十七
西新宿。怒号と轟音が飛び交う横断歩道。
戦場と化した其処には人の形をした者が居れば、異様な形をした者も居り。その軍団と相対する者たちは休む暇もなく力を振るっていた。
誰もが武器を手にしている――結界に覆われたそんな街の一角で、二人の陰察官が静観とした様子で言葉を交わしていた。
「なあ、坊ちゃんよ……」
男が口を開いた途端、半径一メートルの太さはある触手が飛び込んできた。それを咄嗟に躱し、後方へと下がれば、自然とさきほど声をかけた青年と並んだ。
戦闘中だというのに未だに煙草を咥えたままの男――坂下は、青年に問うた。
「俺、煙草の吸い過ぎで目ぇやられちまったみたいでさ、悪いんだけど……これ、どういうことか教えてくんない?」
「煙草で肺はともかく目はやられませんよ。貴方のそれは現実逃避という名の精神疾患です」
「おい、勝手に人を精神病者にすんな」
さりげなく自分を貶められるような発言をされて、男は目元をヒクつかせた。
それに対して青年――春一は億劫そうに溜息を吐くと、目の前に広がる惨憺たる光景へと視線を戻す。同時に視界に二対の影が迫り、それを呪装が施された拳銃で撃ち落した。
撃っても撃ってもしつこく纏わりつくソレ等に、鬱陶しそうに溜息を落す。
「微弱ですが……恐らく、妖震ですね」
先程感じた霊気の揺れ、そして前方に見える蟲の群。明らかに数と異常性を増したそれは、どう考えても先の妖災が原因としか思えない。
互いを喰らい合っているようにも見える蟲たちに、坂下は訝しげに眉を顰めた。
「……こんな時にか」
「随分とタイミング良すぎねーか」と愚痴を零す奴に、春一は緩く頭を振る。
「いえ、むしろ必然だと思いますよ。あれだけ蟲が好き勝手していれば霊気だって乱れもします」
「……そうとなると、もう完全に意図的にやったとしか思えねぇな。これ」
そうやって坂下が胡乱げな眼で見つめる先には、陰察官の術を喰らっても自主再生を繰り返す蟲たち。潰しても潰しても立ちあがるソレ等はまさに不死。
そして少し視線を動かせば、どういうわけか、春一が張ったはずの結界が破られていた。
「……霊力を喰らう、蟲か。さっきのお前の勘、当たってたりしてな」
出来れば信じたくはないが、蟲たちが再生している理由は奴らが吸収しているように見える陰察官たちの術、或いは春一の結界に籠められた霊力にあると思えた。大気中にある霊気も瘴気と共に微力ながら吸っているようだ。
「自分で言っておきながらなんですが、出来れば当たっていてほしくないですね」
「本当に、『あいつ』なのか……?」
「本部の情報局によると」
「……最悪だな」
首裏を掻きながら参ったように溜息を吐く。白い煙が男の口から水のように漏れでては消えた。
その隣で、青年もどこか憂いたように瞼を伏せる。
「そうですね。俺も出来れば夢だと思いたいです」
「現実に蟲で『蠱毒』なんざ聞いたことねぇしありえねぇ……と言いたいところだが、確かにあの『変態野郎』なら出来そうな話だ……もし本当に『蠱毒』みたいにこれがお互いを喰らい合ったら、もう新宿は終わりだろ。それで成長なんてされたら、俺尻尾巻いて逃げる自信あるわ」
「威張らないでください」
「つっても、なあ……」
緩慢な態度で言葉を返す坂下に、春一は咎めるように口を挟んだ。それに対して坂下は猫のように背を丸めると、言いわけ染みた言葉を口にする。
だが、それさえも春一は許さない。
「さっき言ったみたいにこれで最後に残った蟲を呪詛に使われたら、新宿一つじゃ済みませんよ」
弾が切れたのか、ジャケットの内側を探る春一。それを横目にしながら坂下は一つの疑問を抱いた。
「呪詛に使うたって、こんなのでどうやるんだよ? 媒体用にしてはデカすぎるぞ?」
「そんなの知りたくもありませんし、知る必要もありません」
「そうなる前に全て滅します」と最後に言葉を残すと、春一は新たに取り出した錆色の弾を装填して、銃口を眼前の蟲たちへと向けた。
戦闘中の式神たちや他の陰察官たちが少し邪魔になってはいるが問題ない。的を蟲たちの頭部と思わしき場所に絞って、引き鉄を引いた。
「――おみごと」
蒼い閃光が一度に五体の頭を貫く。埋め込まれた弾丸から呪式の陣が展開され、蟲たちの動きを縛った――と、思われた。
「けど、やっぱり効かないねー……」
「……」
へらりと困ったように笑う男の横で、春一は無言を通した。眼鏡のレンズが奴の双眸に宿る苛立ちを隠す。
その双眸の矛先には、陣を喰らう蟲。霊気を糧に、奴の額に開けた穴が塞がれてゆく。
「捕えても、攻撃しても、全部喰われるかー。困ったな、こりゃ」
平然と口角を上げている坂下だが、眉間にはその実参ったように皺が寄せられていた。
他の陰察官たちを見ると、そろそろ限界そうなのが何人か居るのが分かった。これは早めに手を打った方が良いのかもしれない、と緩んでいた顔を一瞬だけ引き締める。
「ぅわあ!?」
人の悲鳴が聞こえた。
脊髄反射でそちらへと視線を走らせると、口を開ける蟲とそれに押し潰される後輩が見えた。
