仮想浸食その1
夜の路地裏。ひびの入った整備されていないアスファルト。建物には電気が灯っておらず、あるいはガラスは割られている。いくつかの電灯が薄明りを灯しているが、それも明滅していた。
人影が二つ。
「覚悟はいいか」
男が目前の女に言う。シャツから覗く腕には炎の抽象画のようなタトゥー。問われた女は、この路地裏の雰囲気には似つかわしくない、ドレスのような服装。腰まで届く黒髪に白い肌。間違いなく美女ではあるが、どこか無機質で硬質ガラスを思わせた。
男は右手で拳を作り、左手に打ち付ける。女の足よりも太い腕を撃ちつけて放たれた音は、重い。路地に他に人の気配は無い。このまま女は男に凌辱されるように見えた。
だが女は恐れる風も媚びる風も無く、外見に相応しい硬質ガラスの様な声で応える。
「貴方に私が倒せるかしら?」
男は両腕を顔の前で構える。その表情に下卑た色は無い。女もまた、体を半身に構えた。
「うおらぁッ!」
男は吠え越えと共に踏み込む。お互いの間合いを一瞬でゼロにする、凄まじい速度。その速度を殺さぬまま、男は女に、岩を思わせる拳を打ち付ける。
女は両腕を十字に構え、男の拳を真正面から受け止める。その細腕ごと折りそうな一撃をたやすく受け止めると、女は素早く屈みこみ、男の軸足を狙い蹴りを放つ。
路地に響く、肉が肉を打つ音。軸足を払われた男はもんどりうって転倒する。女はそのまま男の足を取ろうと手を伸ばすが、男は後転して回避すると素早く立ち上がり構える。
「貴方の力はこんなもの?」
女は男を見下したような視線で見ながら『挑発』する。その『挑発』に男は反応する。
「だらぁッ!」
またも凄まじい踏み込み。女はまた両腕を十字に構えガードしようとするが、男はパンチの軌道を代える。ボディー。ガードを上げた女の細い腰に、男のパンチがめり込む。
「くぅっ!?」
女の体がくの字に折れガードが下がる。
「シィッ!」
その隙を見逃さず左右のコンビネーション。左と右が同時に放たれたような、速度と重さを伴った一撃に、女の顔が凄まじい速度でぶれる。
「アッパーカッ!」
男は女のアゴを目がけて、飛び上がるようなアッパーカットを放つ。
女は大きく吹き飛び、建物の壁に凄まじい勢いでぶつかった。
だが女は、ダメージを感じさせない動きでヘッドスプリングをすると、素早く起き上がる。
鉄槌の様な連撃を受けた顔はしかし、無表情を崩しておらず、半身に構えるその立ち姿にも特にダメージを負った様子は窺えない。
男もまた構えを崩さず、今度は摺り足で間合いを詰める。女の背後は壁。もう逃げ場は無い。
男はジリジリと間合いを詰める。女は構えを取ったまま動かない。
距離は次第に近づいていく、と男の左腕が消えたように見えた。ジャブ。凄まじい速度で放たれた完璧な牽制。しかし女はその一撃が届く前に、男の首に腕を巻きつけると足を絡め、体を入れ替えて投げ飛ばす。今度は男が壁に叩きつけられる。
「いくわよ」
転倒した男に女が手を伸ばす。今度は後転して避けられない。
女は男の足を掴むと振り回す。ジャイアントスイング。体格差から決してありえない技を、しかし女は繰り出す。
女は、しばらく振り回すと放り投げる。加速した男は遠心力で数メートルも飛ばされ、受身も取れず地面に激突した。
女は若干アゴを上げたポーズをとる。
「貴方の力はこんなもの?」
再度の『挑発』
男は起き上がり、女と暫しにらみ合う。
数瞬の静寂。
破ったのは男の吠え越えだった。
「おらぁッ!」
凄まじい速度の突進から放たれる体重の乗った一撃。その鉄槌のような一撃に対し、女もまた、拳を交差させた。
『KO!』
画面の中で女が吹き飛び、男が腕を回して勝者であることを誇示する。
男――格闘ゲームのキャラ――の突進攻撃を迎撃しようとして失敗、直撃を受けてしまったのだ。
佐伯真は筐体から排出されたカードを受け取ると、自動販売機に向かう。財布から小銭を取り出し、カロリーオフのコーラを買う。それほど目立たないが、最近は腹も出てきた。
炭酸好きの佐伯としては、カロリーオフのコーラは素晴らしい発明だと思ってしまう。
自販機の取り出し口からコーラを取ると、財布にカードを入れる。カードには稲妻を模した形の「ファイターズレジェンド」のロゴが入っており、キャラクターのヴィジュアルが描かれ、PL名「マコト」ランク「A-」と書いてあった。
筐体の方を見ると、画面の中では先ほどの男が、再度勝ち名乗りを受けていた。画面上部のキャラ名の隣には「葛飾ジェイク」、下にはランク「A」とある。
