二十四
「っ……!」
酸で焼かれるような痛みが桐人の腕を走る。腕だけでなく顔から足まで。肉塊に埋もれている桐人の身体はどこもしかしこも鋭い痛みで蝕まれていた。
やっとの思いで避けた顔は肉と肉の間に出来た隙間に挟まるだけだ。その隙間も僅かで息をすることさえも難しい。空気が少ない此処では鼻だけで息をするにも限界がある。どうする?口で呼吸を繰り返すか?いや、だが此処で口を開けば蟲の胃酸が咥内に侵入する恐れがある。
湿気と高熱が篭もった赤い狭間の中で、桐人は酸素を求めるようにもがいていた。
頼みの綱である万葉をこの肉壁に突き立ててから既に数分。掴んでいたはずの柄は心なしか針のような細さまで縮み、今にも己の掌から離れてしまいそうになっているのに、未だに彼女からの報告も無ければ、動きも無い。
絶体絶命。縁起の悪い文字が脳を占めた。そんな時だった。
(先、輩……?)
手の内に収まっていたはずの太刀が心なしか、実際に離れていっているような気がした。
少しずつ、少しずつ彼女が自分の手から外れてゆく。その刹那。桐人は言い様の得ぬ不安と予感を覚えた。
――『蟲』が彼女を飲み込もうとしている?
それは勘としか言えなかった。
だが己の腕を包む肉塊から異様な圧迫感を感じたのだ。柄を握る己の掌ごと彼女を取り込もうとするかのように、纏わりつく柔らかい肉。蠢くソレは、確かに己から彼女を引きはがそうとしていた。
「……っ!」
それに強い嫌悪感を覚えて、此処から抜けようと足掻く。
だがその行為は全身を襲う痛みを悪化させるだけで、現状の打開には繋がらなかった。
余計に暴れてしまったことで、元から少なくなっていた酸素が底を尽きはじめ、頭さえも上手く回らなくなりはじめた。
意識が混沌としだし、次第に身体を一ミリも動かせなくなる。
(くしょう……が)
瞼が重くなってきた。呼吸も浅くなっている。
食いつくさんとばかりに己を圧迫する肉膜の中で、桐人の意識は暗澹へと落ちそうになっていた。
(からかさ、たぬまさん……)
数刻前まで行動を共にしていた妖たちの顔が脳裏を過る。赤い傘頭に、しゅっとしているようなしていないような体系の化け狸。
これは走馬灯というやつなのだろうか。昨日ことから、数年前のことまでの記憶が蘇る。
横暴な赤鬼に、涼しげな目を青年。小さい子妖怪たちに、母や近所の住民。
(かや……)
艶やかな黒髪に紅い網紐を靡かせる少女。
その姿に胸の切ない締め付けを覚え、次に別の影が重なって見えた。
(おれ、何か忘れて……)
次に浮かんだ学校という情景にふと違和感を覚える。
何かを忘れている気がした。
それがとても大事なことのように思えて、そのまま流されそうになっていた思考を止めた。
なんだっけ、と朦朧とした意識の中で必死にその糸を手繰り寄せようとする。
そして、
「……っ!」
別の少女と並んで歩く友人の背中が瞼の裏に映った。
――風間だ。
(そうだ、おれっ……!)
その記憶を引き金に、意識が現実へと引きずり上げられる。
何故か忘れてしまっていた己の当初の目的を思い出して、桐人は一瞬にして覚醒させられてたような気がした。
(なんで、わすれて……!)
大事なことを頭からすっぽ抜かせていた自分に衝撃を覚えると同時に、激しい怒りを覚えた。
(阿保か……!!)
