隔離構成層
朝霧は不意に自分が何者なのかを思い出した。
自身が殻土志願軍所属の軍人であると。
思い出した所で思考は止まる。
「意識を保つ人も珍しいが、意識を取り戻す人もまた凄く珍しい」
声が聞こえた、様に感じた。
デフォルメされていない熊が居た。
それがデフォルメされていない熊だと言う事が、朝霧には理解出来た。
デフォルメされていない熊だと言う事は理解出来た朝霧だったが、理解出来ない事が一つ残った。
「熊ってなんだ?」
ソレが熊であるのは自明の理であるが、熊と呼ばれる存在には心当たりが無い。
もどかしい疑問に苛まれる朝霧を嘲笑う様に熊が口の端を歪めて笑う。
「見出ししか読めないとは不十分だ」
その瞬間ソレの名前が脳裏に浮かぶ。ソレの名前はウシだと、理由も無く理解した。
「そう、ボクはグリスリーの外見をしたウシと言う名前の何かさ。この領域の支配階級と言う事も理解しておいてくれ」
ウシ尊大な口調でふんぞり返った。
「で、君の両隣にいるのがカチョウとニクカイだよ」
右側に要る十七本の手を持つカチョウと、左側に要る蠕動するニクカイの存在に、朝霧はウシに言及されるまで気付かなかった。
「初めまして、ニクカイです。カチョウは今寝ているので反応はありませんが、大目に見てやって下さい」
ニクカイが紳士的な口調でそう言った。カチョウはゆらゆらと揺れている。
朝霧は辺りを見回して、自分に目が無い事に気が付いた。
目どころか肉体が無い。
そう思った瞬間、自分の肉体が構成された。
全裸で。
次の瞬間、自分の肉体は鎧に包まれた。
「サービスカットですね」
ニクカイが心なしか嬉しそうにそう言った。
次に朝霧は、ここは自分の居た世界とは根本から異なる世界であると気付いた。
「分かり易く言うと、貴方は死にました」
ニクカイが朝霧にそう告げた。
朝霧はニクカイがどこから声を出しているのかが気になり、それが声でない事に気が付いた。
そして疑問に、疑問になっても回答を得られない疑問に気が付いた。
ここはどこだ?
「隔離構成層の中」「仮想領域です」
ウシとニクカイが同時に異なる答えを返す。だが朝霧にはどちらも理解出来ない。
「プロテクトかかってるかー」「制限付きみたいですね」
ウシとニクカイが残念そうに言った。
「まあともかく、死んだ人間が一度は訪れる場所です」
ニクカイがそう補足した。
「あー、要するに殉教徒の言う極楽浄土みたいな?」
朝霧の例えにウシとニクカイは顔を見合わせて、見合わせてと言ってもニクカイの顔がどこかは分からないのだが、ともかく見合わせて。
「遠いけど近い」「重要な所以外が正解」
結局良くわからない返事が返って来る。
「ともかくね、アンタが変なのね」
「お前に言われたくない」
ウシの言葉に朝霧は憮然とした呟きを被せた。
ぷるぷるとニクカイが震える。笑っているのだ。
「ともかく、消えてしまう筈だった貴方はここに存在する事が出来る様になった。それはとても喜ばしい事だと私は思うね」
ニクカイの言葉に、朝霧はそれもそうかと思う様にした。何でもいいから自分を肯定しておかないと、この不安定な場所では自分が自分でなくなってしまいそうで怖かったのだ。
「それはともかく、ちょいとこれを見て欲しいのだ」
気が付くと、ウシが黒っぽい箱を持っていた。
それがブラウン管テレビだと言う事は分かるが、ブラウン管テレビが何かは皆目見当もつかない。
ブラは重金属系種の胸部補強改造の事で、テレビは最近になって発掘された用途不明な喪失技巧であるが、それならばウン管とは何なのだろうか。
朝霧が考えていると、ブラウン管テレビに映像が映し出された。
地下へと続く階段を十層兵二人が降りて行く。
「これは…」
朝霧の中で、さっきまで思い出せなかった記憶が蘇り始める。
『最下部に生体反応。注意して下さい』
映像の中で、工兵が事務的な口調でそう言った。
「私はこの後を知っている?」
朝霧の呟きに、ウシもニクカイも何も言わない。
『抜刀』
階段の底から、小さな声が聞こえた。
直後に画像が乱れる。
底から駆け上がってきたのは圧倒的な熱だ。
十の層からなる十層歩兵の鎧は、亜金属で作られた板を十枚重ね、その隙間に五種類の緩衝材が任意の順番で挟まれて成り立っている。