「別のゲームでもするか」
しばらく負けそうもない相手を見て、佐伯は両替機で両替すると、他のゲームを物色し出した。
飛行している人間が画面中を埋め尽くさんばかりの敵弾を回避しつつ攻撃している。いわゆる、弾幕シューティングというジャンルだ。佐伯は筐体にコインを入れる。キャラクターの選択、違いがよく分からないので、最初にカーソルがあっていたキャラをそのまま選ぶ。多分おすすめなんだろう。
少年が飛び立つ。超能力者たちのバトルがストーリーになっているシューティングだが、ゲーム中ではその内容が語られることは無い。ステージ1とは思えない凄まじい弾幕を、佐伯はなんとか回避しつつ進んでいくが、ステージ2のボスでゲームオーバーとなってしまった。弾幕にもう、目が着いて行かない。
「まあ、こんなもんだろうな」
佐伯は飲みかけのコーラを持つと、筐体を離れた。
佐伯真はそろそろ腹が気になる年齢の公務員だ。
独身。同級生はほとんど結婚しており、早いと小学生の子供がいるヤツもいる。
佐伯は一流半くらいの大学を卒業して市役所勤め。
酒もたばこもやらない。唯一の趣味はゲームだった。
小学生の時に祖父に誕生日プレゼントで買ってもらったゲームが、佐伯の人生を決定づけたと言ってもいい。
ゲームに熱中した子供時代を過ごし、両親には怒られながらも、勉強を頑張って許してもらった。ゲーム会社に就職したいと思ったこともあったが、安定志向の佐伯は公務員になった。
それなりの年になれば、家族をもってそれなりの生活をするようになるだろう。佐伯はそう思っていた。しかしそれなりの年になっても、佐伯はゲームから離れられなかった。
「文句を言われる筋合いはない」
しっかり仕事をして給料を稼ぎ、自立した生活を送っている佐伯の正直な想いだ。
その一方で結婚して子供を作って、年老いた両親に孫を見せて安心させてやりたいとも思っている。
「きちんと生きる」
これをモットーとしている佐伯は今の生活が、正しいとも思っていなかった。
レトロゲームのコーナーに佐伯は入っていった。シューティングゲームのボタンに「連打」の文字が張られている。
そういえば、昔のシューティングは手動で連打しないといけなかったな。その隣では、青年が無数に襲いかかるモヒカンを叩きのめしている。
ベルトスクロールアクションの名作。この、ファイターズレジェンドと同じ世界観を持つ、20年以上前に発売されたゲームに佐伯はコインを投入した。
ファイターズレジェンドは格闘ゲームだ。幾度もバージョンアップを繰り返しながら、かなり長い間、格闘ゲームの名作として多くのゲーマーを楽しませてきた。特徴はそのバランスの良さとキャラのカスタマイズ性の高さ。格闘ゲームである以上、極端なキャラ能力の変更は出来ないが、外見の自由度は高く、キャラクターの性別を変える事すらできた。
佐伯のキャラ『マコト』も、元々はファイターズレジェンドのキャラの一人『デルガド』を改変している。『デルガド』は屈強なプロレスラーで、パワータイプの投げキャラだ。作品中屈指の耐久力と攻撃力を持つが移動は遅い。佐伯はそのキャラをカスタマイズして女性キャラにして使っていた。技も一部入れ替えることが可能で、通常の技スロットを犠牲にしてまで『挑発』を入れたりするなど、最初はただのギャップ狙いだったのだが、使っていくうちに愛着がわき、今では『マコト』以外のキャラは使っていなかった。もっとも挑発もキャラ性能がUPしたり、CPU戦のパターン構築に役立ったりするので、完全な捨て技という訳でもない。
アクションゲームの筐体の中では、佐伯の扱うキャラが敵を一方的に殴り続けていた。
パンチハメ。タイミングを調節しながら攻撃する事で、相手の反撃を許さず一方的に殴り続けることが出来る。昔のゲームではよくある裏ワザだ。
もっともこの技もネタとして、ファイターズレジェンドの必殺技に取り入れられたりしている。
まだパンチハメのタイミングを体が覚えていたことに、佐伯は気を良くした。
「結構やれるもんだな」
ファイターズレジェンドと比べるとチープだが、昔のゲームらしい、重厚な描きこみのこのグラフィックは佐伯の好みだ。始めて見たときは感動したものだ。
佐伯のキャラは、路地裏のステージを進んでいく。ついさっき、ファイターズレジェンドで、『葛飾ジェイク』と『マコト』が闘っていたステージの初出がここだ。長い間ゲームをしているとこういった演出にも、嬉しくなってくるものだ。
ガシャン!
