二十八
「かたせ、どのぉおおお!!」
「ぎゃぁあああ!」
206号室に、悲壮感漂う悲鳴が響きわたった。
「駄目ですよ、からかささん。片瀬さんの怪我はまだ完治していねぇんですから、あまり騒ぐと傷に障りやす」
真っ白な病室の中。少年に圧し掛かるように抱き着こうとする唐傘。
それを咎めるように口を挟んだのは化け狸のたぬまだ。
土御門春一たちとの面会を終えた後。奴らが病院を去った時間をまるで見計らったかのように、病室に現れたのが、この二人だった。
桐人の二週間もの昏睡状態は怪我と相まって、たぬまたちには相当の心労を与えるものだったらしい。二人の顔には微かな疲れが見て取れた。
病院に搬送されたばかりの桐人は片腕に酷い火傷を負っていたらしく、血だらけで、見るも悲惨な状態だったようだ。致命傷は無くとも、当初の桐人は全身を包帯やらガーゼやらで覆われていた。
だが今となってはその包帯も殆ど取れ、顔色も良い。その事実に唐傘は感極まって、涙を滝のように流している。
「いや、本当に……このままあの世に逝かれてしまうのではないかと」
「縁起でもねぇことを言うもんじゃねぇですよ、からかささん。実際、片瀬さんは昏睡状態には陥っていたものの命に別状は無いって言われてたんですから」
鼻を噛みながら首を振る唐傘とそれを呆れたように横目にするたぬま。親しみのある光景を前にして、桐人はやっと日常に戻れたような心地を覚えた。とはいったものの、まだ病院で療養しているわけだが。
「それは分かってるんですけどねぇ、あの惨状を見るとどうも心配になって……死者が何人も出たと聞いてましたし」
「……」
眉尻を下げる唐傘の言葉に、桐人は視線を伏せた。
話は土御門春一より聞いていた。
今回の事件でやはり死者は幾人も出たらしい。詳細まで教えてくれはしなかったが、代わりに幾つかの不審な点を質問と共に聞かされた。
『この事件には可笑しな点が幾つもある。そのうちの一つが死傷者の数が予想よりも少なかったことだ』
二百人以上ものの人間が蟲に寄生され、その中の多くが『第二段階』まで変異したのに、事件後――正確には蟲が崩壊すると同時に、寄生体全員が元の形態まで戻っていたのだという。
『蟲の寄生していた被害者の殆どが元の状態へと戻り、そしてあの蚯蚓に囚われていた者の殆どが生還した――これは、幾らなんでも不自然だ』
淡々と説明してくれた春一の顔には、疑念の色が見えた。
この殊に関しても何か心当たりは無いか、と坂下に問われたが桐人は「わからない」と首を振った。
だが、実際には思い当たる節があった――佐々木万葉だ。
彼女が『吐く』と称し、発光した瞬間に霧散した光の粒子。あの『光の爆発』が起きた後に、ミイラのように生気を失っていた人たちは息を吹き返していた。
土御門春一たちも『黒い妖刀』が原因なのではないかと勘ぐっているようだった。実際、奴らの前で切り倒した寄生体も、微かに名残を残しながらも元の姿へと戻りつつあったのだから、当然の流れだ。彼女が要因だと思うのは妥当なことだろう。
(先輩……どこにいったんだろう)
目覚めてから一度も彼女の姿を見聞きしていない。彼女とは親しい間柄ではないので、知らないのは当然のことなのだが、それでもやはり恩人なのもあって行方が気になってしまった。
(無事だと良いんだけどなぁ……)
春一たちの様子を見るに疑われたり勘ぐられたりはしていないようだが、やはり心配になる。最後に目にした状況が状況だったので。尚更だ。
ぐるぐると不安と憔悴感が胸中で渦巻き始めた。
もしかして大怪我でもしたのだろうか。姿は刀だったし、顔色なんて分かるはずもないのだから、検討なんてつけないけど……。
「あー、もう!」
ガシガシと思考を振り切るように頭を掻きむしる。
幾ら考えたって、どうにもならないのだ。今は、とにかく身体を治すことの方が先決だ。
「片瀬殿?」
「どうかされやしたか?」
唐突に唸りだした桐人に唐傘たちが目を丸くし、気遣わしげに顔を覗きこんだ。
「いや、ちょっと考え事してて……」
「ご友人の妹君のことですかい?」
