十三
少年が頑固として頭を下げ続ける中、万葉は思った。
(あーあ……こんなに必死になっちゃって)
つい、と少年の格好に注意を向ける。
相当手酷くやられたのであろう、痣だらけの腕。
白いブラウスは土埃まみれで、小汚く。手だって、爪に泥が詰まってボロボロだ。
軽く抉られた腹は痛いだろうに、形振り構わず、床にその頭を擦りつけている。
奴を見下ろす万葉には、そのボサボサの頭と小汚い背中しか見えなかった。
――無様な
そう、無様だ。
何の力も無く、戦力外として放置され、このような場所に居ることも恐らく誰にも気づかれていないのだろう。
筋力も頭も、覇気の欠片も無いその哀れな姿は、正に道端の石ころ。例え目に入ったとしても、特に気にされることのない存在だ。
弱く、儚く、脆く。ほんの少しの力で突けばあっという間に崩れ落ちてしまいそうな身体。自分に力など無く、当てになる伝手も無く、このような不審な女に助けを求める少年はなんと哀れで、無様なことか。
その上、手を貸してくれだのなんだのと自分の意見ばかり。なんて身勝手な男……いや、子供だ。それを自覚してる分、質が悪い。
情けない。唯、その一言にしか尽きない格好である。
(指もそんなに床に食い込ませちゃって……誰がその畳を弁償するのやら。本当にどうしようもないな)
だが、万葉は何故かその背中から目を離せなかった。
『後で、死にたくなる』と言った少年へと、引力のように視線を引き寄せられたのだ。
頼りないその姿は、確かに小汚く見っともないはずなのに。頭を下げるその背中が、決して壊れることの無い、強固なものに思えてならない。
無様な格好をした情けないはずの男が、一瞬だけ、圧倒的な存在感を放ったような気がした。
万葉は、確かに『揺れた』。
自分はこの背中を知っている。
何時だったか、もう思い出せない。だけど決して消えることのない記憶。
床に這いつくばり、誰かを助けんと無駄な足掻きをしていたのは『誰』だったか――。
『後で、死にたくなる』。その言葉の意味を万葉はよく知っていた。
無力で、無様で、哀れな『女』。
不死身のくせに。刺されても、撃たれても、死なないくせに。大切な誰かを救えなかった『女』。
無様に泣いた。見っともなく叫んだ。喉を掻き毟り、足を殴りつけ、何度も壁に身体を打ち付けた。
許せなかった、大切な誰かを救えなかった自分が。
狂おしいほど辛かった、自分だけ生きていることが。
受け入れたくなかった。『彼女』は死んでしまったのに、自分が生きている事実を。
数少ない友人が亡くなった瞬間を思い出しては、『死にたくなった』。
(今日は二十一日だったけか……)
五月二十一日。初めて一人の『不可叉』が死んだ日。
ふと、こんなに感傷的になったのはそのせいなのかもしれない。
――けど、まさかよりにもよって、『あの日』のことを思い出すとは思わなかった。
『あの日』は今日じゃない。五月二十一日は『あの友人』ではなく、名も知らぬ『不可叉』の命日だ。
それなのに、あの時の感情がふと蘇ったような気がした。
死に慣れていたはずの自分が、激情した最後の『あの日』。
泣いて泣いて。苦しんで、叫んで、怒りと悲しみで思考を埋め尽くされた日。
『あの日』――自分もこんな風に頭を床に擦りつけてたな、と万葉は目の前の少年を見た。
(こんな時もあったっけな……昔は)
理由は違う。目的も違う。
こんなのよりは激情的だったし、アレは土下座じゃなくて蹲ってただけだ。
だけど、それでも。
――目の前の背中が、『誰か』と重なったように見えた。
酒でも飲み過ぎたのか、と思わず溜息を吐く。