馬鹿か、自分は。何故、こんな大事なことを忘れていた。
この絶望的な状況のせいか。人生の崖っぷちに立たされていたためか。助かろうと必死に頭を働かせた結果、風間菜々美のことを忘れてしまったのならば、それは最低なことだ。
いや。生命の危機に遭っているのだから、仕方がないといえば仕方がないのかもしれないが、それにしたって之は無いだろう。
自己中心的な目的のために色んな人たちを巻き込んだというのに。それを忘れてしまうなんて、無責任も程がある。
「っ……せんぱい!」
女性――万葉のことを思い出して、咄嗟に左手に意識を向ける。胃酸のことなど構わずに声を張り上げた。
だが、返事はない。気づいていないのだろうか。
僅かに彼女の柄が、手から離れ掛かっている。
「っの、」
何も考えずに激情に駆られるがまま、腕を伸ばした。酸で手が火傷するのは目に見えていたが、最早知ったことではない。
柔く、弾力のある肉の僅かな隙間に無理やり指先を突っ込ませ、再び柄を強く握ろうとする。
爪で守られていたはずの指先は既に剥き出しになっているのだろう。痛みが強すぎるのか――感覚さえも無くなりはじめていた手を、更に奥へ奥へと突き進めた。
ざらざらとした絹の感触を見つける。そのまま伸ばした指先を折り曲げて、糸のような細いソレを強く握りしめた。
「はっ、はっ、はっ」
無理に身体を動かしたせいか。異常な疲れが全身を襲い、浅かった呼吸が更に乱れる。
苦しい。空気だ。空気が欲しい。
狭まった空間から必死に酸素を取り込もうと、桐人は口を開けた。唇がヒリヒリと痛む。ここも胃酸にやられてしまったのだろうか。
全身が熱い。外も内側も、灼熱の太陽に曝されているかのようだ。だが、此処で泣きごとを言っても仕方がない。文句も弱音も、全てが終わった後に吐き出そう。
募る焦燥感の中で桐人は、とにかく万葉をこの肉塊から自分の元へと引き戻そうと腕を動かした。
(考えろ、考えろ! この壁をどうにかする手があるはずだ)
見えない霊脈。己を包む肉壁。離れ掛かっている佐々木万葉。
桐人はありとあらゆる現状を一つ一つ確認し、全ての事柄に思考を走らせた。
肉壁に埋まる人間たち。恐らく今も霊力を吸収されているのだろう。万葉はどうなのだろうか。自分は体力を削られると同時に酸で焼かれているのだが、指先に触れている柄が溶かされているような感触はない、気がする。いや、だが確実に先程と比べて細くなっている気が……。
視界が肉で埋まっているので、実際にどうなっているのかは分からない。実に不自由だ。
(胃酸……)
そういえば自分たちはこうして火傷を負っているのに、この肉壁は傷一つない。
(胃粘液……膜だ)
ふと生物学の授業で習ったことを思い出す。
人間の胃に張られている膜――胃粘膜。強酸性の胃液が胃を自ら消化してしまわないのは、胃が粘膜で覆われているからであり、胃液と消化酵素のコントロールが常に行われているからだ。
(こいつも、同じ作りをしているのか?)
人の粘膜の厚さは一ミリメートルで、滑らかで柔らかくベルベットの皮をしているのだが、こいつはどうだろう。上皮、粘膜固有層、粘膜筋板で構成されている其れは、蟲のサイズからしてそう簡単に破れそうには思えないが。
(けど、先輩は斬れた……)
斬れたとしてどうなのだろう。数分前のことを思い返す。実際に刀身を肉に突き刺した時、この壁はどんな反応をしていた?
(萎縮、してた)
確証はない。人間の記憶ほど頼りにならないものはない。己の願望や希望的観測で記憶を脚色はしてしまうのはよくあることだ。
だが、今はこれしかない。
伸ばされた右腕を己を挟む肉に食い込ませるように折り曲げ、指先を立てる。
もう、大分前から形振り構っている場合ではなかったのだ。腹を括りなおした桐人は右腕にグッと力を入れ、次に左手から柄もどきが滑り抜けぬよう、きつく握りしめた。
「っふ、ぅ……!」
大太刀を己へと引き戻すように強く引く。
(こいつが、俺と先輩を引きはがそうとしているのはなんでだ?)
