十六
低く立ち籠める暗雲が、空を閉ざしている。
遥か遠方まで続く雲は、まるで頭上にもう一つの大地が浮かんでいるかのようだ。
閉ざされた空の下を駆けながら、桐人はそう思った。
暗い。空も街も空気も全てが重く、まるで新宿という街そのものが箱に閉じ込められているような気がした。
「……本当に、こっちでっ良いんですか先輩っ!」
肩に担ぐ大太刀に声をかける。
荒い呼吸を繰り返しながらも、途切れ途切れに言葉を懸命に吐き出した。
『ええ、君も見たでしょう? 私も最初は阿神谷の鳥居から入ってきてると思ってたけど、あの蟲たちは別の方向から来てた』
「別の方向って……」
『西新宿の高層ビル――こっち側の紅い塔の天辺に、もう一つ通行口がある』
「……あれか!」
江戸に似た街中に、一本だけ曇天に聳える紅い摩天楼を見つけ、桐人は其処へと一直線に走り抜けた。
だがそうは問屋が卸さず。狭い通りや建造物の隙間を掻い潜れば、自然と蟲に出くわす。
(……っまた!)
大きな爪が自分を貫かんと猛突してくる。
逃げたくなるのを足で踏ん張り、此方へと向く矛先を目で捕えるかのように凝視した。爪が約二歩ほどの距離まで迫った時、左に足を踏んで回転するように横に逸れれば、鋭利な先端が鼻の先を掠めた。
瞬間、回転と共に振り回した太刀が眼前の其れをぶった切る。
「あぁああ!!」
『何か』が悲鳴を上げると同時に視界に血が舞った。
それに眉を顰めながら、前へ進もうとすると別の影がまた新たに覆い被さってくる。
危険を察知して咄嗟に後方へと飛び、猛追する触手から逃げ回りながら、今度は自分から本体へと迫っていった。柄を掴む掌を滑らせ――左手を頭に、右手を鍔の無い先へ。そのまま腕を交差させて構えて、相手の懐へと潜り込んだ、その刹那――左を軸に右手でバカでかい刀身を振り回した。
「っぶは……!」
大きな音と土煙を立たせながら倒れる巨体たち。それを躱しながら、足を休めることなく走らせる。
敵と相対している間、力むように止めていた息を口から一気に吐き出した。肺が空気を求めているのか、心臓がバクバクと激しい鼓動を刻んでいる。
元々と荒れていた息が更に悪化し、ひゅうひゅうと喉が掠れた音を鳴らした。
「ってか、まだ、いんのかよ……!?」
眼前にもう一体蟲を見つけ、我知らず悪態を吐く。
身体が重い。腕が痺れている。
痛みと疲労で軋む身体に音を上げそうになりながらも、桐人は一心不乱に太刀を振り回した。
桐人に戦闘の経験がなければ、刀を握ったことはおろか、喧嘩など殆どしたこともない。
それでも何故か奴はどう動けば良いのか分かっていた。脳に流れ込む何かが自分に刀の扱い方と動き方を教えてくれる。これは、
――万葉だ。
実際に何かを指示されているわけではない。言葉を向けられているわけでもない。
だが、握った柄を通して桐人は彼女と感覚を共有しているような気がした。
敵の攻撃を早く躱そうとした瞬間、一拍子待ってから動いた方が良いと何故か咄嗟に判断でき。また、刀を振り回そうとした瞬間、力では無く、遠心力でどう振りぬくのか即座にイメージが頭に浮かんだ。
それはきっと、この大太刀を握っている故なのだろう。
流れ込む『何か』に従いながらも、懸命に最善の判断と行動を繰り返す片瀬桐人。
そんな少年を見て、万葉は少しの感心を覚えた。
(すごい根性……よくやる)
桐人は恐らく気付いていないのだろう。
自分という大太刀を握ることで、刀や体の扱い方を覚えてはいるが、身体能力や霊力が強化されているわけではない。実際、扱い方を教えることは出来ても、力を与えることはできないのだから。
万葉のお蔭で桐人は己の身体と刀を最大限まで上手く使いこなしているが、それだけで敵は切り伏せない。
何の力もない人間が化け物と相対した時、普通は恐怖や戸惑いが命取りになるはずだ。
だが今のところ、桐人にそのような気配はない。
奴の手に触れていれば解る。恐怖はあるのだろう。戸惑いはあるのだろう。だが、迷いが無い。
既にギリギリの崖っぷちに立っている故か、少年は躊躇することなく化け物に接近しては、思い切り良く刀を振るっていた。
(身体もよく保つな……)
奴の息はもう切れ切れだ。体力だって既に限界を超えて良い頃だ。なのに、少年は未だに最大限の力で動いていた。普通、ここまで保つものなのだろうか。