どうやら今回の奪還目的だった風間菜々美のことで頭を悩ませているのだと、推測したようだ。
「無事に、戻ってきたんですよね……?」
恐る恐る。緊張を含んだ声色で唐傘が問いかける。もう既に事の顛末は確認しているはずなのだが、ハッキリとしたことは未だ耳にしていないらしい。
といっても、桐人も実際の詳しいことは今しがた土御門春一から聞かされたのだばかりなのだが。
『心配せずとも風間菜々美は無事だ。事後処理も済まして家に帰してある』
無機質な声遣が耳奥で蘇った。
春一が口にした『事後処理』とは恐らく風間菜々美に掛けた暗示のような記憶の改竄を差すのだろう。彼女はきっと何も覚えていない。いや、それどころか始めから何も知らなかったのかもしれない。
風間の家にも、警察庁から既に話を通してあるらしい。
なにやら分厚い書類を捲りながら、春一は口を開いていた。
『今回は愉快犯のグループが起こした大規模な誘拐事件ということにしてある。風間菜々美はその被害者の一人で、お前は彼女を助けようとして負傷した――良いな?』
脅すような双眸に自分が返した答えは、肯定だった。当たり前だ。『あんな事』、世間に知らせるわけがない。そんなことをすれば大きな混乱が起きることは目に見えてるのだから。
陰察庁が行なったのは警察庁との協力による単純な事件の隠蔽だ。
恐らく、他の事件の被害者にも別のシナリオを用意して同じ処理の仕方をしているのだろう。
「刑事さんたちも大変だな」なんて頭の片隅でぼやきながら、桐人は唐傘たちに向き直った。
「――ああ、うん。菜々美ちゃん、無事だった。怪我も後遺症もないってさ」
明るく笑顔で相手の望む答えをくれてやれば、唐傘とたぬまはまるで自分のことかのように朗報を喜んでくれた。
「そ、そうですか……いや、良かったですな! 片瀬殿!」
「本当に、一時期はどうなるかと思いやしたが」
「ははは、」
――いや、まったくだ。
たぬまが発した言葉に、桐人は内心深く同意した。
本当に、自分もあの時はどうなるかと思った。風間菜々美への糸を完全に断たれ。彼女を救う方法を一欠けらも見つけれず。烏有に左右したあの時。
佐々木万葉との邂逅は奇跡に近いものだった。
過去を振り返って、桐人はしみじみと実感した。本当に彼女と出会えたのは運が良かった。お蔭で、自分は今こうして此処に居られるのだから。
「そういや、片瀬さん。あの佐々木さんとやらは、どうしたんですかい? 蟲に襲われた時も、東屋八町亭には居なかったみてぇですし。土竜さんもあれ以来、姿を見ませんが」
たぬまがふと思い出したように彼女の名前を口にした。どうやら似たようなことを思考していたらしい。
「ああ、うん……いや。俺にも分からん。いつの間にか居なくなってたもんで」
「なんと!? 片瀬殿を置いて、消えたと!? なんと薄情な!!」
「いや、なんで其処で怒るんだよ」
万葉の行動に納得がいかなかったらしい。唐傘がばっさばっさと傘を広げながら彼女を責めだした。
「あのなぁ……あれでも、彼女は俺の無理な頼みごとを受け持ってくれたんだぞ? なんのメリットも無いどころか面倒事しかねぇのに。それで最後まで守ってください、とか筋違いっつーか身勝手にも程があんだろーが」
口調が投げやりになったのは、多少なりとも自分が唐傘の暴言に対して少しムッとしたこともあるのだろう。
唐傘のその騒がしくも一直線なところは嫌いではないが、佐々木万葉のことを責めるのは酷く身勝手で自己中心的に感じられたのだ。唐傘が責めるのも、万葉が責められるのも可笑しい。
「感謝こそすれ、勝手に無茶押し付けて、勝手に怒る方が最低だよ」
「ぅぐ……!」
呆れたようにからかさを見れば、奴が言葉を喉に詰める。桐人の言いたいことを理解したようだ。
たぬまも援護するように横から口を挟んだ。
「片瀬さんの言う通りですよ、からかささん。『部外者』であるアンタが口を挟むのは、実に野暮なことでさぁ」
「ぶ、部外者など……!」
「部外者ですよ。あっしもアンタも。佐々木さんの言葉を忘れたんですかい? あれは片瀬さんと万葉さんの間だけで行なわれた『取引』。この殊に関しては、あっしらはなんの関係もない部外者なんですよ」
