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風の通い路

作者: 三角

 月の綺麗な夜だった。

 夏に見る月というのは、冬とはまた違う趣があるように思う。じんわりと熱を含んだ空気が月光の白銀を淡く曇らせているかのように、どこか屈折しているように感じるのだ。

 しかも、今日は満月である。

こうして歩きなれた道をぶらつくだけでも心が躍るのは、空に開いた目の様な、丸々とした月の魔力なのかもしれない。

 この村は田舎と呼ばれる類ではあるが、それなりに発展している。車を数十分走らせれば映画などに出てくる山々に囲まれた集落のような場所にでるが、ほとんどの人間は山をおり、現代的な生活をしている。

 私はずっとこの村に暮らしており、山の集落についてはほとんど知らない。祖父が時々話をしてくれたが、そのどれもが現実味のない噂話のようなもので、実際どんな場所かということは分からなかった。

 立ち止まり、月を見上げてみる。

 本当に美しい月だ。

 私は何度か都会とよばれる場所に出向いたことがあるが、そこで見る月は味気なかった。生まれ育った場所という贔屓があるかもしれないが、この村で見る月が一番美しいと私は思う。

 再び歩き出そうとした、その時。どこからか歌が聞こえてきた。

 透明感のある声だった。美しく、どこか儚い。

 どこから聞こえてくるのだろう。私は周りを見渡してみる。

 私が歩いていたのは、長い一本道の車道であった。開けているので、人が隠れるようなスペースはない。

 と、すれば。

 私はバス停の方へ歩を向ける。

 照り付ける太陽を避けるため、バス停は小屋のようになっている。どうやら読みは当たったようで、バス停に近付くほど、歌声はより大きくなっていく。

 少しバス停から離れて、私は小屋の中を覗き込んだ。

 そこには、一人の女性がいた。

 肌は白いが、病的な白さというわけではなく、透き通るような、美しい白さだった。

 暗い田舎道の、小屋のようなバス停である。その中においても、女性の姿ははっきりと見える。

 まるで、その女性が光を放っているかのようにも思えた。

 だが、それ以上に私の心を射抜いたのは、その歌声の美しさである。

 近くで聞くと、その透明感や美しさはより際立ち、私は魅了された。

 女性の目は閉じられているようだ。私にはまだ気付いていない。

 少し、近付いてみた。女性の歌をもっと近くで聞きたいと思ったのだ。

 女性との距離が縮まるにつれ、歌声の美しさや、儚げな美貌に私の胸は高鳴った。村はそこまで大きくない。村民の知り合いも多いが、こんな女性は見たことがないし、知りもしなかった。この美しさならば、噂になってもおかしくはないはずなのに。

 女性の目がゆっくりと開いたのは私がバス停のすぐ手前まで来た時だった。女性はもう目の前だ。

「いや、その……」

 夜更けに見知らぬ男が目の前に立てば、誰だって怯えるであろう。なんとか悪気がなかったことを女性に伝えようとしたが、上手く言葉がでてこない。

「こちらへ」

 私が続く言葉を必死に考えていると、女性がそう言った。どこかたどたどしい感じで、言葉に感情がこもっていないように感じる。

「こちらへ」

 女性が続けて言う。口元に浮かぶわずかな微笑。夜の空気とその微笑はとても絵になった。この瞬間を一枚の絵や写真として残したいと思えるほどだ。

 私は女性に招かれるまま、その隣に腰掛けた。

 女性は、再び歌を歌い始める。

 間近で聞くその歌声の美しさをどう言葉にしたらよいものか。

 透明で儚いと感じた歌声だったが、すぐ隣で聞くと、その声は夏に吹く涼風のようであると思えた。耳心地がよく、聞いていると夏の暑さを忘れさせてくれる。

 不意に歌うことをやめ、女性が私に問うた。

「この村、好きですか?」

 やはり、たどたどしい。だが、その目は純粋そのもので、言葉から感情を読み取ることはできないが、目を見ればその問いに強い関心を抱いているのは間違いないと思えた。

「ええ、好きです」

 だからこそ、私は真面目に答えた。

「この村ほど月が美しいところはないと思ってます。贔屓かもしれませんが、私はそう確信しているのです」

 女性が笑みを浮かべる。今度は口元に浮かぶわずかな微笑ではなく、純粋な子供が見せるぱっと輝くような笑顔であった。

 風が吹いた。とても強い風だった。ごうっという音が聞こえてきそうな強い風。

 私はバス停の外を見る。風に巻き上げられた土ぼこりが月光を浴びて光っている。

「強い風でしたね」

 私は女性の方へ向き直り、言った。

 しかし、もう女性の姿はそこになかった。

 呆気にとられ、その次に恐怖を感じた。あの女性は、幽霊や妖かなにかだったのか。確かに、この世の者と思えぬ美しさであったし、透明に思えた肌の白さなども、人外の者であったというならばおかしな話ではない。

 私は慌ててバス停を出た。

 また、風が吹いた。夏の風。だが、頬を撫でるその風は涼しく、じんわりと浮いた汗も引いていくようだった。

 その時、私は祖父に聞いた噂話のひとつを思い出した。

 風神様。

 こう言うと、大きな袋を背負った姿を想像するだろうが、それは風神ふうじんのことであり、風神様のことを指すわけではない。集落では風神〈かざがみ〉と呼ばれる神を祀っており、その神は秋を運んでくる地主神であるという。

 集落にはその神を祀る祠もあり、毎年その祠の前で神楽を舞い、風神を呼ぶのだという。風神が土地に降りると、一陣の強い風が吹く。その風が秋を運んでくるというのだ。

 では、あの女性は風神様だったのか?

 わざわざ山から降りてきて、この村を見にきたのだろうか。

 考えてみても答えは出ない。いや、証明などできるわけがないのだ。答えを求めることは間違いだろう。

 確かなのは、風が変わったということだけだ。

 こうして噂というのは広まっていくのだろう。

 私は明日このことを友人に話すことに決め、凉風の中帰路についたのだった。

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