二十
阿魂はこの状況に対してほんの少しの苛立ちと、退屈を覚え始めていた。
別に敵が居るのは良い。だが相手は特殊な能力を持っていなければ、どんな攻撃さえも防御できる合鐵の鎧を持っているわけでもない。なんてことない、ただ怪我をすれば自己修復するだけの蟲。
特に技を捻ったり何か策を練るわけでもなく、単純に触手で向かってきては怪我をして、霊気を吸っては回復するだけの、学習能力の無い自動機械。
つまらない。まさに無為無聊。実に退屈で無益なつまらなさだ。
こんなもの、相手にするだけ無駄だ。さっさと吹き飛ばして酒を摘まみながら月見でもしたいところだが、面倒なことにあの中には用事がある。
その用事である少女を殺すわけにはいかないので、こうも回りくどい手段を取っているわけだが、さっさと片付けたい。
あの蚯蚓の上半身を吹っ飛ばせば自然と腹の中も見える。気配からして花耶はその下部あたりにいるので、ギリギリのところまで力を制御すれば問題はないだろう。位置さえ間違えなければ彼女にまで危害が及ぶことはない。
せめてこの馬鹿げた蟲を作り上げた背後の術師が出てくれば少しは楽しめたのだが、その様子も無。
遠方のビルから薄らと気配は感じるので、この用件が終わったら顔を拝んでみるのも良いかもしれない、と阿魂は思考した。
――奴は、何か面白いことはないかと模索していたのだ。
苛立ちはすれども、焦りはない。愛しい女が捕まっても今のような不測の事態になっても、『酒呑童子』が動揺したことは一度たりともなかった。鬼は気ままに流れに身を任せることもあれば、ふとした思いつきでソレを強引に変えたりもする。
奴は基本的に欲望に忠実であり、目的のためならば手段を択ばない男だ。
だが同時に非情に気まぐれで、掴みどころのない妖でもある。
その琴線になにが触れるかなど、誰にも予測できない。それほどに鬼は、飄々とした気まぐれ屋なのだ。故に、奴は常に警戒されていた。
いつ、どこで、何をしでかすか分からないパンドラの函。それが、酒呑童子――阿魂なのである。
♢
――少年は元から阿魂の眼中になど入っていなかった。
沢良宜花耶の馴染み程度。あとは言うなれば偶に其処に居る都合の良い駒と、自宅と言う名の『休憩場』の持ち主。
一言二言会話を交わしたことは覚えているが、内容は殆ど覚えていない。
そもそも阿魂は少年の存在さえも忘れていた。
確かに府中では奴を脅していたが、アレは偶々自分の視界を横切ったコバエを軽く叩きつぶすぐらいの感覚だった。
阿魂の頭にあったのは単に沢良宜花耶の奪還と害虫の駆除。後は今夜のつまみや酒とか煙管とか日常のことで、それだけだった。
今とてそうだ。なんか居るな、と思っていたら道の邪魔に入ったので軽く消した。そんな感覚で鬼は少年を片付けようとしていたのだ。
哀れ、少年。たとえ鬼の視界に入っていても、結局奴は背景の一部にしか過ぎなかったのだ。
蟲へと突っ込もうとしたら、何かが阻むように立ちふさがったので追い払った。ただ、それだけのこと。
唯、払った先がいけなかったのか其れは蟲に飲み込まれてしまったが、まあしょうがないだろう。
早くこのくだらない茶番の幕を下ろして一服したい。そんな怠屈な気分で腕を一振りしようとした時だった。
――不意に『何か』が動いた。
吹き飛ぶ触手。吸われる霊力。
渦巻く大気の中心で静かに佇む少年に、鬼は久方ぶりに瞠目した。
妖刀か、或いは別の何かか。得体の知れない武器を手にする少年に、一瞬だけ目を奪われたのだ。
――「後で幾らでもぶん殴られてやるから、手を貸せ! 耳を貸せ! この糞鬼が!!」
それを叫ぶ少年は明らかに喧嘩腰でいた。
向けられた切っ先へと視線を這わせ、次に息を荒げる幼い顔へと滑らせる。
擦り傷だらけの頬に、黄ばんでしまった白いブラウス。黒い大太刀を握る手さえも、赤く染まっているのが遠目からでも分かった。
脆そうな身体だ。人間としては平均的なのだろうが、大柄な鬼からして見れば一吹きで簡単に飛びそうな骨身だった。
だがそんな貧弱そうな男がほんの一時だけ放った存在感に、鬼は言い様の無い高揚感を覚えた。
力の無かったはずの人間が、いや、人間だからこそ、この胸の高ぶりを感じたのかもしれない。
誰が思っただろう。このちっぽけな存在がこうしてこの戦場に立つことを。
誰に想像できただろう。唯の人間がああして異様な『力』を手にすることを。
葬り去られたはずの少年がこうして目の前に再び立ちふさがったことに阿魂は予感したのだ。
