何かを怪しんでいるような声色を読み取った桐人も、寝台からふと顔を上げた。


「……!」


 さあ、と少年の顔から血の気が引く。

 ほっそりとした指が掴む書物の色は薄紅色。そして仰々しくもその前面に書かれた題名は。


 ――『SとMの禁断の蜜花畑! 〜乙女は嗜好に目覚める〜』


 「ぎゃああああ!」と叫びそうになった桐人の喉が空気を嘔吐く。言葉が出ないようだ。


(しまった……! そういえば鞄に入れっぱなしだった!!)


 本を鞄へと突っ込んだ時の記憶が不意に蘇った。

 風間の代わりに、佐々木万葉と図書の当番になった時だ。あの時、本をそのまま適当な所に戻すはずが、タイミング悪く来た万葉から隠すように咄嗟に鞄に突っ込んでしまったのだ。


(何故、忘れてた自分……!!)


 本のことを忘れてしまった要因は三つ。一つは咄嗟に本を突っ込んだ時、運悪くそれが鞄の奥深く。最も見えにくい隙間ポケットに入ってしまったためだろう。桐人は普段はあまり鞄の整理をしない。なので、鞄の中は教科書から何からでごった返しており、視界が悪いのだ。

 二つめの理由は忙しくて思い出す暇が無かったから。蟲だのなんだのと騒動に見舞われ、それどころではなかったのである。

 そし三つめの理由は恐らく――奴が単に馬鹿だったからであろう。


(畜生! 本当に、あんな本学校に持ってきたの誰だよ!?)


 桐人は薄紅色の本の主に罵言を浴びせたくなった。

 脳裏に流れるのは、図書館での悲劇。偶然に発見してしまった本は花耶に見つかり、冷たい目を向けられ。その次に、阿魂にあらぬ誤解といらぬ助言をいただいてしまった。本当に散々な目に遭わせられたのである。

 そして、今――。


「あの、せんぱっ……それは!」


 それは決して自分のものではない。増してや望んで誰から拝借したものでもない。己の不運が招いた結果であり、不可抗力によって其処に存在してしまったものなのである。

 そんな、青少年の可愛らしい言い訳にした聞えない弁解を始めようとした桐人。だが、その言葉は万葉の驚嘆の声によって遮られる。


「SMの蜜花畑じゃない?」

「――へ?」


 まじまじと本の表紙を確認する万葉の目に避難の色は無い。寧ろ、感心しているようにも見える。

 ぽかりと、桐人の唇が半開きのまま止まった。


「ページから赤い付箋が食み出てるし……やっぱ、これ図書館で読んでた奴だわ」

「は?」

「何時の間にか無くなってたから、何処いっちゃったのかと思ってたんだけど。こんな所にあったのかぁ」

「……」


 唖然。そして驚然と桐人は眼前でパラパラと本を捲る万葉を凝視した。

 待て。この女性は。今、なんと言った?


「そっかそっか。君が持ってっちゃってたのね。道理で探しても見つからなかったわけだわ」

「……」


 納得したように苦笑する女。その秀麗な横顔を呆然と見つめ、次第に肩が震えはじめた。


「……ぉ、」

「ん?」


 「どうした?」と問いかけるように邪気の無い面差しで振り返る彼女。

 ふっとした静寂が二人の間に落ちた。その次の瞬間。


「お前かぁあああああああああ!?」


 ――怒号が天井を突き抜け、高い高い青天へと轟いた。

 

 六月十三日。日照りは強く。空に浮かぶ雲はほんの少しだけ。蝉の声も未だ鳴りやまない。

 暑い夏は、まだまだ続きそうだ。



 































 

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