瞬間、ビクリと目の前の少年が肩を揺らした。額は以前と床に擦りつけたままだ。自分が立ち去ってもずっとこの体制でいるつもりなのだろうか、この子は。
(酔ってるのかな……)
いつもなら「じゃあ、死ねば?」とか言って断るのが自分だ。だけど何故か「しょうがない」と気楽に思う自分が居た。
その殊に、「あーあ」と頭を掻きむしる。
「悪いけど、面倒事は御免だ。君のために動くつもりも、戦う気も毛頭ない」
「そんな……」と唐傘が信じられないというような目で此方を見るが、知ったことではない。構わず万葉は続けた。
「けど、『力』だけなら貸してもいい」
その言葉にぴくりと少年が肩を揺らし、恐る恐ると顔を上げる。
後ろでは唐傘が吃驚したように傘を広げ、隣の化け狸も目を丸くしていた。小人のような老人も僅かに髭を揺らしている。
「その代わり条件がある」
「……」
呆けたような顔をする少年に告げた。「だが、その前に」と後ろで待機している奴らへと視線を向ける。
「とりあえず、そこの三人は今すぐ此処から出て、飲み屋にでも行きなさい」
「な、はあ!?」
「ここからは私と少年の取引だ。部外者は立入禁止」
突然投げかけられた命令口調に唐傘が騒ぎ出した。ばっさばっさとその傘を開いては閉じ、開いては閉じながら喚く。
「ええい! お離しなさいなたぬま殿! このような野蛮な蟲喰い、片瀬殿と二人っきりにさせ……」
「へいへい。良いから行きますよ、からかささん」
暴れる唐傘を押さえつけるたぬま。流石、大人なのか。或いは『取引』というもの事体に理解があるのか、奴は上手く唐傘をあしらいながら、個室を後にした。
だがやはり心配なのか、最後にちらりと桐人を名残惜しそうに見た。
「佐々木さんとやら。あっしが口出しできる問題ではねぇですが……」
「心配しなくとも悪いようにはしない。多分」
「……その言葉。信じてますぜ」
最後にそう言葉を残して、今度こそ二人は襖の向こうへと消えた。
土竜もどこか飄々とした様子で出て行く。
「あまり子供を苛めてはなりませんぞ」
「良いから、さっさと行け。この狒々爺」
しっしっと邪魔者を追い返す。
ふぉっふぉっと笑い声を上げながら去りゆくその小さな背中は、なんとも子憎たらしく思えた。
部外者が去り、襖が閉じられた密室。
言葉も無く相対する二人の間に数秒の沈黙が落ちる。
「さて……」
襖の向こう。三人の足跡が大分遠ざかったところで万葉は桐人へと向き直った。
こちらへと向く琥珀色の瞳に、少年が僅かに肩を強張らせる。随分と緊張しているようだ。
「まず、一つだけ言っておくけど」
ごくりと唾を飲み、桐人は床に手を着いたまま、胴体を少しだけ起こした。
「私は面倒事には関わりたくないし、妙なことやらかして陰察官に目を付けられたくないの。だから悪いけど、私は絶対に動かない」
そう言って、目線を合わせるように万葉は膝を着いた。
ひたりと二人の視線が合わさる。
「彼女を助けたいのなら。君が自分で助けなさい」
助けを求めれば、誰でも手を差し伸べてくれると思うな。自分のことは自分でやれ。自分の力で掴み取れ。
自分から動かない限り、他人が動いてくれることなんて決してない。
その意味をよく理解していた桐人は、口を堅く結び、同意するように顎を引いた。
分かっている、現実がそれほど甘くないことを。
だから出来るだけのことは自分でやる。これだけ身勝手な願いを既にしているのだ。危険な仕事も、汚れ役も、全て自分が請け負う。
頼みごとが頼み事だから、恐らく彼女に既に多くの負担をかけているのだろうが、これ以上増やさないように「努力をする」だけではなく、何が何でもやり遂げよう。
