湯煙の向こうで
オレは最寄駅で列車から降りる。
オレと一緒に下りたのは数名だけだ。
オレは定期を自動改札にかざす。ピッという電子音。オレは改札を抜けると、駅前のコンビニに入った。
普段は自炊派なのだが、さすがに今日は自炊する元気は無い。
オレは弁当のコーナーに行く。から揚げ弁当が目に入る。
今はそういうがっつりしたものを食べる気分じゃないな。
サラダとゼリー、お茶を手にとってレジに向かう。
まるで本物の女性の様なチョイスだ。
「486円になります」
大学生くらいの年齢だろう、バイトであろうレジ係の男が言う。
オレは小銭を取り出すと、店員に渡す。
コンビニでは、決済として、年齢確認と性別のボタンを押す。
なんとなく、レジ係が決済のボタンを押すのが見えた。
十代、女性。
こういった、一つ一つの事実の積み重ねが、さっきまでの非現実が現実であったことをオレに再認識させる。
この店員にはオレは、間違いなく十代女性と映っているんだろうな。
心なしか、胸元に視線が注がれている気もする。
「ありあとやしたー!」
オレはコンビニを出た。
いつも通りの変わらない帰り道。
変わっているのはオレだけ。
オレは自宅マンションのエントランスにつくとロックを解除する。
管理人と目が合い、軽く会釈。特に何も言われなかった。
エレベーターで、三階に上がり、二部屋隣がオレの部屋だ。
オレはキーを回して部屋の中に入ると電灯をつけた。
もしかしたら、この部屋に帰れないかと思っていた。
キッチンと6畳のリビングダイニング兼寝室の一部屋。
部屋の中央にはガラステーブルとテレビ。机とベッド。作り付けのクローゼット。一人用のソファー。シンプルだが殺風景な部屋。
今はこの殺風景な部屋ですら、懐かしく感じる。
オレはさっき買ったペットボトルのお茶のふたを開けると、一気に半分ほど飲む。
「ふー、やっと落ち着いた……」
オレはソファーに身を沈めると、息をつく。安どの溜息。
しばらくボーっとしてしまうが、すぐに検証作業に入る。
時間は無い。
せっかくマコトが助けてくれた命だ。無駄には出来ない。
まずはなにより、お金の確認が必要だ。
この資本主義社会、先立つものが無ければ何もできない。別の言い方をしたら、お金があれば、大抵の事はなんとかなる。
オレは財布の中身を洗いざらい出す。
一万円札が二十枚、千円札が三枚。月末で生活費を下したのが良かった。もしオレが今の姿で預金を下ろしたら、不審に思われる可能性がある。
……ん?
なにか引っかかる。
オレは財布からあるカードを探す。
「やっぱりか……」
オレは定期を見てつぶやいた。
そう、さっきコンビニでオレは、十代女性のボタンを押された。
オレの外見は間違いなく十代女性になっているはずだ。
だが、駅の改札は何事も無く抜けることが出来た。
定期は普通、不正防止に名前と性別、年齢が記載されている。
それは、係員が確認できるようになっている。
もし、定期に書かれた性別が同じで、年恰好が近い人間が通ろうとしたら確認のやりようは無いが、明らかに性別も年齢も違う人間が通ったら止められる。
だが止められなかった。
なぜならば定期には「サエキ マコト 15サイ ジョセイ」と書かれていたからだ。
オレはマコトとなった事で、体だけが変わったと思っていた。
しかし、その存在の有り様自体まで変えられてしまったのか。
結論付けるのはまだ早い。
オレは免許証を探す。十五歳の女性なら、免許を持っていない。この日本で、もっとも若い年齢で取得可能な原付免許は十六歳からだからだ。
やはり無い。
オレは免許は常に財布に入れて携帯している。何処かに落としてしまったとも考えにくい。予想はしていたことだ。オレはこの現実を受け止めなければならない。
最後、これが最後の確認になる。
オレは携帯電話に手を伸ばすと、ある番号を呼び出す。
オレの実家の番号。
オレは単に、オレの体がマコトと入れ替わったのだと考えていた。しかし、ここまでの様子を見て、オレの存在自体が変化していた。この電話で、それが確認できるはずだ。
呼び出し音が鳴る。
実家に電話を掛けるのに、これほど緊張したことは無い。
「もしもし、佐伯です」
しばらくして聞きなれた声が携帯から聞こえる。お袋の声。
オレは声を出そうとする。が、声が出ない。
オレは何と言ったらいい?
