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朝影のマッスル!

 僕の家の前には「かささぎ荘」って名前のへんてこなアパートがある。ボロボロでみすぼらしい、ちっちゃなアパート。

 そこにはいろんな人がいて、十年くらい部屋から出てないって噂の人がいたり、普通の家族が暮らしていたりする。

 でも、僕にとってそんな人たちはどうでもいいんだ。ちょっとぐらいおかしなところがあっても、それを帳消しにしちゃう人がそこにはいたんだから。


 ――これは僕と彼とのお話。


 


 一年前、僕の趣味は早起きだった。夜明け前だけにしか感じることのできない、特別な時間。

 本来忙しいはずの朝が、そのときだけゆっくりと流れて落ちる。僕はそれが好きだったんだ。

 毎日二階から外を見て、そんな世界を見ていたんだ。

 でもね、ある日見つけちゃったんだよ。

 家の前のへんてこなアパートから、ぐわっと出て来たんだ、その人は。




 うっすらとした日の光に照らされて、肌は黒くて光っている。その姿はまるで、彼の体から光の粒が出ているみたいだった。格好はタンクトップとジャージのズボン。そして……すごく体が盛り上がってるんだ。腕は学校の桜の木の幹みたいで、足はその根っこだと思ったね。それはとても綺麗だった。僕が今まで見てきた筋肉は偽物だった、これが本物だ。そう思わせるだけのものがそこにはあった。

 そして彼は笑ってるんだ、ものすごく良い笑顔で。多分、彼は燃えさかる炎の中でも笑顔のままでいるんだ、きっと。

 

 僕が自分の頭から戻ってくる間、時間は止まっているものだと思っていたけれど、そうでもなかったみたい。

色々考えている間に、その人はいつの間にか僕を見ていた。

 その黒い目は僕をしっかりと見つめて、そして笑ったんだ。声も上げずに、ただ口だけが笑ったんだ。

 僕はびっくりして、何も考えることなんかできなかったね。

「おはようございます」

 気づいたら、僕の口からは挨拶がこぼれていた。今思うとすごくかすれていたかもしれない。

 挨拶した僕は、すぐに下を見ることにしたんだ。だって突然のことだったから、その人の目を見るのが怖かったし、変に思われるのが嫌だった。だから落ち着いてから、ゆっくりと顔を上げたんだ。

 そしたらその人は笑っていた。口をつり上げて笑っていた。ただそれだけでしかなかった。

 その人はそのままの顔で走っていった。ぼくは不思議な気分のまま、朝食までそこにいた。

 夢をみていたのかもしれない。




 でもそれは紛れもない現実で、その日から毎日僕は彼と会っていたんだ。

 いつもの時間に、いつもの格好で、いつもの筋肉と、いつもの良い笑顔で、僕は彼と会っていた。

おきまりのパターンとしては、僕が挨拶して彼が笑う。百年経っても変わらない黄金律がまた一つ、この世界に増えたんだ。

 僕は彼の筋肉が好きだった。自然の動物には無駄なところが無くて好き、そんな人がいるように僕も彼の無駄がない筋肉が好きだった。

 筋肉に対しての深い造詣だとか、詳しい理論だとかを知ってる訳じゃなかったけれど、僕には分かった。いや、僕にでも分かったんだ。筋肉っていうのはきっと、彼のことを指す言葉なのだろうと。

 彼については何一つ知らなかったけれど、彼の名前さえ知らなかったけれど、それで良かった。たとえ名前が分からなくても、彼を眺めるのに問題は無かったし、そもそも知りたいとも思わなかった。

 それもまた、彼の特徴の一つだったのかもしれないね。

 とにかく、そんな風にして僕は彼と日々を送っていったんだ。僕にちょっとした事件が起こったのは、そんなある日のことだった




 その日は痺れるような匂いで目が覚めた。

 目を開けるのが億劫で、周りはどこか軋むように鳴っていた。

 目を開けたときは真っ赤だった。比喩とかじゃない。赤い蛇を連想させるそれは、僕の思い出を炭素に変えていった。

 まあ、格好をつけずに言うと火事が起こったという話なんだけどね。原因は父の寝タバコだそうな。

 でも原因がいかに下らなくても、火はいつでもやる気まんまんだった。おかげで部屋は直火のサウナ状態。僕は助かるという望みを捨てた。昔から諦めるのは早いほうだったしさ。

 ぼんやりと炎の中で考えるのは下らないことで、死にたくないとか、天国いけるかなとか、あとは――


「今日挨拶してないな……」


 吹き飛んでいく壁を見たのはつぶやいた瞬間だった。

 意味不明すぎて僕の頭はその役割を放棄することを選んでた。

 ただ黒い影が壁から飛び出してきたのは分かった。そんなのが来たら普通は怖くなりそうなものだよね。

でも僕はその陰が不思議と怖くはなかった。だってさ、そこにいるのが当然のようにいたんだよ、その陰は。それを見たら安心しちゃって、僕はゆっくりと目を閉じることにしたんだ。

 僕が最後に見たのは歪む景色と筋肉で、最後に聞いたのは


「おはようございます」


 意外と優しい声の挨拶だった。




 結論から言うと、僕が病院に運ばれたのは、僕の家の火事が通報される二分前だったらしい。意味が分からないかもしれない、けどこれが現実だ。僕を運んだ救急車は特別仕様だったに違いない。




 そして日常が戻ってきた。

彼は相変わらず笑顔を振りまいている。僕も相変わらず挨拶をし続けている。変わらない宇宙の法則だ。

 彼には色々言いたいことがあるけれど、僕は機会をみいだせないでいる。思春期って難しい。

 それから僕は趣味にジョギングを追加しようか検討中だ。

 なんせ一緒に走る予定の相手はレベルが違う。生半可な覚悟で挑めば死んでしまうに違いない。

 だからとりあえずは……今日も挨拶をしようと思う。いつも通りの挨拶を。



「おはようございます」


「おはようございます」



挨拶が返ってくるって素敵だね。


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