危険だと気づいたから? だから、引き剥がそうとしている? 馬鹿馬鹿しい。佐々木万葉はともかく、自分は唯の人間だ。吸い取れるほどの霊力も無い。
危険ならば、自分と同じように彼女を酸で溶かしてしまえば良い。出来ようとも出来なくとも、彼女を壊そうと躍起になれば良い。だが、そうする気配は無い。
この肉――胃はただ彼女を壁へと引きずり込もうとしているだけにしか思えない。
(――そうだ)
――壁へと引きずり込もうとしているのだ。
自分を彼女から引き離そうとしているのではない。傷口を塞ごうとしているのだ。
だがそのためには、傷口を開けている彼女は邪魔だ。だから壁の中へと引きずり込む必要がある。完全に傷口を塞ぎ、炎症という不測の事態を免れるために。
いや、もしかしたら既に炎症を起こしているのかもしれない。
炎症など、自己回復できる蟲にはなんてことはないのだろう。だが内部の、しかも延々と酸が分泌される個所は?
そもそもこの肉は、胃は、何故急激に動き出した? 霊脈を研ぎられて身の危険を感じたから? 内部に侵入した外敵を始末するため? それとも回復するための膨大な栄養が必要になったから?
桐人は一つの答えを見つけた気がした。
――此処は、蟲の急所だ。
胃酸の分泌を止めることはできない。食事の消化と栄養の吸収が必要だから。それが出来なければこの蟲はもう自己修復することができないのだ。
だが万葉が開けている傷は、胃を守る胃粘膜に支障を与えている。外敵や餌の消化を行うはずの胃酸が、胃事体を傷つけているのだ。
塞がらない傷に酸は侵入しつづけ、今も胃を焼きつづけている。
これは条件反射だ。人間の身体と同じように、蟲の身体も唯、己の仕事を全うしているだけ。其処に意思は無い。
本当に意思があったのなら。内臓をコントロールすることが出来たのなら、こんな単純に肉壁を狭めるのではなく、内部に新たな触手でも何でも、自分たちを排除するものを発生させればいいはずだ。とは言っても、これは勝手な憶測でしかないが……。
だがこんなに内部が圧縮しているのは、身の危険を感じている証拠。
(だったら……)
もっともっと。この大太刀が作っている傷口を、広くしてやれば良い。
それで何が起きるのかは分からない。果たして本当に自分の推測が正しいのかも分からない。これで蟲に多大な影響を与えるなんて、思えない。
だけど、其処に可能性があるのならば――やるしかない。
♢
『大きな一口』で蟲の一部を喰らった。
喰らうと同時に覚えたのは、全身が引き延ばされる感覚と腕を伸ばす感覚。挟まる肉塊から脱出するように空洞へと飛び出た手先――万葉が突いたのはなんとも気味の悪い『心臓』だった。
枝のように血脈を伸ばし、王者のように空洞の中央に鎮座するソレは、実に不愉快なものにしか思えない。
貫かれても尚、蛭のような触手を伸ばしては自分から節操も無く『時』を吸おうとするその姿勢は図々しく、汚らわしい。
(危機一髪。喰われてないわね……)
肉塊に囚われた少女――花耶を観察する。所々火傷を負っているようだが、致命傷を負っている様子は無い。意識は無いようだが、しっかりと呼吸を繰り返している。死んではいないようだ。
(で。こいつは、と……)
現状を確かめようと視界を凝らし、貫いた糸先から『心臓』の中を探ってみる。
本当は此処に流れる『時』ごと全てを今すぐに喰らうべきなのだろうが、そうする前に実際にこの『心臓』が何なのか調べる必要がある。それに覚悟はしたものの、やはり『暴食』は避けたい。蟲を駆除する方法が他にあるのなら、そちらの方が断然良い。
じっくりと『心臓』の内部とその血流を観察する。すると、血流の中で漂う『何か』を見つけた。
怯えているのか、挑発しているのか――悠々と泳ぐミジンコのようなソレに神経を尖らせてみる。
(こんなデカ物の主が、コレか……)
濁った乳白色をした殻。なんとも頼りない甲羅を纏う小さな身体。