――面白いことが、起きる。
無味無臭の戦場に、じわりと旨みが加わった気がした。
灰色の景色に一滴の色が垂らされ、波紋を広げてゆく。
退屈が、愉絶へと変わろうとしていた。
必死な形相で此方を睨み上げる面差しを視界に収めながら、鬼は初めて少年を鮮明に認識する。
耳を貸せ、と吐き出した唇は固く引き結ばれ、黒い眼は僅かに充血していた。気張ってはいるが微かに震える切っ先と足元から、奴が既に限界であることを察せた。
次に下界で蹲る蟲を見る。
微かに感じ取れる気配からして、花耶がまだ生きているのが解る。
あれの泣き顔は好きだが、このまま蟲を人間ごと軽く吹っ飛ばせば、後々面倒臭いことになるのは分かっている。
眼前の少年も然り。
なれば、当初のように安易に力づくで事を解決するよりも、少年に耳を貸してみるのも有だ。何やら策はあるようだし、事の次第では手を貸すのも良いだろう。時間ももう無い。今まで嗅ぎ取れていた花耶の香も薄れ始めている。
いざとなれば己の予定通りに事を突き通せば済む問題だ。
肩を上下させる少年へと視線を戻しながら、阿魂は僅かに口角を上げる。
これはこれで面白そうだ、と心の何処かで思う鬼が居た。
♢
差し向ける切っ先が微かに震える。
長い刀身を掲げる腕に、段々と痺れが広がり始めていた。
頭上に立つ赤鬼を猫の如く威嚇しながら、桐人は内心で暗い声色を落とした。
(……どうしよう)
引き結んだ唇が小波のような線を描く。カタカタと鳴りそうな顎を必死に引き締めようとするが、これが中々難しい。
赤い傷だらけの顔が、白から青へと染まり落ちそうになっていた。
――俺、本当に殺されるかもしれない。
視界に聳え立つ大男を見て、足が竦みそうになる。
啖呵を切ったのは良いが、此処からどうすれば良いのか分からない。一時の感情で怒鳴り散らしてしまったことを早くも後悔し始めていた少年は、やはり小心者であった。
あの鬼が自分の指示に従ってくれるとは思えない。寧ろ先程の挑発的な行動で怒りを買った可能性もある。
本当にどうすれば良いのか、と桐人は焦りに焦った。
『――このままヤる?』
さらりと物騒な言葉を囁かれて、咄嗟に首を高速で振らせる。
充血した目で眼前の刀身を凝視しながら、小声で口を捲し立てた。
「無理です! 無理無理! ヤる前にヤられますから、ていうか、今そんな場合じゃないでしょう!?」
『そんなに震えるぐらいなら、最初からやらなければ良いのに』
呆れたような声色にグッと息を詰める。全くもってその通りだ。
『ついでに刀、下したら?』
ぎゅん、と即座に刀身を下げる桐人。
その情けない姿を見上げながら万葉はいよいよ溜息を吐きたくなった。
この少年は度胸があるのか無いのか、よく分からない。先程はあんなに怖い顔をしていたのに今ではすっかり形を潜め、どことなく弱弱しい。
あれほど理不尽なことをされていたのだ。下手したら殺されてしまっていたのだからもっと強く言えばいいものを、何故ここで踏み止まるのか。
そんな彼女の心情を察したのだろう。桐人はどことなく罰が悪そうに眉尻を下げた。
(つーか、本当にこっからどうすれば……)
このまま阿魂に背を向けて、万葉と二人であの蟲をどうにかするか――。
だが、自分たちだけでは些か無理がある。第三者、それも力のある協力者が居ないとあの蟲はどうこうできない。
その事実に歯噛みしながら、桐人は思考を続けた。
(誘導……とか)
どうにか自分の望み通りに動いてくれないかと、紅色を誇る鬼へと視線を上げる。
すると、奴も何故か自分をじっと観察するように目線をねめつけており、桐人は困惑したように眉を顰めた。
(え、なに……)
ひたりと合わせられた紅いビー玉のような眼に、冷汗が垂れる。
やはり反感を買ってしまったのだろうか、と不安に思った刹那。
「……っ」
ぞくりと、得体の知れない何かが背筋を駆け上がった。
悪寒というには生温い、悪意とも違う何か。その筆舌に尽くしがたい寒気に首を竦めながら、唾をのむ。
だが、思考を奪われるのも一瞬。
『――片瀬くん。後ろ』
「えっ」
女性の声に振り返れば、黒い触手がすぐ其処まで迫っていた。
即座に太刀を構えようとしたが、右足を後ろにずらした途端、霊力で固めていた足場が崩れた。
「っ……!」
既に限界を達していたのだ。元々少なかった桐人の霊力は涸渇し、宙に踏み止まろうにも新しい足場を作れなくなっていた。
重心が崩れて、身体が前のめりに傾く。風が頬を叩き、前髪を揺らした。
