儚いおはなし
ここは町外れ。
小さく古びた屋根、ぼんやり煤けた窓、雨の足跡が残る壁。
人気のない、野良犬すらも通らないその廃屋で、ある日何かが生まれました。
それはかさこそと音をたて、空気のふるえにふわりと飛ばされていました。
けれどもそれは生きていました。
神様の悪戯か、部屋の隅に集まった埃と蜘蛛の巣に命が宿り、鼠の形になって動き始めたのです。
それはたった一匹でひっそりといました。
埃鼠は、隙間だらけの壁のその外には出ることができませんでした。
小さな鼠はその姿こそ路地に棲む鼠たちと同じでしたが、その身体は――塵でできた四肢は、硝子よりも脆く砂粒よりも軽かったのです。
木枯らしの吹き荒ぶ外に出れば、たちまち崩れて吹き散らされてしまうでしょう。
ですから一匹で廃屋の中をかさこそと生きていました。
ある日鼠は、秘密の部屋を見つけました。
大きなチェストは埃の毛布を被り、机の上の窓には蜘蛛の巣のレースがかかっていました。
一冊の絵本が開いたまま床に鎮座していました。
そしてなにより、そこには亡霊がいたのです。
話し相手がいなくて寂しいと思っていた鼠は、喜び勇んで亡霊に話しかけました。
亡霊は突然のことに少し驚いたあと、初めての会話に恐る恐る応じました。
その廃屋には鼠と亡霊だけでした。
全てが朧な亡霊は、決していい話し相手とは言えませんでしたが、おしゃべりな鼠にとってはこれ以上ない相手でした。
そして沈黙しがちな亡霊も、次第に鼠との会話を楽しむようになりました。
亡霊はいつもぼんやりとしていましたが、せわしく楽し気に話しかけてくる鼠に、自分の方が長くここに住んでいると自慢したり、窓から見える景色を乞われるままに教えてあげたりしました。
話しかけられる度にほんのり驚くのは相変わらずでしたが。
そこにいるのはいつも一匹と一人だけでした。
今日も今日とて相も変わらず。
古びたおうちの秘密の部屋で、埃鼠と亡霊はお話します。
片や小さくせかせかと、片や幽かにゆらゆらと。
他愛もないようなことについて細々と、空気を震わす会話は続きます。
波のように弾むそれがふいと途切れても、お互い何も言いません。
ただ同じ空間にいて、移り行く空を一緒に眺めるのでした。
そんな日々は小さな世界のまま、優しく過ぎていきました。
いつもと変わらないある日、やわらかな日差しのなかを通ってやってきた馬車が廃屋の前に停まりました。
御者台に座る壮年の男性が馬を落ち着かせている間に、シフォンのドレスの少女がきゃらきゃらと楽しげに飛び降りて甲高い声でおしゃべりします。
そんな子供らしい姿を微笑ましそうに眺めながらも穏やかな声で窘める女性。
いつの間にか馬車をつなぎ終えていた男性の手を借りて降り立つ彼女の腕の中では、男の子らしき赤子が寝息をたてています。
幸せな一家が、廃屋に引っ越してきたのです。
斜陽に塵がきらめくようなやわらかな日々は一変してしまいました。
亡霊は久しい喧騒にゆっくりとぼやけ、埃鼠はこの秘密の部屋がみつかってしまうのではないかと怯えていました。
絵に描いたような家族の暮らしは、彼らにとっては薄壁の向こうの嵐のようなものでした。
とたとたとかわいらしい布靴で駆けまわる少女、揺り椅子の上で繕い物をするその母親。
ベンチチェストの中で埋もれるように毛布とリネンに包まって眠る赤子。
秘密の部屋はひっそりと沈んだままでした。
まだ。
「初夏の嵐に家が耐えられないかもしれない」
それは、廃屋だった家を買った男性――幸せな一家の父親が、ふとこぼしたものでした。
彼は、家族の前では心配ないという顔をしていましたが、その心は不安でいっぱいでした。
そして、野花が咲き乱れるある日、数人の男性といくつかの大工道具を馬車に乗せて帰ってきました。