人間の人差し指で呆気なく潰せるであろうソレに、我知らず笑ってしまいそうになった。
己を見つめているのか見つめていないのか。そもそも存在に気づいているのかさえも分からないほどに、表情の無い『蟲』。
恐らくこれが、この巨大な蚯蚓の『頭部』なのだろう。
まったく、随分と小さな脳味噌をしていたものだ。これなら、あの知性どころか理性の欠片も無い破壊行動にも納得がいく。
恐らくこの蟲に『思考能力』は無いのだろう。あるとすれば、生存本能――『餌』があれば食らいつき、『栄養』を吸収し、怪我をすればその『栄養』を使って回復する。まさに獣……いや、虫だ。
自分たちを翻弄していたのがこんな小さな虫ケラだったと陰察官たちが知れば、一体どんな顔をするのだろうか。
そんなどうでも良い事を考えながら、万葉はこの『司令塔』のようになっている『心臓』とそれを操る蟲を観察した。
心臓の中を流れるのは血に含まれた大量の霊子。他者から霊力を吸い続けているのは蟲というより、この『心臓』自身に思えた。
(意思さえも、持っていないのか……)
以前と力を吸い続けようとしているようだが、蟲から殺意は感じられなかった。
『心臓』が運んでは与えてくる『栄養』をただ口にして成長することしか脳のないのような機械。まるで物心のついていない、生まれたての赤ん坊のようだ。
(これで、はっきりしたな……)
霊力にただ反応して動き続ける蟲はどう考えたって自然に生まれる存在ではない。『心臓』はこの蟲のものではなく、誰かに改造されて付け加えられたものだろう。
――この事件には間違いなく黒幕が居る。
(もう少し、調べたいけど……)
この『心臓』はどこから来たのか。誰のものなのか。どういう経緯を持って生まれたのか。
此処まで身に覚えのある要素が集まると、もう他人事とは片付けられない。
このまま詳しく調査したいところだが――。
『どうしたものか……』
こうしている間にも被害は着々と広がっている。桐人には「力だけは貸す」と約束したが、「助けてやる」とは言っていない。自らリスクを犯してまで人命救助に勤しむ気にはなれない。「助ける」のは桐人の役目だ。
だが此処まで来て奴を見捨てるのも、些か罪悪感が湧く。否。どの道、此処から抜け出すためにこの蟲を喰らう気ではいた。だが、今やらなければ助けられる人間も助けられなくなるかもしれない。可能性の話、ではあるが。
「本当にどうしようか」と、ちらりと周囲の肉壁へと視線を滑らせてみた。直後。かちりと、何かが己に触れる感触がした。
『っ……!』
――しまった。油断した。
触れられた個所を振り返れば、黒い糸を吸収しようと蠢く肉壁。自分が貫ぬいた場所だ。
ぎちぎちと限界まで引き延ばした身体が悲鳴を上げている。例え壊れても自己回復は出来るし、『時』を喰らえば良いのだが、問題が一つある。
『ほんと、ふざけてる』
ふざけすぎていて、笑い出したくなるほどだ。広がる光景に、万葉は眼を飛ばしたくなった。
肉壁に浮かび上がる紋様は――術式だ。
『心臓』が害されれば発動するように仕組まれていたのか、己の動きを封じるように蠢く白き紋。雁字搦めに取り巻くそいつを見て、舌打ちをしたくなった。
(……最悪だ)
最低だ。最悪だ。全くもって最低最悪の一日だ。
首。腕。脚。胴体。全身を絞めらつけれてるような感覚が己を蝕む。触手のようなそいつはギリギリと全身を蝕んでいた。
最早『心臓』を調べるなどと悠長なことを考えている場合では無かったのだ。
この空洞に侵入した瞬間。『心臓』を貫いた時に全てを終わらすべきだった。ぬかった。
(っ動けない、)
壁に映る陣は、甲と乙の文字が刻まれた円。羅針盤にも見える陣の針が差すのは卯の刻――『縛り』に特化した術式だ。底無しとも言えるほどの蟲の霊力を糧に発動している術は流石に強力である。
『時』を喰らうことは愚か、身体を動かすことさえも出来ない。
(また……!)