いつも通り、真だけど、って言えばいいのか。
ここまで確認したことが事実なら、オレは真では無く真琴として人生を送ってきたことになる。
性別も年齢もかなり違うが、ここで普通にお袋に呼びかけても問題無いはずだ。
だが、声が出てこない。
「もしもし?」
電話の向こうのお袋の声に、苛立ちが混じる。
オレは、なんとか声を絞り出す。絞り出さなければならない。
「あ、あの、マコトだけど」
やっとこれだけ言えた。これ以上は無理だ。
たったこれだけを言うのに、早春の冷たい部屋の中で、明らかに汗をかいている。
「ああ、アンタだったの。何の用?忘れ物でもしたの?」
拍子抜けするような、お袋の声。ごく自然に、受け入れられたらしい。
「あ、いや。何でもないよ。ただちょっと、声が聞きたくなっただけ」
「なに?早速ホームシック?アンタもああ見えて可愛い所あるのねぇ」
電話口の向こうから笑い声。
「ま、まあそんなところかな」
オレは話をつなぐ。
「でもしっかりしなさいよ。アナタが冷泉に行きたいって言いだしたんだから。アタシもあんないいところに合格できるとは思ってなかったけど、でもせっかく合格したんだから……」
お袋の話はしばらく、マシンガンのように続いた。
オレはその話の合間に適当に相槌を打つ。
「じゃあ明後日の日曜にはお母さんとお父さんはそっちに行くから。じゃあね」
一方的に喋って、一方的に話を進められて、一方的に電話を切られた。
間違いなく、お袋だ。
やはりオレは、佐伯真ではなく、佐伯マコトとして生きてきたことになっているようだ。
お袋の電話から、オレの現在の状況がかなり明らかになった。
まず、オレの年齢は十五歳。ここまでは定期から明らかになった事の確認。
オレは田舎から、冷泉学園の高等部に入学するために、このアパートに引っ越してきた。
冷泉学園。
元々は歴史ある女子高で、5年ほど前から共学になった、かなりの進学校だ。
どうやらこの世界のオレはかなり勉強を頑張ったらしい。
オレの両親も、この学校ならと、わずか十五歳の娘を、都会で一人暮らしさせる事にしたようだ。
正直、かなり思い切った決断だと思う。この決断に存在の改変による強制力が働いた結果なのかは、分からない。
だが元々は女子高であるというのもプラスなのだろう。今でも男子生徒は全体の四分の一しかいない。
そして次の月曜日は入学式。日曜日に親父とお袋が来て、一緒に食事。
父親は仕事の都合そのまま実家にとんぼ返りするそうだ。
車で二時間ほどの距離だから十分可能だろう。
入学式は母親だけが出席する。
オレの親父はもう、何年も前に定年退職したはずだ。
それがまだ仕事をしている。
オレの年齢が若返った分、オレの両親も若くなったのか。なら親戚連中との関係はどうなっているのか気になる。
改変は思ったより広範囲に行われたようだ。
「さて、いよいよ行きますか」
オレは頬を軽く両手で叩くとソファーから立ち上がる。
決して避けては通れないもの。
うれしはずかし、お・ふ・ろ。
そもそも、汗と埃まみれなのだ。
そりゃそうだろう。
区画が一つ、吹っ飛ぶような死闘をしてきたのだ。
それにいつまでも、風呂に入らないわけにはいかない。なんてったって、女の子だもん。
頬に指を当ててポーズをとってみる。
電源の入っていないテレビに映るオレの姿。
……オレの見た目は、仮想空間から出てきただけあって、確かにかわいい。
かわいいが、何か精神にダメージが来るな。やめておこう。
オレもまだまだ吹っ切れていない。
さて着替えだ。オレはクローゼットを開ける。
おお!?