まだ人の形を保っているところを見ると初期段階の寄生体だ。大分進化している他の蟲と比べると力もそれほど無いはずなのだが、それに競り負けるとはやはり後輩たちもそろそろ限界なのか。
押し倒されている後輩はまだ息があるようだが、あのままでは確実に蟲に喰われるだろう。
(あんなに膨大な霊力は喰えねぇはずだったんだけどな……)
蟲は本来力のない人間や子妖怪にしか憑けなかったはずだ。
あれだけ力を吸っていれば、身体が持たずに既に自爆しているはずなのに、未だその気配はない。どころか、より大きな霊力を取り込もうとしており、坂下は舌打ちした。
「面倒な……」
後輩を襲う相手は蟲を取り除けばまだ間に合うかもしれない被害者だ。殺すわけにもいかず、その腕を斬り落とすしかないと呪符を投げつけた。
唯の紙であったはずのそれは込められた霊力によってまるで針のように飛び、宙で風切り羽と化す。
「……あ?」
腕が真っ二つに切断された瞬間、蟲が悲鳴を上げると予期していた坂下。だが予想と反したことが起き、知らず声が裏返る。
腕を切り裂かれた蟲はソレを失った途端、肉体を膨張させた。
背中が盛り上がり、原型をなんとか保っていた人間の形が崩される。風船のように膨らんだそれに、坂下は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あー……結構、美人だったのに」
憑りつかれていた依代は坂下の好みだったのだろう。だが今やその女性の姿も跡形もなく消えそうだ。
どうにか助けてやれないかと思案してみるが、思い浮かぶはずもなく。途端、ぞくりと背筋を悪寒が走った。
嫌な予感がひしひしと首裏を刺激し、坂下は億劫そうに振り向く。
其処には己の銃を弄る、もう一人の後輩が居た。
「土御門捜査官、あんた……何するつもりだ?」
「あのまま陰察官まで喰われたら、冗談ではすみません。霊力を喰らって再生すると言うのなら、再生する肉体ごと滅すれば良い」
「そんなことしたら寄生主も死ぬぞ」
「あのままでもどの道、助からないでしょう。手段を択んでる暇はない、『神の欠片』の方もあるんだ。被害を増大させるよりマシです」
男の下らない質問には構わっていられないと言うかのように白銀の弾を取り出す春一。
空っぽだった弾倉に幾つか弾丸を込め、装填動作を行う。状態を確認し、安全装置を外すと次には小さな声色で呪文を口にしていた。
「百鬼を退け凶災を祓う、弐の陣――喼急如律令」
淡白く光る陣が銃を囲み、其処を中心に新たな術式が円形に展開されてゆく。
迸る霊気が空気を揺らしては風を起こし、遠方にいる坂下の髪でさえ靡いた。
はためく前髪の下で、坂下は目を細めた。
「随分と物騒なもん展開してっけど……許可は降りてんのか?」
「上層部の腐れ小言など幾らでも聞き流せる。くだらない制約によって、これ以上被害が広まるよりマシだ。それに、酒呑童子の方もある」
苦言を足す奴に、春一は一瞥もせずに銃口を構える。
展開された陣が奴の白い肌を蛍光色に照らし、拳銃の形状を変化させた。
あるはずもなかった部位が増えてゆく。片手で持てるはずだった銃が細く長く、大きく化し、銃身が伸びる。装備を見る見る変えてゆくそれに、坂下は舌打ちした。
「馬鹿か、そんなことをすれば……」
制限を破れば、春一の先など目に見えている。上層部からは小言だけで済むかもしれないが、その分厄介な輩が顔を出してくるはずだ。
被害は収まるだろうが流石にその決断は早急すぎる。奴を止めようと坂下は駆け出そうとした。
だが春一は耳を傾けることも躊躇することもせず、左手の人差し指をゆっくりと引き鉄に添えてゆく。
「――土御門!」
形状を整えようと銃創が熱と音を上げる中、風音に紛れて坂下の声が微かに聞こえてきた。
だが、構うことはない。
的を目の前に並ぶ蟲たちへと絞り、弾に呪を込める。
(これで、残るのは赤鬼たちの方だけだ……)
蟲が陰察官たちでさえも食えるということは、『神の欠片』の力さえも吸収してしまえる可能性を示している。これ等をすぐに片付けなければ、後々悲惨な事態を迎えることになるのは星詠みせずとも解る。
急いでこれ等を滅さなくては、新宿が終わるどころの話では済まなくなる。
冷静な思考の上で下した決断に従い、春人は引き鉄を引こうとした。瞬間、
――何かが落ちてきた。
「今度はなんだ!?」
声を荒げたのは坂下だ。
前触れもなく、突如地を襲った衝撃。
墜落した影が一匹の蟲と衝突し、同時に奴の巨体をアスファルトへと僅かに減り込ませた。
蜘蛛の巣のような罅が広がった道路の上で、巨体がぴくりと痙攣を起こしながら膝を着く。
その様子を仰視しながら、春一は目を剥いた。
「……っ」
鋭い眼が向く先は、巨体の上へと落下した影。
頭部を突き刺す大太刀は黒く、武骨だ。
だが、肝心なのはそこではない。問題は、それを握る男の手だ。
擦り傷だらけのボロボロの腕。顔にも赤い線が幾つか覗き、奴を満身創痍にも見せる。
白かったはずの制服は土と埃、そして血で汚れている。
土御門春一は己の目を疑った。
揺れる黒い髪に平凡な顔付き。
自分と同じ高校の制服を着るその少年は――
「かたせ……?」