ガラスの割れる音。店の入口の方だろうか。最近のゲームセンターは、家族連れさえ訪れる娯楽施設に様変わりしているが、昔は不良のたまり場と呼ばれていた。
佐伯は、昔のゲームセンターを思い出す。今でもそういったゲームセンターはあるのだろうが、今佐伯がいるゲームセンターは、そういったゲームセンターではない。
「人が折角楽しんでいるのに……」
佐伯は不快な気分で視線を入口の方に向ける。割れたガラス製の入口。明滅する筐体の光。だがどこかおかしい。あれだけ客がいたのに今は誰もいない。
そのかわりにいるのは、バットとナイフを持ったモヒカンの男が数名。
バットを持ったモヒカンが、近くの筐体を叩き壊している。その隣をナイフを舐めながら別のモヒカンが通る。
佐伯は筐体の陰に隠れた。
いったいどういう事だ?あいつらは何者だ?ほかの客は何処へ行った?いつ避難したんだ?
佐伯の頭に疑問が駆け巡る。
だがあいつらは危険だ。目が常人のそれじゃない。とにかくこの場を離れなければならない。幸いにも、筐体からの音声で、物音はかなり消されているようだ。
筐体から顔をのぞかせて、佐伯は周囲を確認する。ゲームセンターの中に居るモヒカンは3人。そのうち2名はバットを持ち、もう1名はナイフ。身長は俺よりずっと高いし筋肉もついている。捕まったらひとたまりもない。
悪い事にレトロゲームコーナーはゲームセンターの一番奥にある。そこから先はトイレで、行き止まりだ。トイレに隠れてやり過ごすか?いやダメだ。あそこで気付かれたら逃げ場所が無い。人数は3人だし、頭も良くはなさそうだ。佐伯は脱出を決意する。
バットのモヒカンが筐体を破壊しながら進んでくる。もう二人も、適当に店の中を徘徊しているだけで、特に探索をしているようには見えない。
佐伯はモヒカンたちから離れる通路を選びながら進む。
ガタン!
佐伯の足が椅子を引っかけ、倒してしまった。電子音の中で、思いのほか目立つ音。佐伯は気連れ無い事を祈るが、一人のモヒカンが声を上げた。
「ひゃっはー!」
「ちっくしょう!」
佐伯は入口に向かって駆け出す。三人とも、佐伯よりも出口から遠い。なんとか逃げ出せるはず。
後ろの方からモヒカン達が走ってくる。筐体と椅子がぶつかる音。ディスプレーの破砕音。次第に血被いてくるその音に、佐伯は恐怖で振り返ることも出来ずに、全力で走る。もう少しで出口だ。
「うがっ!」
足に熱湯をかぶったかのような熱さ。耐えきれず佐伯は転倒してしまう。そのまま転がるようにして外に出た。
佐伯は、熱のもとを見る。足に刺さった銀色の金属。モヒカンの一人がナイフを投げたのだ。それが佐伯の足に刺さっている。
モヒカン達は、顔面に笑みを張り付けながら、獲物である佐伯に近づいてくる。
立つだけでも足に激痛が走る。歩くこともままならない。
だがこのままではあいつらに殺される。
佐伯は、足を引きずりながら逃亡を再開した。