じわりと己の霊子を食われるのが分かった。だが抵抗しようにもできない。
ああ、最悪だ。繰り返すようだが今日は本当に最低最悪の日だ。
悪臭漂う血肉に埋もれて。霊力を食われて。『縛』られて。そしてまた霊力を食われている。
ぴしり、とまた何処かで不穏な音が聞えた気がする。
流石に身の危険を覚えた。これは早々にどうにかしなければならない。だが、どうすれば良い?
単純にあの肉壁に描かれた陣事体をほんの少しでも崩せれば解けるのだが、残念ながら自分は動くことも『時』も喰らう事も出来ない。
当たり前だが、片瀬桐人が此処に姿を現す気配はない。今頃あの胃腸らしき肉に埋もれていることだろう。完全にアウトだ。
(無理やり破るしかないのか……)
身体の形状を変えようと意識を、己の表面へと集中させた。ハリネズミのように棘を身体から生やそうとするが、全身を包む硬い殻に阻まれて出来ない。まるで身体を鉄でコーティングされたような気分だ。
『縛り』の式は固い。だが破れないわけではない。
殻を突き破ろうと万葉は棘をより鋭く強く押し出そうとした。
身体を動かそうと全神経を力ませる。途端、ぴしりと三つの音が重なった。
その不協和音に内心、顔を歪ませる。
音の元は二つ。罅の入った白き紋様。そして――黒い糸に走る亀裂。自分自身からだ。
流石に無茶をし過ぎたようだ。想定はしていたが現にこうなると、不安を隠せなくなった。このまま無理矢理術を破れば、自分も無傷では済まないのだろう。
(……まて)
音が、三つ?
はた、と万葉は我に返った。
音が三つとはどういうことだ? 一つは、身体を蝕む紋様から。もう一つは自身から。
では、もう一つは?
(っ……)
思わず陣が描かれた肉壁を振り返る。
(なに、)
視界に映ったのは、自分が貫いた壁に広がる黒い染み。その原因は己が開けた穴から来ている異変。しゅう、と微かな音を立てながら其れは万葉自身にも僅かな痛みを与えた。之は。
(――酸)
肉壁に広がるのは炎症。開いた穴を通って酸が肉を焼いているのだ。
(……なんで)
万葉は困惑した。何故。どうして。何処から。
そんな疑問が頭を渦巻いた時だった。ぐい、と強い力で己の身体の端を引っ張られる感触がしたのだ。
(――まさか、)
一人の少年の顔が脳裏を過る。
冗談だろう、と万葉は信じられない気持ちで視線を彷徨わせた。
それは奇跡に近い出来事だった。否。片瀬桐人の捨て身の馬鹿力と、偶然が重なったことで起きた奇跡だ。
桐人が形振り構わず広げた傷口は異様に大きく、そして深かった。
腕一本は犠牲にして作った穴は一メートル程までしか満たなかったが、胃酸を送り込むには十分な大きさである。
そして万葉という名の太刀が突き立てられたのは図らずも桐人よりも斜め下の位置。つまり液体が伝い落ちるには十分な傾斜をしているということだ。
だが、それだけでは遥か遠くにいる万葉の元へと届くわけが無い。では、どうやって其処まで酸が通達したのか。答えは簡単だ。
桐人が居たあの胃は文字通り、蟲の弱点だったのだ。
肉壁には捕えた人間から吸収した栄養を運ぶため、幾多もの霊脈と共に頸動脈のようなものが張り巡らされていた。その動脈の数は何千何百本。そのうちの一本を、図らずも万葉の糸は肉壁ごと貫いていた。
動脈の位置は桐人の腕が届く距離。其処に胃酸は潜り込んでしまったのだ。
届いてしまった酸によって破滅と再生を繰り返しながら、動脈はその胃酸を一滴一滴、運んでしまった。それも万葉が開けたもう一つの穴へと。
万葉は、肉壁と一緒に同じ動脈を二回貫いていた。つまり、一つの動脈に入口と出口と作っていたのである。
塞がらない傷口から桐人の手によって延々と送り込まれる胃酸。そして流れる血液に奇跡的に混じった酸は偶然にも、『心臓』が存在するその空間――そこを通る動脈の穴から、次から次へと零れ続けていたのだ。