服が変わっている!?
基本的に替えのスーツとYシャツ。普段着用の上下を選択のローテーションが回る程度にしか持っていない、着た切り雀の生活。
そんなクローゼットにはしかし、女物の服が吊るされてあった。
しかしながら、元々はオレの服。ジーンズが男物から女物に変わっているだけ、シャツのサイズが変わっているだけなど、女のクローゼットとしては正直寂しい。
それにオレは女物の服の知識など無い。
明日ショーコと買い物に行って、少しづつその辺を教えてもらおう。
そしてスーツの代わりに吊るされているのは、見慣れない制服。
これが冷泉学園の制服か。赤がベースのチェック柄に大きなリボン。
……なんかエロゲーの制服みたいだな。
こんなので電車通学なんてしたら、痴漢に遭遇したりしないだろうか。
どうでもいいような、重要な疑問が頭をかすめたが、もっと大事な問題がある。
下着だ。
なぜか、オレはごくりと生唾を呑み込む。
オレはHENTAIじゃない。
ここにある下着はみんなオレの物だ!
この発言も変態っぽいが、一切他意は無い。文字通り、オレの物なのだ。
オレは、恐る恐るたんすの引き出しを開ける。
おお!たんすの中から後光が!後光がさしておられる!
間違いなく女物の下着がそこにはあった。
オレは恐る恐る、下着の一つを取り出す。
何故オレは、自分の下着を取るのにそこまで躊躇しているのか。
やはりこんな体になっても紳士の心を忘れたわけではなさそうだ。
……
……
どれもこれもまあ、良い言い方をしたらシンプルなものばかりだ。
飾りも無ければ何もない。
パンツなんてボクサーパンツの変形みたいなヤツしか無い。
まちがってもパンティーなんて言えない。パンツだ。
まあ、オレなんて、男だろうが女だろうがそんなもんだろ。
中身が良ければそれでいいんだ。
中身は最高だからな!オレ的に!
着替えを取ってくるだけで俺の心理に、いくらかのアップダウンがあったがそれはもう忘れる。風呂場に行こう。
オレはセーターとシャツを脱ぐ。ショーコに勝ってきてもらったヤツだ。
あとは、このブラとやらを外さなければならない。
背中に手を回す。
外れない。
世の女性は皆、このような苦労をしているというのか。
大変だな。なんとか鏡に背中を映して、確認しながらブラを外す。
下を見る。
足が肌色に隠されて見えない。
不詳この私め、些少ながら女性とお付き合いをさせていただいたことがありますが、このような巨大なふくらみを、間近で見たことはございませぬ。
ありがたや、ありがたや。
神へ感謝の祈りを捧げつつ、オレは生まれたままの姿になると風呂場に入った。
オレは湯船につかる。
何か所かしみる場所がある。
まだダメージが抜けきっていないのだろうが、特に痣も見当たらないのは凄い。
地面を転げまわりながら吹き飛ばされて、壁に激突したり、瓦礫の山に埋もれたりしたのに。顔面も、鼻血が噴き出る程に殴られたにもかかわらず、綺麗なままだ。
耐久力もそうだが、回復力も凄いのだろう。
風呂の鏡に自分の姿が映る。。
ここに帰る間に、幾度となくオレが変わったのだと思い知らされたが、ここにきてそれは決定的になった。
これはトドメだなぁ。
オレは、しばらく湯船の中に浸かっていた。