二十三
『……』
――身体中が熱い。
まるで一つ一つの細胞が活発に騒いでいるかのようだ。
細く長く、限界まで己の身体を引き延ばしている万葉は、そのうち身がはち切れるのではないかと言う危惧にも似た不安を覚えた。
無理も無い。物体との同化、個体変異を過去に経験したことはあっても、このような強度の低そうな形に変化したことはなかったのだ。
伸びれば伸びるほど、細くなってゆく身体。己が貫き続けている肉とて柔らかいわけでは無い。密度の高いそれを差し続けながらも、いつか折れてしまうのではないかとヒヤヒヤしてしまう。
(ああ……やだやだ。自分らしくもない)
折れることはないだろうし、折れたとしてもこの肉塊時を吸い取って自己修復をすればいいのだ。
(というか、もういっそ心臓狙わずに此処から時を全部喰らうか……いや、それはそれで酔って、あとで面倒なことになるか)
『時』の過度な摂取は心身ともに影響を及ぼすことがある。
自分という存在を保つための『時』の量は決まっている。それ以上の量を喰らえば、いわゆる『時酔い』を起こすことがある。『時』と共に人の感情が流れ込むことがあり、その量が多すぎると脳を掻きまわされるような感覚を覚えることもある。
他にも多量の『時』が個人の腕力などへと回されることがあり、それで苦労した同胞を万葉は一度だけ目にしたことがあった。
生活に支障を出しかねないリスクだ。
この蟲から『時』を喰らうのはやめておこうと、万葉は考え直した。
(……もう一個、方法はあるけど……やめておこう)
とにかく前へ突き進もうと身体を伸ばし続ける。途端、
『……え?』
ぴきり、と己の身体から罅が入ったかのような音がした。
『なに?』
嘘だろう、と言葉を洩らしたくなった。
確かめなくとも、感覚で細長い針のような形状になっている己の身体の一部に、罅割れが出来ているのが分かった。
身体に切れ込みが入ったかのような感覚。過去にも味わったことのあるその経験に万葉は微かに不安を抱いた。
――霊力、を食われている。
『不可叉』という存在は実態を持たず、他者の『時』で形を保っている。『時』というものは生物の寿命の一部であり、そこには人の生気はもちろん、霊子も含まれているのだ。
つまり、万葉たち『不可叉』にとって霊子は己を模るために必要な物質の一つなのである。
(……っこいつ)
霊力だけではない。それを含む『時』事体を微かに吸収されていることに気付いて、舌打ちをしたくなった。
想定外というよりは、油断をしすぎていた。
ぱきりぱきり、と体から響く音に顔を顰めたくなる。
どうやら、本体へと達する前に己の全てを喰らい尽くすつもりのようだ。
『……っこの、』
パラパラと自分から落ちる欠片に形容のしがたい感情を覚える。
視界も身体も囲い込む肉塊の柔らかさと熱が己の苛立ちを助長させた。
吸われ続ける力に歯止めをかけるように、今度は自分が相手から『時』を喰らった。
すると、一瞬だけ蟲が驚いたようにビクリと肉を震わせた気がして、万葉は更に相手の驚愕に叩き込むように『大きな一口』を開ける。
『時』を喰らえば喰らう程、感情が流れ込んでいる。
それは蟲のものはではなく、この巨体に飲み込まれた被害者たちのものだった。
(胸糞悪い……!)
被害者たちから直接来ている訳では無い、ただ彼等の感情が強すぎるあまりに蟲に吸収されていても残っていたのだ。
脳を伝っては、胸を渦巻くそれらはどれも気持ちのいいものでは無い。激情の渦に意識が飲み込まれそうだ。
(あと、少し……!)