からかさがいよいよ沈黙した。たぬまの攻めの一句には最早ぐうの音も出ないようだ。
己の知慮の無さを恥じるように、小さく縮こまる。ようやく自分の身勝手さを自覚したみたいだ。反省の意を示すがごとく、病室の隅で膝を着く。
その様子にやれやれと溜息を零しながら、たぬまは桐人へと振り返った。
「それで。怪我の具合はどうですかい、片瀬さん。何かあっしに出来ることはありやせんか? 飲み物でもなんでも使いッパシリしてきますよ」
「いや、大丈夫だよ。有難う」
寝台に鎮座する桐人は申し訳なさそうに苦笑した。
やはりこの化け狸は頼りになる。
実際の年齢は知らないが、大人の静観とした雰囲気が滲む顔に感慨深いものを感じた。そんな獣頭をふわふわと眺めていた桐人だったが、ふとある事が思考を過り、首を傾げた。
「そういえば、たぬまさんたちの方は大丈夫だったのか? 裏新宿、結構蟲沸いてただろ?」
己も結構な数を倒してたが、潜んでいた蟲があれだけだったとはとても思えない。今更ながらその殊に頓着せずに『裏』を離脱したことを桐人は気に病んだ。
「ああ……はい。結構な騒ぎになりやがしたが、最終的には此方でなんとかなりました。ただ……」
「なんかあったのか?」
歯切れ悪く言葉尻を濁すたぬまに、いよいよ不安が芽生えた。先を足すように、身を乗り出す。
「いくら斬っても、ふっ飛ばしても、立ちあがってくるもんで……苦戦してね。通りをかなり荒されてしまいやした。どうやら、霊力を喰ってたみたいで」
「……」
話を聞くに、向こう側に居た蟲たちも自己回復できる性質だったらしい。
その事実に当時のたぬまたちは随分と驚いていたようで、桐人が一斬りで蟲を倒したことに違和感を抱いていたようだ。
「まあ……俺の場合は、あの刀があったから」
「なるほど……随分と不思議な太刀に見えましたが、ありゃ妖刀ですかい?」
「ああ、うん……その。唐傘に貰った奴」
「へっ!? わたくし!?」
脈絡もなくいきなり名指しされた唐傘が飛び上がる。まさか自分が関係しているとは思いもしなかったようだ。
「え? え? わたくし、あのような物持っていましたか? え? あれ?」
困惑したように目を白黒させる唐傘に、桐人は正直に話してやる。
「府中の刑務所に向かう前。古くせぇ刀押し付けてきただろうが。それも傘型の鞘付きで」
「……え?」
ますます当惑したようだ。パチパチと長い睫毛を揺らしながら、目を瞬かせる。
「え……えええええええ!?」
ようやく桐人の言葉の意味を理解したらしい。素っ頓狂な叫び声を上げる。
「ど、どどどういうことですか?」
「刀が変化して、ああなった」
「へ、変化って……」
さらりと何でもないことのように言葉を返す桐人。未だ信じきれないのか、唐傘は唸るように身体を折り曲げる。
たぬまも疑っているのか、眉を顰めながら事実を確かめようとした。
「妖刀だったんですか? あれ。俺はてっきり佐々木さんとやらから拝借したのかと」
「あ、ああ。うん……いや、その。先輩は刀のことを知ってたみたいで。それで役に立つからって使い方を教えてくれて、それで……ああいう風になったんだよ」
辛い。口にするのも躊躇う程、実に無理の在る嘘だ。
これがとても下手な誤魔化しであることを、口を捲し立てた桐人は苦々しくも自覚していた。
果たして、これが唐傘たちに通用するのか――。
「……ま、まさか、アレがそのような代物だったとは」
どうやら勝手に自分で話を解釈して納得してくれたらしい。俄かに信じがたいとでも言いたげに唐傘が足を跳ねらせる。その隣ではたぬまが嘆息を吐いていた。
「まあ、何にしろ。片瀬さんに大事なく良かったです」
どうやらこのまま理解したふりをしてくれるらしい。自分が何かを隠していることは明らかなのに、敢えて気づかないふりをしてくれるたぬまに、不覚にも涙が零れそうになった。
――有難う、たぬまさん。
内心、手を合わせる桐人。
だが妖刀の話題で、ある大事なことを追思し、我に返った。