面の圧に強い素材、温度変化に強い素材、点や線の圧に強い素材、反応性の低い素材、化学変化に強い素材。
これらの層は入れ替える事が可能で、ラスタ領侵入に際しては真っ先に脅威となる柱からの狙撃に対応するため、表面の三層は温度変化に強い素材を装填していた。
なので、先頭の十層兵はとても幸運だった。
先頭の十層兵は、一瞬にして第四層までが蒸発し、第七層までが融解し、中身は超高温に熱せられた。
中の人は苦しむ事無く一瞬で死ねた。
その後ろ、先頭の十層兵を盾にする形で抜刀を受けたもう一人は、地獄を味わっていた。
狂った様な悲鳴が階段に響く。実際に狂っているのかも知れない。
表層が蒸発し第四層まで融解した鎧の中心部は、九十℃程に熱せられた。
周囲が隔離構成層だったため、一瞬にして空気の温度は下がった事と、中身が一瞬だけ息を止めた事で呼吸系に重大な熱傷は負わなかった。
それが中の人の地獄を延命した。
その地獄も二度目の抜刀で終わる。
先頭の十層兵は跡形も無く蒸発し、後方の十層兵も第九層までが蒸発した。
因みに背後の工兵は最初の攻撃で完全に蒸発している。
その後ろに控えていた朝霧達は、熱波と恐怖から全身に汗をかいていた。
『…どうしろってんだ』
朝霧の斜め後ろで、軽鎧兵が自身に呟いた。
『はいはい、困った時の技術担当です』
壮絶な攻撃に言葉の出ない軍人を押しのけて、ひらひらした匠意が特徴的な労六繊維の制服を着た優男、うつつが何かを手に持って前に出る。
「男のメイド服…」「いいじゃないか。私は好きだ」
吐き捨てる様なウシの呟きに、肉塊が恍惚の呟きを返す。
例によってメイド服が何なのかは、朝霧には良く分からなかった。
朝霧には労六繊維の正社員に支給される男女共有の制服が、メイド服であると言う事が理解できただけだ。
『飛翔体射出装置、試作品二つ目です』
うつつの両手に握られているのは、くの字に折れ曲がった二本の棒。
『この二本の棒を両手で持って、ちょんと先端を合わせますと』
がちん。と。
穴の底から音が鳴る。
穴の底に居る剣士が、飛翔体を盾で受け止めた音だ。
間を置かずにもう一度がちん。さっきよりその音の間隔は短くがちん。『射程が短めなのが難点です』と言ううつつの言葉に被せる様にがちん。がちん。徐々にその音は重なりがちがちがちがち。と言った連続した音からがががががが。やがて音はggggggg。連続しない一つの音―――――――――。
最早文字では表現出来ない、高い不快音。
そして何の前触れも無くその音は止まる。
二つの棒は、接していた部分が溶け落ちていた。
『結局耐久度はこの程度と』
溶けた棒を捨てて、うつつは軽い足取りで階段を降りて行った。
『ば…と…』
苦しげな声と同時に階段の底から熱風が吹き上がる。
だがそれは先程より遥かに温度が低かった。
あの気に食わない会社員が功績を残すであろう事に、朝霧の苛立ちが募る。
『上でも思ったことですが、何ですかアレは』
朝霧の横に控えていた軽鎧兵の言葉に、朝霧は八つ当たりの裏拳で答える。
『ぶふへ』
亜金属製の面は大きく凹み、哀れな軽鎧兵は受け身も取れずに後ろ向きに倒れた。
その朝霧の視線の先で、うつつが労六繊維の制服を着た女を担いで駆け上がって来た。
無傷で服装の乱れすら無い。
『門番はこの通り無効化しましたよ。服は僕が着せ替えました。この制服、利用登録させずに着せると拘束具になるんです。便利ですよね』
何を言うべきか判断出来ずに無言でいる朝霧の横を、うつつはするりと通り抜けて行った。まるで目的は果たしたと言わんばかりに。
去って行くうつつと入れ違いに、工兵と十層兵が朝霧の元に駆けて来た。
工兵は朝霧の足元に倒れている軽鎧兵に視線を向け、見なかった事にした。
『柱の外部、殲滅完了しました』
朝霧の返事は無い。
工兵に追いついた十層兵が階段を見ると、その中腹に黒い塊があるだけで誰も居ない。
『他の者は下ですか?』
十層兵が空気を読まない発言をする。
『…侵攻を続ける』
憮然とした声で、朝霧は自らを先頭に階段を降りて行った。
工兵と十層兵が慌ててその後を追う。
それ程長くもない階段の底には扉があった。
『門番とはこの事か』
朝霧は躊躇する事無く、扉を開けた。
室内は映らない。
朝霧が部屋に入り、映像はそこで途切れる。