答えは、否だ。
(さすが、妖怪ホイホイ……経験の賜物か)
先程の唐傘や化け狸の姿が脳裏を過る。
太刀と化していなければ、くつりと万葉は喉を鳴らしていただろう。
桐人の其れは才能でもなければ、元の身体能力によるでもない。単なる、慣れだ。
少年は過去に何度も色んな妖怪絡みの事件に巻き込まれてきた。その間も恐らく戦力外として、いつも蚊帳の外に居たのだろう。
だが、万葉は知っている。
――この少年は以前にも自分を助けようと咄嗟に飛び出していた。
朽木文子が起こした事件の時もそうだった。この少年は目立たない場所に居たはずの自分に気づき、尚且つ咄嗟の判断、或いは無意識で自分を助けようと飛び出したのだ。そして、奴は見事に自分を庇うことに成功していた。
普通に考えてみよう。あの時の自分と奴との距離は約六メートル以上はあり、おまけに自分は図書館の入口――桐人たちには殆ど死角に近いところに隠れていたはずだ。
そして目の前には異様な力を放つ、危険人物の朽木文子が居た。そんな人物が眼前に居れば、相手に注意を取られるはずだ。なのに、そんな状況であんな場所に居た自分に、普通気づくだろうか?
不可能ではないだろう。だが、普通はない。事実、土御門春一たちは自分に気づいていなかった。
それなのに、片瀬桐人は気づき、尚且つ咄嗟の判断で朽木文子の攻撃が自分へと及ぶ前に、奴は飛び出したのだ。
これは紛れなる片瀬桐人の一つの、たった一つだけの、異常性を物語っていた。
この少年は異様に周りのことが良く見えている気がする。
間抜けな所はある。実際に鈍い、と思う所もあった。だがこの少年は時々、意表を突くかのように、誰もが見落としそうな盲点を拾うことがあった。
今も、朽木文子の時だって、そうだ。こいつは無意識にも、常に周りに気を配っている節がある。
この瞬間にも、こいつは敵をよく見ている。その証拠に動きを、隙を、相手の最も弱い急所を、無意識に見破っていた。
それは恐らく、今まで巻き込まれてきた数々の事件の経験の中で、育ててきたものなのだろう。
何も出来なくとも、誰かのためにならないかと周囲を注意深く観察し、普通の妖怪助けの時に周りに気を配り、いつの間にそれは無意識の『癖』になっていた。
事件の渦中に居なくたって、危険な目にあっていたのだ。その間に危機的察知能力や、最善の行動を取るための判断力が必要とされたはずだ。ついでにあれだけ毎日のように妖怪共の面倒事に巻き込まれていたのだ。嫌でも、普通より逃げ足や体力だって鍛えられたはず。
(誰も気づかなかったのかねぇ……)
いや、気づくはずもない。
それは特質目立つことのない、ただ異様に発達しただけの『注意深さ』なのだから。
体力だって、判断力だって、そうだ。それは平均以上あるだけで、奴は他に特質な霊力を持っているわけではない。むしろ、それに関しては平凡以下だ。
こんな『もの』、こんな状況に陥られなければ目立つことはなかっただろう。
(道端の石っコロ、ね……)
事件となると常に周囲に気を配る『癖』、迷いの無い判断力、度胸と根性――それらは全て様々な事件に関わることで、培ってきたものだ。
唯の石コロだったのだろう。戦闘の何の役にも立てない、一番の足手纏いだったのだろう。
それでもこの少年は石コロなりに邪魔にならぬよう、出来るならば力になれるよう、誰にも気づかれぬまま悪足掻きをしていたのだ。
逃げず。かと言って誰の足も引っ張らず、自分に出来る最善を尽くしてきたのだ。
誰かに聞かずとも解る。東八町亭でその性格は嫌でも把握させられたし、今まで何回か奴らの事を観察していたのだ。
(まったく、馬鹿だねぇ)
逃げればいいのに。誰も責めやしないのに。こんな所まで来てしまった、馬鹿な少年。
それは万葉からすればなんとも愚かで、愉快なものに思えた。
(あと、どのくらい持つのかな……)
どんなに足掻いても結局は普通の人間だ。
その身体がどこまで持ち、果てには本当に、この大掛かりな事件を解決できるのか、見物だ。万葉はこの先のことを想像して、少し楽しくなった。
(結構、心の方も応えているみたいだし……)
笑うように刀身を研ぎ澄ませながら、蟲たちを喰らう万葉。その意識が向かう先は桐人の苦心に満ちた表情だった。
刀を振るう度に、桐人は思う。
(……身体が、重い!)