まさに、百分の一の奇跡。
自己再生が追いつかない速度で流れ続ける酸は肉を焼き、炎症を起こし、広げていった。それは徐々に万葉の元まで届き、今、彼女の目の前で肉壁を焼いているのだ。
(――嘘でしょう)
その事実を知らない万葉は現実を疑った。
ありえない。
万葉には今の桐人の状況を把握することは出来ないし、奴が何をしたかなんて想像もつかない。だが、どう考えても彼奴が位置する場所から此処まで影響を及ばせることは不可能だ。
じわりじわりと、目の前で黒い染みが広がってゆく。それは己を縛る陣まで到達し、その円を僅かに焦がしていた。
――ぱきり、と何かが壊れる音がした。
陣が、崩れたのだ。
『……っ』
全身を蝕んでいた紋様が薄らぎ、消え始める。どんなに強固な術でも、その陣に傷一つでも入ってしまえば脆く呆気なく崩れてしまう。
なぜ。どうして。どうやって。未だに様々な疑問が彼女の頭を過るが、今はこうしている場合ではない。
――これは、チャンスなのだ。
それを機に万葉は躊躇することもなく、蟲を喰らう体制を取った。考えるのも全部後回しだ。今は蟲を滅することが先決。
自分は『コレ』を食わねばならぬのだ。
(……多いな)
見ずとも気配だけで分かる。通常の許容量を大幅に超える『時』の量に、万葉は目を覆いたくなった。
この『心臓』を見た瞬間から、この巨大な肉体を巡る『時』全てを喰らわらないと事が終わらないことは予測していた。『心臓』を破壊しても『蟲』を滅しても、無駄なのは目に見えている。事実、貫いたはずの心臓は今にも再生をしようと血脈から『時』を吸収していた。巨体を循環している『時』事態を除去して、この『心臓』事体を空にした上で、切りはなさないと『この化け物』は本当の意味で死なないのだろう。
まるで同胞と相対しているかのようで、実に不愉快だ。
覚悟はしていたはずなのだが、実際に現実を前にすると自然と気分が重くなる。
この膨大な『時』の量と比べれば、自分の器など小さいものだ。無理に収めようとしても、溢れ出ることは間違いないだろうし、下手すれば己の精神状態が狂う可能性だってある。いや、それ以前にこれだけ膨大な量を一体どうやって喰らえば良いというのか。軽く一年はかかる量なのだ。こんな無謀なチャレンジ、過去に一度だって試みたことさえもない。本当に厄介なことに巻き込んでくれたものだ。
『時』を根こそぎ吸収してしまえば蟲は滅せるが、同時に囚われた人間たちも死ぬことにもなる。
(仕方ない、か)
先のことを思考して、「仕方がない」と心の内で溜息を吐いた。
とにかく、『時酔い』にならないことを祈るばかりだ。
まず糸状の形態を保っている己を確認する。それから視界を一度遮断した。すると、自然と己の形状へと意識が向きはじめる。
身体の構成を組みなおすために、とりあえず『心臓』を貫いている糸先へと分子を集めた。
少しずつ少しずつ。黒い糸先が膨らんでゆく。
ぷくりぷくり。黒糸に結び目のような丸い膨らみが生まれはじめる。風船のように面積を増すそれは『心臓』の中で成長を続けた。
黒い塊は砲丸のよう。輝きを放たない表面は、何処までも深い深い闇を錯覚させる。塊のはずが、宙に開いた穴にも見えた。
その様子を『心臓』という殻の中で漂う白い蟲はジッと見つめていた。
黒玉の中で渦巻くのは『時』か『霊力』か。どちらにしてもソレは『ご馳走』だ。
白い甲殻が自然とがぱりと口を開く。その裂けた咥内には視覚できないほどの小さな歯の羅列が並んでいる。
蟲は白い光の糸を其処から伸ばした。
ふわりふわり。淡い光の糸が黒玉へと接近する。さらり、と白い先端が黒々とした表面を撫でた。その刹那。