「そうだ……からかさ! お前、土御門先輩たちにはまだ会ってないよな!?」
「へ、あ。は、はい……」
突然。強い剣幕で寝台から身を乗り出す桐人に、からかさは戸惑いながらも頷いた。
聞けば土御門たちとは未だ顔を合わせておらず、事情聴取も受けていないようだった。
その事実に思わず肩の力を抜いた桐人は、そのまま唐傘に詰め寄る。
「頼む。あの人たちに、つーか、誰に今回のことで話を聞かれても佐々木先輩のことは言わないでくれ!」
「え、え、え?」
「とにかく絶対に黙ってろ! 口チャック!」
「え、えー……はい?」
「口チャック」などと可愛らしくも聞こえる言葉を発しながら、怒涛の勢いで口走る桐人。その唯ならぬ勢いを止めたのは、たぬまだった。
「片瀬さん……話が見えやせん。落ち着いてちゃんと話してください」
吐息交じりに口を挟むたぬきの顔には微かな当惑と呆れが漂っている。
「あ、悪い……」
その表情を目にした桐人は冷静さを取り戻したようで、ハッと唐傘を掴んでいた手を離した。
そして僅かに逡巡した後、ぽつりぽつりと事情を説明し始める。
「実は、その――」
時折気まずそうに視線を泳がせながら、妖刀のことで陰察庁に目をつけられていること。坂下たちに口を滑らせてしまったこと。そして万葉との約束。ソレ等を全て明かした。
そしてそれを耳にした唐傘の反応はというと――。
「と、とり。とり。しらべ……わたし、とり」
「いや。事情聴取、な。別に、お前が疑われてるってわけじゃないから……」
「とり。わたしは、とり。とり」
桐人のフォローもどきは耳に入っていないようだ。
石化したように固まった唐傘の背後で、秋風が吹いたような気がした。詰んだ。奴の顔にありありと書かれた達筆した文字は、そんな言葉を形成していた。
「片瀬さんの言う通りですよ。別に容疑者になったわけじゃねぇんですから、そんなこの世の終わりみたいな顔せんでください」
「で、でも……陰察官に、事情聴取って……」
「しつけぇですよ、からかささん。一々、察ごときにビビらんでくだせぇ」
ふるふると震えながら泣き言を吐露するからかさを、たぬまがバッサリと言葉で切り捨てる。
「それで、佐々木さんのことを黙ってりゃ良いんですね?」
「ああ。なるべく覚られないように頼む」
「お安い御用でさ」
「本当に悪いな……たぬまさん」
「なに。これくらい何でもねぇ。寧ろ、あのいけ好かねぇサツをこんな小せぇことでとはいえ、欺けるんだ。これほど心浮き立つことは無ぇでさぁ」
「そう言ってくれると、こっちも助かるよ」
どことなく楽しそうに頼みごとを承諾してくれるたぬまに、桐人は口元を緩ませた。知らず眉尻が八の字になる。
「からかさ」
「……しゅ。じじょうちょうしゅ。じじょうちょうしゅ」
「……ありゃあ、駄目ですね。サツに取り調べられることになったぐらいで、情けねぇ」
ぶつぶつと室内の陰で蹲る唐傘にたぬまは深い息を吐くが、桐人は強い罪悪感を覚えた。
自分の軽率さが招いた結果なのだ。からかさには本当に申し訳ないことをした。後で奴の好みそうなヒール靴を検索して、安そうなのを買ってやろう。
「そんじゃあ、片瀬さん。あっしらは、これで」
「え、もう行くのか?」
見舞いの饅頭が入った袋を寝台の横の机に置いて、たぬまが帰り支度を始めた。
「へい。もうそろそろ屋台の開店時間ですし……次のお客さんの邪魔になっちゃいけねぇんで」
「え? 客って……」
ズルズルと沈んだ様子のままの唐傘を引きずって、病室の扉へと向かうたぬま。その後ろ姿が残した言葉に、桐人は奇怪そうに頭を傾げた。瞬間。
「――桐人!」
ばん、とけたたましい音を立てながら引き戸が開いた。
桐人は息を飲んだ。
濡れ羽のような乱れた黒髪に、汗を滲ませる肌。
荒い呼吸を繰り返す薄紅色の唇が、己の名を呼んだ。
「……かや」
呆けたような顔を曝して、桐人もまた彼女の名を呟いた。
今や見慣れた幼馴染――沢良宜花耶が、其処に居た。
♢
花耶が桐人の回復を耳にしたのは、奴が目覚めた翌朝。土曜だった。
教えてくれたのは丁度息子の顔を見に行こうとしていた、桐人の母だ。家の前でばったり鉢合わせたのだである。