落ちる。
差を詰めてくる触手をどこか他人事のように目にしながら、身を空に投げ出された瞬間。
「――ひっ!?」
強烈な熱が己の隣を横切った。
紅い業火が眼前の肉を焼却したかと思えば、火の粉が此方まで舞い上がり、断絶的な悲鳴を漏らしながら目を強く瞑った。
するとガクンと首の根っこを誰かに掴まれた。
襟が己の首を絞め、息を詰まらせる。助かったと気づくよりも先に新たな危険が身に迫り、桐人は足掻くように足をばたつかせた。
「……っ、く、くるしっ」
喉仏に食い込む布を何とかしようと間に指を挟む。
懸命に呼吸を繰り返そうとする桐人。そんな奴の様子に首根っこを掴む相手は気付いたのか、襟から手の位置をずらせた。
「は、はあっ……!」
やっと喉を解放された少年が溜まった二酸化炭素を吐き出し、新鮮な空気を新に吸い込む。
肩を大きく上下させながら、少年は上空を仰ごうと首を捻らせた。途端、嫌という程に聞き覚えのある声が鼓膜を震わせた。
「十秒やる。策を言え」
「……え?」
『……嘘でしょ』
靡く紅。天を貫く一対の角。
予期せぬ助け舟に少年は幻覚を見たかのような顔で呆け、手に握られた刀身は現実を否定した。
だが血のように紅い瞳を目にして、女は当惑しながらも何処かで納得するように、吐息を零す代わりに刃に籠った微かな熱を冷やした。
(……ああ、そうか)
自分はこの目を知っている。
闇へと沈められた記憶が浮き出し、酒呑童子という人物を鮮明に蘇らせる。
子供のような大人のような、この男はいつもそうだ。飄々としていて、掴みどころのない。横暴で無茶苦茶で、自然と人を振り回すこの男を万葉はよく知っていた、はずだった。
どうして忘れていたのだろう。
凪いだ瞳子の奥底に見え隠れする『何か』を見つめながら、万葉は思った。
――今も昔も。この男のことは、やはり理解できない。
♢
「土御門捜査官!」
消えた赤鬼を意識から除外して眼前の問題に取り組んでいた春一は、後方から駆け寄る同僚に問いかける。
「状況は?」
「負傷者が五名。防戦一方です」
「そうですか」
蟲を牽制するように何人かの陰察官たちが結界を張っているが、やはりそう長くは持たない。
只管に術を打ち込む男たちを前に、春一は大きな溜息を吐いた。
(このまま、続けても霊力の無駄。寧ろ、逆手に取られるだけか……)
どんな攻撃も効かず、逆に糧にされている事実を苦々しく思いながら呪装銃の弾倉を外す。
このまま時間だけが過ぎれば、『神の欠片』の吸収による更なる被害が広がることは目に見えている。
もう手段を選んでいる暇は無いだろう、と春一は懐からとある箱を取り出した。
「土御門捜査官……?」
「全ての陰察官に後方待機の指示を」
「え?」
「後は俺がやります」
そう言って黒い函の蓋を開ける。
するとぎっしりと詰められた沼色の弾丸が見え、それを視界の端で捕えながら一人の陰察官が眉を顰めた。
「あの、土御門捜査官……」
「時間がありません。早急にお願いします」
口出しは許さないと言うように男には目をくれず、青年は一弾だけ沼色のそれを弾倉に込める。
有無を言わさぬその態度に、何を言っても無駄だと男は察したのだろう。大人しく引き下がると、青年の指示通りに他の同僚の元へと向かいだす。ついでに飛行型の式神を通達者代わりに弐機ほど分散させた。
白い折り紙のような式が、暗闇の中を旋回する。小さな羽をはためかせる其れはまるで蝶の様。
それを横目にしながら、春一は拳銃の状態を確認した。
(……状態からして、撃てるのは一発。あれほど、大きな的なら外れないか)
他人事のように思考していると先程の陰察官からの任務完了の声が上がり、静かに拳銃を構える。
氷柱のような冷たく鋭い瞳が射抜く先は、問題の主柱である蟲。
瓦礫の山に紛れて、罅割れた大道路の上を這いずり回る巨体はやはり異様だ。
暗雲で閉ざされた空の下で、何本もの触手を蠢かす其れは最早蚯蚓の形を失いつつあるように見えた。
奇々怪々とした其れに目を細める。
「……御免」
一言だけ唐突な謝罪を零すと、青年は体内の霊力を弾倉へと集中させようとした。
霊気が微かに振動し、大気を揺らす。途端、
「――赤鬼?」
強い衝撃が地面を襲った。
地に僅かに埋まる巨体と、それの背中を抉る赤い曲線。
(どういうことだ……?)
奴がぶつけた一撃の先は、蟲の中心部――沢良宜花耶が居ると推測されている位置だ。
今迄と打って変わって、迷いのなくなった一撃に土御門春一は眉を顰めた。