肉を斬る瞬間、血が視界に映る瞬間、その度に奴は無意識に歯軋りをしていた。
殺していないのは分かっている。それでも肉を断つ感覚が生々しく、重く――何かを斬る度に腕と背中が重くなってゆく。
だけど、立ち止まれない。果たさなければいけない目的があるから。だから、自分は喉に詰まる何かを無視して、腕を振るい続けていられるのだ。
(どれぐらい、斬ったんだ……?)
何人斬ったかなど、恐ろしくて数えてもいない。だが少なくとも二十体以上は斬っている気がして、桐人は耐えるように唇を強く噛んだ。
自分に迷っている暇はない。進むしかないのだ。
そう言い聞かせて、『表』へと繋がる入口へと軋む足を無理やり動かした。
「はっ、はっ、は……」
休むことなく走り続けて数分。
桐人はやっとの思いで塔の最上階を超えて、屋外へと登り詰めようとしていた。
木板の階段を踏み続ける。
足はガタガタで、手摺が無ければ転げ落ちていかもしれないほどの有様だった。
それでも少年は止まることなく、足を進め続けた。
額から汗が流れ落ちる。目にかかりそうなそれを拭うと、手に血がついた。
そういえば、何度か化け物の攻撃を避けきれず、掠り傷を幾つか負っていたな、と思い出す。きっと自分の顔は腕や肩のように、擦り傷だらけなのだろう。
ずきりと気のせいか、腹の方からも痛みを感じた気がして桐人は苦笑した。
だがそうやって、思考をどうでも良いことへとやることで、疲れの方も何処かへ飛んでいった気がして、そのまま階段を登りきる。
途端、風が吹いた。
「空が、近い……」
開けた屋上。上を見上げれば、暗雲が大分近い所まで降りたような気がして、桐人は目を細める。
前へと視線を戻せば、紅い塀以外なにも見えない。
こつりと靴底を鳴らしながら、万葉へと問いかけた。
「先輩……あっちへの出入り口って、どこですか?」
『そのまま真っ直ぐ歩いて』
脳内に下された指示のまま、足を進める。
何処まで歩けば良いのかと思考していれば、何時の間にか塀に辿りついてしまって、思わず立ち止まった。
『そのまま、塀に足かけて』
「あ、はい」
疲れからか、或いは万葉を完全に信頼しているのか、桐人は特に戸惑うことなく塀に足を掛ける。
『そのまま飛び降りれば、万事オーケー』
「はい」
そして素直に頷いて、右足の後に左足をかけようとして……停止した。
「……って、大丈夫なんですよね。これ」
ふと悪寒がしたのか、冷汗を垂らしながら桐人は恐る恐る万葉に質問をぶつけた。
そんな奴に、万葉はにっこりと笑みを向ける代わりに、ぎらりと刀身を煌めかせる。
『正当な通路じゃないけどね。でも私も時々使っているから、保証はできるわよ』
「そ、そうなんですか」
『うん、そこに落ちれば自然と表に出れるから』
「ちなみ、落ちたらって、表に戻った途端に其処も宙だったり……」
彼女が保証してくれているのだ。此処は大人しく従って飛び降りべきなのだろう。だが、それでも桐人は怖くなって先の安否を確かめてみた。すると、
『二百メートルほどの距離を落下すれば、ちゃんと足も地に着くわ』
「それ、俺死んでますよね!?」
案の定、嫌な予感が的中した。
馬鹿な桐人にだって分かる。たとえ戦えるようになっても身体が丈夫になったわけではない。二百メートルなどという高さからパラシュートも何も付けずに飛び降りたら、即死だ。