そうやって、決意を固めるように桐人が拳を握ると、万葉はすっと人差し指を奴の前に翳した。
「ここで、一つ取引をしましょう」
来た。此処からが正念場だ。
これで桐人がちゃんとした答えを万葉に返さなければ、きっともう二度とこの願いは受け入れてもらえないだろう。
何があっても怯んではいけない。例えそれがどんな条件でも飲み込む。
桐人は静かに居住まいを正した。
「私は自分で動く気はないけど、君に力を貸すことなら出来る。けど、その代わり。その報酬分はしっかりと貰う」
そう言って万葉が三つの指を立てる。
「条件は三つ」
ごくり。桐人の喉が上下する。
「一つ、このことは他言無用。私に関することは一切誰にも話さない事」
これは必須条件。報酬と言うより取引に応じるための必要事項だ。
「二つ、助けるのはこれで最初で最後。二度と助けを求めるな」
これも当たり前の言だ。こんな大きな仕事をしてもらうのに、また彼女に別の何かを頼むなんてとんでもない。
「そして三つ。例え私に喰われても……文句は言うんじゃないわよ」
その条件を聞いた瞬間。桐人は一瞬戸惑ったが、数拍の間を置いて、覚悟したように頷いた。
これも多分、当たり前のことなんだろう。
彼女に喰われるという言葉に少し引っ掛かりは覚えるが、どの道自分は危険な道を歩んでいるのだ。
それにきっと、この仕事は彼女にとって『桐人の命』が見合う、或いはそれ以上に、危険でリスクの高い仕事なのだろう。
危険を冒して、助けてもらうのだ。文句は無い。
「約束、します」
その言葉に嘘偽りは無い。
それで彼女が満足するのならば、自分は幾らでも身体を捧げよう。
挑むように此方を見つめる双眸に万葉は少し目を丸くすると、「では、交渉成立だ」というように口角を上げた。
(やっぱり、怖気づかないか……)
脅しのつもりで言ったのだが、やはりこの少年には通用しなかったらしい。
けどそれもそうかと、この少年の今迄の様子を見て万葉は苦笑した。
全く、馬鹿な人間である。
片瀬桐人に求めるものは何も無い。万葉が本当に欲しいものは万葉にしか手にいれることが出来ないし、それを奴が持ってこれるとは思えない。
だから、はっきり言ってこの仕事はタダ働きに近いのだ。
「そんなに身構えなくても大丈夫よ」
「いや、別に……」
緊張状態にあるのだろう。かちんこちんに固まっているように見える少年に、不謹慎にも笑ってしまいそうになった。
「それに、君には借りがまだあったしね」
「え……?」
思い出すのは初めて沢良宜等と言葉を交わした日。
あの日、土御門春一に捕縛されそうになった時のことを万葉は思いだした。
考えてみれば片瀬桐人には二度、助けられている。一度目はまあ必要なかったのだが、朽木文子からとばっちりという名の攻撃が身に降りかかった際、桐人は身を挺して己を庇ってくれた。
よくよく考えてみれば、こいつも結構なお人好しだ。身勝手なところもあるが。
「で、君。何か、武器もってない?」
「へ……?」
唐突に投げかけられた突拍子もない質問に、桐人は驚くも直ぐに思い至ったかのように周囲を見渡した。
「別に武器でなくとも武器になりそうなものでも良いわよ。針とか、カッターナイフとか。まあ、無かったら無かったで、其処ら辺の箸を使うけど」
「えーと。そういえば、刀が……」
唐傘から貰った刀があったはずだ。刀身は折れてしまったが、使えないことはないと思い、白い布に包まっているはずのそれを探す。
「あった……!」
座卓の下。自分の足元にそれは放置されていた。
良かった、誰かが回収しておいてくれたみたいだ。
(あれ……そういえば、俺。どうやって此処に来たんだ?)