『――誰が食べていいって言った?』
黒玉が爆発した。
幾多もの鋭い針糸が内部から心臓を突き刺し、貫く。
蟲は無力な魚のように串刺しにされ、『心臓』を内包していた肉塊の空洞は黒い糸によって穴だけにされていた。
爆発した黒玉がハリネズミのように棘を生やし、蜘蛛の巣のように糸を伸ばしたのだ。
(これで、いい)
「一先ずこれで準備は出来た」と万葉は身体の力を抜いた。
貫いた蟲はもう動けない。『心臓』もこれで自分の手中に収まる。
(あとは――喰らうだけだ)
これで蟲の『時』を根こそぎ喰らう準備は整った。あとは心の準備を整えるだけだ。
恐怖という感情は無い。だが、だるいとは思う。自分にとって『食事』は生きる上で必要な行為だ。だが、好きなわけではない。むしろ、面倒臭い。人の『時』に至っては、苦手だ。相手の感情や記憶が流れ込むことが稀にあるその行為は、ふと自分が別人になったような錯覚を覚えさせるもので、なんとも形容のしがたい不快さを感じるのだ。
だが、こうなってしまっては仕方がない。既に少年と約束してしまったのだ。正直、反故にしてしまいたい気持ちもあるが、それは流石に無責任にも思えるのでなんとか耐える。
もう、後戻りはできないのだ。
今は人型でない故に深呼吸はできないが、鼓動を落ち着かせる自分を想像して。視界を閉じた。
脳裏に映るのは『流れ』――人が築いた時間。生の源とも言われる『時』。蟲に囚われた人間たちの『時』が光の粒となって、目の前で広大な流れを作っていた。
偉大で。壮観で。触れ難い神秘の輝きを放つその景色に、万葉は知らず息を飲んだ。
――ああ、本当に酔いそう。
だが、その偉観な光景に圧倒されそうになりながらも、胸に渦巻く憂鬱さを忘れることは出来なかった。
膨大な量の粒子に、瞼が半分垂れ下がる。これを全部喰らうのかと想像するだけで、眩暈がした。だが、やるしかない。
怖気づく己を叱咤して、さきほど伸ばした己の糸先へと感覚を研ぎ澄ませる。最初の一口を喰らった。
『……っ』
『食事』を始めた瞬間、万葉は今は無い顔を顰めたくなった。
張り巡らせた糸から『時』を吸収し始めた途端に、点々と見え始めた人の『灯』。
蟲に囚われた人間全ての気配が脳へと直撃し、帯だたしい程の人の気配に混乱しそうになったのだ。
胃から吐き気が競りあがってくる。頭の中を鐘のような衝撃が猛追しているみたいで、理性を手放してしまいそうだ。
(っうるさい……!)
声が聞こえたわけではない。だが魂の声か人の『記憶』か、喧しいと思ってしまうほどの『何か』が頭の中でざわついていた。
暗い暗い海底で、激流に流されているかのようだ。
抗う術も力も無く、ただただ流されるしかない。莫大な『時』の渦の中で、自分を見失ってしまいそうな恐怖が湧き上がる。
『命』の数が多すぎるのだ。
こんな大量の時を取り込んで、冷静で居られるわけがない。考えただけでも頭が可笑しくなりそうだ。
どこかにある自分の心臓を得体の知れない浮遊感が襲っていた。
もう何が何だか分からない。
動くことも出来ず、そのまま他人の『時』の流れの中で、迷子になってしまいそうになった時だった。
――誰かに手を引かれたような気がした。
ふと振り返る。其処には誰も居ない。だけど、この手の感触は覚えている。
此処に来る前からずっと自分を掴んでいた手だ。
――『今、此処で諦めたら……後で死にたくなる……!』
必死に食らいついてくる少年の声がふと耳の奥で蘇った。
瞬間、視界が開き、現実へと意識を引き戻される。
見ずとも分かる。狭まる肉壁に潰されそうになりながらも、必死に抗っているであろう少年。
ぎゅうっと、糸先を通して奴の熱い体温が伝わってくる。何が何でも離さない。現状を打開しようとしているそんな奴の意思を読み取って、ふと笑いが込み上げてきた。
