04
母が昔、何と言ったかはっきりと思いだしていた。そして、二人でやったことも。
「タカオ、そうそう」
母と額をくっつけ合い、ふたりは目をつぶっていた。
「今みえてきた? 母さんの心が、おでこからそっちに入っていったでしょう?」
「うん」5歳の彼は、真剣にかたく目をつぶっている。
「何がみえた?」
「赤いお花」大きな花、ハイビスカスだろうか? 目の前いっぱいに広がっている。
「それを、ぎゅっと引っ張ってみるの」母が、囁くように言った。息がふわっと当たる。
甘い、なつかしい香り。
「ひっぱる?」
「そう、そのお花をね、ぎゅうっと」
彼は心の中で手を精一杯伸ばす。
花がさらに、近づいてきた気がした。甘い香りのように、ふわりと彼の視界一杯に広がる赤い空。
歌が聴こえてきた。何かがぐるぐる回っている。
「母さんにもね、みえるよ。タカオが思ってること」
「ほんとに?」
何だか目がまわる。でも、不快な感じはなかった。むしろずっとこのまま、こうしていたかった。
「ヒロコ」どこか遠くで耳障りな声が、母を呼んでいた。
「ヒロコ」父の声だ。「ネクタイどこだ、白いヤツ」
「はあい」母が急にぱっと離れ、タカオは支えを失って前に倒れた。
「あら、ごめんだいじょうぶだった?」母があわてて起こしてくれる。
「今のなに?」
階段から降りて行く彼女に、タカオは追いすがった。
「ねえ、今のなんなの?」
母は、優しくにっこり笑うと、「あとでね」と口に人さし指をあてた。
父さんにはナイショ、ってことなんだな。5歳にでもすぐ分かった。
「ちょっと待ってね、今行きます」
それから何度か、母はこんな『実験』をしてくれた。
少し大きくなってきてからは、母ではなく、全然別の人の考えていることを『ひっぱる』こともできるのだと教えてくれた。
「でもね」母の表情が少しくもる。
「タカオ、『ひっぱる』ことができたら、それを上手に離すのと、今度は『押す』のも覚えなくちゃならない。
『押す』のはね、相手の気持ちに自分のしてほしいことを伝えるってことなの。
こういうのは、自然にできる人もいるけど、本当に少ないの。自分ができるって事を知らない人もいる。そんな人がわけのわからないままにこの力を使っていると、だんだん自分と他人と、区別がつかなくなってきて頭の中がゴチャゴチャになってしまうから。
タカオのおじいちゃんは、それで亡くなったのよ」
精神的に不安定になって、最後は病院で亡くなった祖父のことだろう。タカオは二回くらいしか会ったことがなかったが、優しそうな人だった。でも、すっかり心の中はめちゃくちゃだったらしい。最後にどうやったのか分からないが、管理の厳しい院内で自ら命を絶ってしまったのだと、親戚の連中が声をひそめて噂しているのを聞いたことがあった。
「これは、ちゃんと自分でコントロールできなくては」
小三の時か、これから『押す』練習もした方がいいかも、と母が言った時、彼女はおごそかにそう告げた。
「タカオ、母さんの心を読むのと違って、他の人のを読むのは大変なの。押すのもね」
「なんで? 何を考えているかわからないから?」
「いえ、だからそれは読めるでしょ? アナタなら」母は笑って彼の頭をなでる。
「母さんの心を読んだ時、どうだった?気分は」
「気分? えっと……気持ちいい感じ」いつもふんわりして、暖かかった。
「他の人に同じことをすると、すごく気分が悪くなる、きっとね」
何か思い出したのか、母はこめかみを押さえて眉間にしわを寄せた。
「頭が痛くなったり……吐きそうになったり、なんでか分かる?」
「わかんない」
「アナタは母さんを信じてくれてるし、母さんもアナタをちゃんと信じているから、そういうことはないの、でも少しでも相手に疑いがあったり、信じられなかったりすると必ず、気分が悪くなる。『ひっぱる』時もそうだけど、『押す』時はもっとひどい」
だからいい? 母はタカオの肩に両手をかけて、目をのぞきこんだ。
できるだけ、その力を使わないように、ふと気づかないうちに使ってしまわないように、そのためにも、今少しずつでも練習が必要なの。
よく分からなかったが、母についていけば間違いはない、そう思っていた。