家の点検と補修をしようと、父親が町から友人たちを呼んだのです。
運命のその時はもう、間近に迫っていました。
ついに秘密は暴かれてしまいました。亡霊のいる部屋の扉が、開かれてしまったのです。
久しく淀んでいた空気はかき乱され、重い足音に埃が舞い飛びました。
彼らは見つけた部屋を見取り図に描きこむことや床と壁の具合を見ることに忙しくて、全く気づきませんでした。
激しく揺れ動いた空気は弱々しいつむじ風になり、埃と蜘蛛の巣でできた鼠をはらはらと壊していきます。
埃鼠は、泣きたくなりました。涙なんて出ませんけれども、泣きたくなりました。
亡霊はただゆらめいていました。
鼠はただ、孤独を惜寂を残して逝くことを、いずれ忘れられてしまうことを、甘く苦しく思いました。
亡霊は、その最期の言葉にただ煤けていました。
埃の吹き溜まりは淡い想いを抱いていましたが、それも、くすんだ窓が開かれると同時に吹き込んだ甘い香りに消えてしまいました。
作業にいそしむ男性も、その友人たちも、扉の陰からこっそり部屋を覗いていた少女も、ただの埃にまぎれた亡霊自身も、悲しんでいることに気づきませんでした。
日が沈み、再び静かになったもはや秘密ではなくなったその部屋で、亡霊は何かを待っていました。
誰を待っているのかを忘れたまま、月が去って空が白むのを見ていました。
亡霊は、復讐も哀悼も思いませんでした。
頑丈に、したたかになった家では、相変わらず幸せな一家が暮らしていました。
ぺたぺたと床板の上を進んではころんと転げる幼子と、それをあたたかな目でしっかりと見ながら洗濯物をたたむその母親。
きらびやかな絵本に夢中になっている、足をぶらつかせる少女。
優しい午後の陽射しは、町で働く家庭を思う男性にも、楽しげなその家族たちにも、そよ風にさざめく屋根裏の亡霊にも、平等にその温もりを注いでいました。
ほろほろと崩れていくのは、その記憶だけでした。
冬を迎え、厳しい冷気から隔絶されたその家の中。
黒板と白墨で文字の練習をする娘のかたわらで、手のひらくらいの木切れに小刀で細工を施す男性。
よちよちと歩く息子の手をとって支えているエプロン姿の女性。
灰色の空を眺める亡霊は虚しさを忘れてしまったようでした。
いつか来るその時を、ひっそりと待っていました。
めぐりめぐった幾度目かの華やかな日、小奇麗な家の前には馬車が停まっていました。
一人の女性になった娘を、悲しみを微塵も見せないまま眩しげに見送るその母親と、くりくりとした瞳に溢れんばかりの寂しさを湛えた少年。
手綱をとる男性は複雑な思いを抱いて微笑みながら馬を走らせ始めました。
不規則に揺れる馬車の中でそれまでの思い出を振り返りながら胸を押さえる、少女だった女性。これからの日々に心躍らせながら別れを惜しんで、振り向きませんでした。
亡霊は、ほんのりと薄れていました。
家は知っています。
一家の中心だった少女がいなくなり、少年は姉の行動をなぞるようにすりきれた絵本を読んでいます。
しわの増えた女性は、日を追うごとに成長していく息子のために小さなサマーセーターを編んでいます。
亡霊は、透き通って溶けていきます。
部屋にあるチェストも、軋む床板も、磨き上げられた窓も、覚えています。
亡霊は、なぜ体のないその身が痛むのかをわからずにいました。
苦い想いがどこからくるのかも知ることはないまま、それらを抱え続けたまま、暖かな空気の中で曖昧になっていきました。
少年の、自らの旅立ちを宣言する声が、虚ろな部屋にまで響きました。
当人たちは知らないまま、次の物語が去ってまた訪れるのを、家はただ見ていました。
恋とも呼べない淡い想いを互いに抱いて、その関係を友と呼べるほど他に話し相手もいなくて。