(まだ、放してなかったのか)
もし人型に戻っていたならば、口から呆れを含んだ吐息が零れていたことだろう。
未だに莫大な『時』の流れの中に居ながらも、意外な『命綱』のお蔭で自分を見失えそうにない。
手を貸してやっているつもりが。逆に助けられたような気がして、万葉は釈然としない気持ちを覚えた。
けどそんな情けなさに蓋をして、目の前の問題へと再び向き合う。
流れ込む人の感情、記憶、意思。膨大な数の『命の灯』を前に、今度こそ大きな大きな『一口』を開けた。
『――いただきます』
一息だ。
一息で全てを吸い込もうと全身の力を抜く。
まずは、『蟲』の本体。それから『心臓』。そして自分が貫いている肉塊。其処らにある『時』を喰らい続ければ、自然と『蟲』の全身を循環していた『時』は全て自分の元へと終着する。
唯ひたすらに食事を続ければ、いずれ『蟲』の『時』は底を尽く。
考える必要はなかった。
ただ一心不乱に食らい続けていたら、気がついた時には事が既に終わっていた。
見えざる淡い光の激流が黒い糸を伝って、その根元である万葉の体内へと終着していく。
『時』を根こそぎ奪われた部位から生気が失われる。ドクドクと伝わっていた心臓の鼓動も徐々に引いていった。
機能が途絶えた肉壁が毒に汚染されたかのように、赤から透き通るような薄紫色へと変色してゆく。
数分。いや、一秒にも満たなかったかもしれない。
今にも爆発しそうな勢いでバクバクと鼓動を刻んでいた心臓が、色を失うと同時に停止した。
そうして、静寂が空間を支配したのも束の間。
ぴしり、ぴしり。蚯蚓の中心部から、その器の先まで、罅が入ったかのような音が彼方此方から響きはじめた。
幾多もの亀裂が内部に走り渡り、そして――『蟲』だったものが硝子のように弾け散る。
瞬間、地が揺れたような気がした。
囚われていた人間が霊脈から解放され、彼等が形成していた蚯蚓の肉体も崩壊を始める。
パラパラと肉壁の皮が剥がれ落ち、その奥から囚われていた人の姿が徐々に覗きでる。もし万葉が人の形態へと戻っていたなら、その光景に胡乱気な眼差しを向けていたことだろう。
骨格が浮き出るほどに痩せこけた頬に、干乾びたようにも見える身体。骨と皮しかないその姿は百を超えた老人か、ミイラのようだ。
文字通り生気を失ったその姿は、万葉が再生を許すことなく『蟲』を滅するために、『時』を根こそぎ喰らった結果だった。
ちらほらと彼方此方で己の餌食になった人間たちの姿が視界に映りはじめる。恐らくこの蚯蚓に囚われていた人間すべてが同じ姿をしていることだろう。
(……きも、ちわるい)
崩壊の気配が大きくなり始める空間の中で、万葉は強い嘔吐感を覚えた。
全身をザワザワと何かが這っているような感覚がする。いや、寧ろ身体の内側で何かが暴れ回っていると形容すれば良いのか。
不調が大きいため、まず神経を使う糸状の形態を解こうと全身の力を抜いた時だった。
ぐい、と何かに引っ張られた。
肉壁から突き出ていた己の身体が再び中へと逆戻りし、強力な力で壁の向こう側へと引きずりぬかれてゆく。その衝動で緩んだ糸の形状が崩れ、万葉は慌てて刀身へと戻ろうとした。
だが、そうしている間にもズルズルと柄部分を引っ張られ、先程の不調と胃を襲っていた吐き気が胸へと競りあがりはじめた。
誰だ。と柄を包む強いぬくもりを振り返らずとも万葉は事の元凶を察し、暴言を吐きたくなった。
己を蝕む不快感に耐えながら、取りあえずこの肉塊から引きずり出されるのを待つ。
するとスポリと刀身の先端が肉から抜け、外界とはいかずとも先程と比べて幾分か澄んだ空気に久方ぶりに触れた気がした。そして湿り気と熱を失った空気に感動するのも一瞬。自然と少年の驚いた顔が視界に入る。