興奮と喜びと安堵を隠し切れない様子で話す桐人の母。その言葉は、花耶に衝撃を与えるには十分なものだった。
目覚めた。桐人が、やっと目を覚ました。
其処からは無我夢中だった。桐人の母とどう話を切ったのかは覚えていない。気がついたら走り出していたのだ。
猛突突進な己の行動に、あの母親は大いに驚いていたことだろう。実際に今。その息子である少年は、呆気に取られた様子で此方を見ているのだから。
「本当に、目。覚ましたんだね」
「……お、おお」
口元を引き攣らせながら、下手な笑顔で手を上げる奴に呆れたような溜息を溢れた。
「二週間」
「え?」
「二週間も昏睡状態に陥ってたんだけど……随分と元気そうね」
「あ、ああ。お蔭さまでこの通り」
スタスタと相手に歩み寄れば、包帯だらけだった顔からガーゼなどが減っているのが見えた。
それに肩の力を抜きながら花耶は口を開く。
「……ごめん」
「え?」
「お土産。さっきアンタが起きたって話聞いて何も考えずに素っ飛んできちゃったから……忘れてきちゃった」
「ああ、」
要領の得なかった謝罪の意味をちゃんと説明すれば、桐人が合点がいったかのように頷いた。
「まあ、そうだろうなぁ、とは思った」
「なんで……」
「いや、だって息切れしているし。めっちゃ走ってきましたって顔だったから。あ、こりゃ俺が起きたって聞いて一目散に駆けつけてきたって筋だなって。お前らしいよ」
苦笑しながら予想していた事実を聞かされて、些かムッとした。簡単に予期できてしまうほど自分は単純な人間なのだと指摘されたような気がして、羞恥心のようなものが湧いたのだ。
「ありがとな。心配してくれて」
「ん」
素直に礼を言われて、頷くことで反応を返す。
正直どう反応すれば良いのか分からなかったのだ。
(本当に、元気そうだ……)
寝台の上で上半身だけを起こした顔は血色が良い。二週間前と比べて少し痩せてしまった気もしなくはないが、それでも奴の言動はしっかりとしていた。
この二週間の間、瞼を堅く閉ざしていた桐人の姿は不安を煽るものだった。
最初に奴を病院で目にした時、そのボロボロの身体は管で繋がれていた。色は完全に抜け落ちていて、死人にも思えなくなかった。
腕も足も顔も、全て真っ白。片腕に巻かれた包帯の下で覗く赤を、花耶は知らない。だけど相当ひどい怪我を負ったのだと、嫌が応にも察せた。
チューブで鼻を通し、栄養を送り込む様も目にしたことがある。それは命ではなく、機械にガソリンを注ぐ無機質な作業に見えた。
この二週間。花耶は恐怖した。桐人はもう目覚めないのではないのかと。ずっと眠ったままではないのかと。何度も何度も想像してしまったのだ。
どうして桐人がこのような状況になったのか。その事の顛末は土御門春一ではなく、彼の同僚である坂下と出雲から聞いていた。
桐人は、自分や自分と共に蟲に囚われていた知人を助けようとして、戦ったらしい。
耳を疑った。信じられなかった。まさか、桐人がそんな大それたことをするとは予想もしてなかったのだ。
だって、奴はいつも陰に居て。どんな事件の最中でもいつも目立たなくって。どちらかというといつも庇われていた方で。弱くて。頼りなくて。
――ああ、でも。
ふと、朽木文子のことで喧嘩したことを思い出した。そうだ。そう言えばあの時、凄い剣幕で怒られたのだ。
あの時。久しぶりに、桐人のあんな顔を見た気がした。
思い返してみれば、最初に自分を守っていてくれたのは『桐人』だったのだ。
初めて会った時も、子妖怪にちょっかい出されていた時も。いつも幼い自分を守ってくれたのは、手を引いてくれたのは小さい『キリくん』だった。
いつの間にか忘れていた。
なんてことはない。片瀬桐人は初めからこういうやつだったのだ。
大きな衝撃と驚愕。次に想起と納得。そして思った。
馬鹿じゃないのか。
自分が蟲に捕まったことに対して責任を感じていたのか何なのか知らないが、本当に馬鹿じゃないのだろうか。
霊力も何も、妖と戦う力が無いくせに、あんな化け物と戦って。死んだらどうするのだろう。馬鹿だ。大馬鹿だ。