今更な疑問に首を傾げる桐人。自分をいたぶっていたあの鬼もどうなったのだろうかと気になったが、万葉に声をかけられて、すぐさま思考から追いやる。
「それが、刀?」
「あ、はい……その、ちょっと折れちゃったんですけど」
ぱさりと布を解いて、刀の状態を確かめる。
当たり前だが刀身はぽっきりと折れたままで、その長さは己の肘程にも無い。
「ちょっとどころか、見事に折れてるわね。ていうか、すごい錆。随分な安物ね」
「……すみません」
何故か申し訳なくなって、謝る桐人。
しゅんと項垂れる奴を横目に見ながら、万葉は目の前の刀に触れた。
柄を握って、その折れた刀身を撫でてみる。刃もボロボロだ。これでは斬れるものも斬れやしない。
(まあ、関係ないか……)
どれも憑いてしまえば『同じ』だ。
己が憑りつけばどんな物だって形状を変える。問題はないだろう。
軽く結論付けて、スッと立ちあがる。それに見習って桐人も追うように腰を上げた。ずきりと脇腹が少し痛んだが、先程飲んだ痛み止めの薬が効いているのか、さほどの痛みではなかった。
「あの……」
「一体、何をするつもりなのだろうか」と桐人は不思議そうに目の前の女を見やった。
すると、にっこりと彼女は笑って刀を自分へと返す。
「はい、どうぞ」
「は、はあ……」
向けられた柄を握って、それを受け取る。
そして「一応、両手で持った方が良いかも」と指示され、黙って言う通りに両手で柄を掴んだ。
次いで、何故か刀身の切っ先を自分に向けるように握る彼女を見て、困惑する。
一体、彼女は何がしたいのだろうか。
目を白黒させる桐人。
だが、そんな奴の様子など何処吹く風。万葉はただ悠然とその刀身の刃を撫でていた。
(すごい久しぶりだし……上手く、やれるか)
『これ』を最後にやったのは百年以上も前。自分がまだ弱かった頃、敵から逃げ隠れするために使っていた手段だ。
(まあ、なんとかなるか……)
感覚はなんとなくだが覚えている。集中すればなんとかなるだろう。
そう開き直って、万葉は掌に収まる刀身を握りしめ、己の額へと当てる。
「あ、あの。何を……」
「何って、決まってるでしょう」
奇怪な行動に出た彼女に、桐人が戸惑ったように口を開く。それに万葉は優美に笑いながら答えてやった。
「力だけは、貸してあげる。けど後は、自分でやりなさい」
そう言って目を閉じる。イメージするのは流体。
自分は『不可叉』――他者の『時』を喰らうことでしか生きられない者。
『時』が底を尽きれば、存在さえも保てなくなる不安定な身体。形はあっても、実態は無い。何故なら自分たちにはソレを定めるための『核』が無いのだから。
だから、私たちは何にでも『同化できる』。
(あ、いけそう……)
そう思った瞬間。万葉の身体の構築が崩れた。
「え……!?」
それを目にすると同時に、空気、いや大気中に存在する霊気が揺れた。
閉じられた空間に、突如突風が起きる。
桐人にも認識できるほどの霊気が迸り、奴の身体を取り囲む。
それに色はない。だが、確かに透明な粒子が何百何億と見えた。それらが一つとなり、風になり、手に握る刀を包み込む。
それは、桐人が初めて肉眼で『霊子』を認識した瞬間だった。
平均にも満たない霊力を持つ桐人が視覚できるほどの濃い霊気。それが起こす強風の所為で目さえ開けておられず、瞼を固く閉じた。
風の音に紛れてガタガタと襖が壊れそうな音が耳元まで微かに届き、顔面に当たる風圧が呼吸を奪う。
――刹那。手にズシリとした重みが掛かった。
(え……?)
気のせいか手に握る柄が少し太くなった気がして、眉を顰める。
霊気が落ち着きを見せ始め、豪風が微風へと変わった。
風が、止んだ。
恐る恐る。桐人は瞼を上げる。部屋が僅かに乱れていた。だが、問題は其処では無い。
眼前には研ぎ澄まされた刃――天を貫く切っ先に、総毛立つような白刃の光。
優に二メートルはある、大太刀が其処にあった。
その刀、後の名を『万葉の太刀』。
――一人の妖刀使いが、此処に誕生する。