だが脳裏に流れる女性の声は平然と返す。
『いや、案外膝が飛ぶだけで済むかも』
「ねぇよ!! つか、膝飛び出したところでアウトだよ!」
『じゃあ下半身』
「余計に悪化してる!? 正直に言えば良いって問題じゃないですよ、これ!?」
『大丈夫よ。私が憑いているじゃない』
「本当ですね!? 本当に何とかしてくれるんですね!? 喰われるなら兎も角、菜々美ちゃん助ける前に自分からビル飛び降りて自殺的なことになるの、嫌ですよ俺!?」
本当にこんな形で死んだら堪ったものではない。それだけは嫌だと、桐人は全力で万葉に確認した。
だが、こうは声を荒げているものの、実際には心のどこかでホッとしていた。
万葉が大丈夫だと言うのなら大丈夫なのだろう。こんな風に既に力を貸してくれるのだ。きっと何とかなる。
理不尽なことを言われている桐人だが、この短い間に徐々に彼女へと信頼を寄せ始めていたのだ。
『大丈夫。何があっても菜々美ちゃんだけは助けてあげるから』
「ああ、そうか。菜々美ちゃんだけは助けてくれるんですね。そっか、良かった。なら、大丈夫……」
菜々美ちゃんだけは助けてくれる。その言葉に桐人は安堵しそうになった。が、
「って、っ思いッきし大丈夫じゃねぇじゃねぇかあ!?」
明らかな落とし穴に気づいて我知らず怒鳴る。
『菜々美だけ』は助けると言うことは、もう桐人が助かるという保証はないと断言しているようなものだ。まるで騙すように、滑らかに、かつ自然にその事実を織り交ぜる彼女に桐人は初めて不安を抱いた。
もしかしたら、俺、知らないうちにとんでもない事をやらされるのではないだろうか。
ぶるりと悪寒が走り、身体を震わせた。
紅い塀を前に怖気づく奴に万葉は億劫そうに息を吐こうとするが、刀になっていたのを思い出し、少しムッとする。
面倒臭い。ただ、そう思った。
此処まで来たのだ。今更、怖気づくことはないだろうと思考を走らせる。
『菜々美ちゃんを助けるんでしょう?』
こんなところで迷っている暇があるのか? とその問いで桐人は鈍器で頭を殴られたような気がして、息を飲んだ。
「……」
ちらり、と下を確認した。其処には薄い霧か何かで霞んではいるが、江戸のような大きな町並みが見える。
そしてその小ささと、鼓膜まで響く風の音のお蔭で、この場所の高さをよく実感できた。
ごくりと唾を一飲み。次にギュッと目を瞑って、叫んだ。
「――ああ、もう!」
がしりと塀を掴み、そのまま飛び越える。
紅い囲いを超えてしまえば最後――桐人は身を宙へと投げ出していた。
――どうにでもなれ!!
ぶわりと下から風が覆いこむ。
息を空気圧で阻まれ、襲う風を塞ぐように目を細めた。心臓がひゅっと引っ込み、ジェットコースターに乗ったような心地を味わう。
だが、風圧に耐えるも一瞬。
「……っ」
――視界を阻んでいた霧が晴れたかと思えば、闇に灯る橙色の光が見えた。
暗く染まった地上の中で、ぽつぽつと天の川のように煌めく景色に目を奪われる。
(新宿って……)
しかし感動を覚えるも束の間。
少年が落下していることには変わりなかった――。
「っひ……!」
哀れ、少年。
恐怖に悲鳴を上げることさえも許されず、重力に従ってそのまま地へと落ちた。