――けど、何よりの大馬鹿者は、自分なのだろう。
大事なことを見落として。勝手に決めつけて。身勝手だったのは恐らくきっと自分なのだ。
桐人を前にして。それを潔く理解した花耶は泣きたくなった。
「花耶?」
気遣わしげに己を呼ぶ少年の声が、耳元を掠める。
だけど、視線を合わせることは出来なかった。
「……わかんなく、なっちゃった」
ぽとりと。心の奥で燻っていたものが言葉となって口から漏れ出た。それは小さな小さな呟きだった。
あの府中刑務所でのことや、蟲に囚われていた間の記憶が溢れ出る。
偉そうなこと言って。力まで見つけたはずなのに。結局、何も出来なかった。
塔に閉じ込められたお姫様よろしく、怯えて助けを待つことしか出来なかった自分。
悔しい。許せない。許せない。何も出来ない自分。弱いままの自分。
でも。何よりも悔しかったのは、自分が恐怖に負けたことだった。
不意にある光景が脳裏を過る。
蟲の中での記憶は殆ど朧げとなっていた。覚えているのは聞こえた被害者たちの阿鼻叫喚。身体を蝕む熱と痛み。地獄絵図。
何よりも脳に強く刻み込まれたのは、自分へと伸びる鋸のような歯。そして――それを貫く『何か』。
それは刃のような気もしたし。人の手にも見えた。
そう。己の背後から突き出た力強い腕。己を救ってくれた、暖かい腕。あれを目にした瞬間、恐怖が希望で覆われた。
あれは、誰の腕だったのだろうか。見っともない願望が見せた幻か。あの赤鬼か。それとも他の誰かか。
そう。例えば――。
「おい、花耶」
ふっと、少年のあどけない顔へと視点が定まる。
鬼のような精悍さも、怜悧冷徹な眼差しもない、どこにでも居る普通の少年。
霊力も無ければ、戦う術も持たないはずの、ただの人間。
白い病衣を纏った男を、花耶はじっと見つめた。
「花耶。お前、どうした?」
「ありがとう、ね」
「……は?」
前触れもなく落とされた礼の言葉に、少年は目を瞬かせた。
「あ。ありがとうって、なんだよ。急に」
「あの時」
「あの時」とだけ言われて。少年は増々困惑したように眉を顰めた。
「出雲さんたちに聞いた。助けに、来てくれたんでしょう?」
「あ、ああ……いや、あの、それは」
少女の言葉の意味を理解したらしい。うなじに手を回しながら、視線を気まずそうに逸らした。
「結局、なにも出来なかったし」
歯切れ悪く口を動かす桐人に、花耶は静かに首を振った。
「そんなことないよ。桐人は、そんなこと、ない」
己の足元を見つめながら、思ったことを口にする。
その俯いた少女の姿は、少年に違和感を抱かせるには十分だった。
「花耶。お前、本当にどうした? 何かあったのか?」
相も変わらず、優しい言葉をかけてくれる奴に自然と口元が緩む。
花耶は顔を上げて、もう一度首を振った。
「うーうん。ちょっと自分を情けなく思ってただけ」
「情けないって、お前……」
「ごめんね、桐人」
何かを言いたげに眉間に皺を寄せる桐人の言葉を遮る。
「朽木さんのこととか。桐人の言う通り、私、考えなしだった。ごめん」
「え? いや……俺こそ、怒鳴って悪かった。その、色々言い過ぎた――」
突拍子もない謝罪に、桐人が面を喰らう。そして数拍の間を置いて、戸惑いながらも自分も頭を下げようとした。
が、その一寸先に少女が身を翻す。
「じゃあ、私はこれで」
「え? あ、ちょっと!?」
まだ会話は終わっていないはずなのに、一度も椅子に座ることもせず病室を後にしようとする花耶。そのあまりの素っ気なさに桐人が思わず声を上げる。
「土産、置いてきちゃったからさ。取ってくるね」
止める暇もなく。そう言って、朗らかな笑顔で去る花耶に、桐人は再度呆気に取られた。
「なんなんだよ……一体」
そんな呟きを拾うこともなく、花耶は足早に廊下を進んだ。
コツコツと靴底が早いテンポで音を刻む。
同時に頭の中でも、色んなことがグルグルと回っていた。
朽木文子のこと。桐人に怒られたこと。『あの教師』の言葉。自分の行い。
――自分は、間違っていたのだろうか。
先程の桐人の顔が脳裏を過っては消えた。