約一メートルで蟲の本体に届く。
この勢いのまま進もうとする万葉。だが、その前に蟲に先手を断たれてしまう。
『……!』
柔らかかったはずの壁が硬化し、伸ばしていた身体が嫌が応でも止まってしまう。
『くそやろう……』
ちっ、と心の中で舌打ちをしながら万葉は再び神経を研ぎ澄ませた。
此処で身体を硬化させたということは自分が奴の本体へと近づいている証だ。意識を集中させれば、確かに心臓の音が先程よりも大きく聞こえてきた。気配もする。
(というか、この気配……つーか、感じ)
覚えのある気配に口を引き攣らせる。
普通の人間より澄んだ気に、此処からでも感じられるほどの膨大な霊力。そして仄かに香るあの独特な甘い匂いに眩暈を覚える。
よりにもよって、あいつか。
大体の予想はしていたが、本当に此処で遭遇するとは思わず頭を抱えたくなる。
しかも気のせいか、心臓とかなり近い所にいる。というよりは、接触しているようにも思えた。
(まずいな)
此処で彼女を蟲に喰われでもしたら、更に面倒なことになる。これ以上、事態が悪化するのは避けたい。
(しかも、これ……)
気配が少しずつ遠ざかろうとしている。
まるで自分から逃げるような姿勢を見せる蟲にいい加減堪忍袋の緒が切れそうになった。
『……ああ、もう』
これはかなり大きな見返りを要求した方が良いかもしれない、と少年の顔を思い浮かべる。
『仕方がない』
どくりどくり。依然と鬱陶しい程に鼓動を刻む心臓。
それに狙いを定め、今にも射殺さんと周囲から『時』を吸収し続けた。
長期戦に持ち込む気は無い。今、此処で、一瞬で終わらせよう。
実質的に深呼吸は出来ないけれども、気分を落ち着かせるように己がそれをする様を想像した。
身体をより細く、鋭く。一撃でアレを仕留めるように。
『……よし』
――食うか。
後に最低一週間は寝台から降りられない事を覚悟しながら、万葉は腹を決めた。
♢
――苦しい。
暗い空間の中。もうどれぐらいの時を此処で過ごしたのだろうか。
変わらず肉壁に囚われたままでいる花耶に異変が起きていた。
背中や、腕、足から力を吸われてるような感覚がした。
吸血されているようなその感覚は、身の毛が立つほどの悍ましさだ。だが、それから逃げることも抗う事もできず、ただされるがままで居るしかなかった。
気持ちが悪い。
身体に温度は既になく、手足の感覚も無くなりはじめていた。
視界も朧げだ、意識も闇へと落ちかけていた。
それでも、強い嫌悪感は胸に残っていて、その感情が自分の意識を押し上げ続ける。
まるで、悪夢だ。
たくさんの人が苦しんでいるのに、何もできず、蟲に良いように扱われて、本当にどうしようもない。
浅く、荒かった呼吸は既に蟲の息と化し始めている。
ひゅうひゅうと掠れた悲鳴を上げるのを何処か他人事のように聞き取りながら、花耶は唇を震わせた。
眼前で、まるで王者のように鼓動を刻む心臓が気のせいか此方へと近づいているような気がした。
苛立ちが恐怖へと変わり始める。
意思を持っているのではないかと錯覚してしまうほど、異様な狂気を感じさせるソレに、腹の底から畏怖の感情が湧き上がる。
心臓から生える血脈が枝分かれを始め、新たに生まれた一本の脈が触手のように此方へと伸びてくるのが見えた。
ゆっくりゆっくり。蚯蚓、というよりは蛭のようなそれがぱっくりと口を開けながら接近してくる。
鋸のような三枚の歯がその口の奥から覗いていた。汁液のようなものがたらりと咥内から零れ落ち始めている。
小さな。本当に小さな、掠れた声が少女の紫色の唇から零れた。
「……ケて、」
――誰か、助けて。
そんな悲鳴にも似た声が空間に響き渡る。
だけど返事をくれる人が居るわけもなく。無情にも心臓が彼女を喰らおうと、白い頬に触れた。
途端、
「っ……」
彼女の顔の横。長い黒髪の間から何かが、不意を突くように飛び出してきた。
「……だ、れ」
不安で揺れる瞳が向く先には、鈍色の光を放つ真黒な糸。
一目で硬質であることが分かるソレは、目の前の心臓を真っ直ぐに貫いていた。
何故だかは分からない。
ただ、どこまでも黒く、真っ直ぐに伸びるその糸を見て、思ったのだ。
ああ、もう大丈夫なのだ、と。