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チェンナの森  作者: 香_t
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7章 少女とチェンナ

 その夜、扉を叩く音に目が覚めた。

 隣でチェンナは一足先に目を覚まして、体を起こしていた。

 けれど、寝床から起き出すそぶりは見せなかった。


 夕刻に出かけたヒルコとオトは帰ってくる気配がなく、いつまでも止みそうにない雨の中、夕闇が深まると同時に、扉という扉には、全て閂をかけた。


 オト達が帰ってきたものと思い、寝ぼけ眼で立ち上がった。


「××、いけない。開けちゃあだめだ」

「でもオトたちじゃないの?」


 その問いかけにチェンナは注意深く首を小さく横に振った。

 その間も扉を外から叩く音は続いた。

 続くだけでなくどんどん激しくなっていった。

 その時になって、外にいるのがオト達でないことがはっきりと分かった。

 扉は軋みを上げ、家全体を揺らす程の強さで揺さぶられた。

 それと同時に雨音までも激しさを増した。


 翌朝。


 薄目を開けるとチェンナの柔らかな毛並みが目の前にあった。

 恐怖に眠ることもかなわないだろうと思っていたのに、いつの間にか眠りこんでしまっていた。

 チェンナの黒く濡れた鼻も静かな呼吸を繰り返している。

 雨戸の隙間から覗く細い日の光に、ホッと胸を撫で下ろした。


 けれど、庭先を歩く足音を耳にして、また、体に緊張が走った。

 何度も、家の回りをぐるぐるとしている。

 大きな歩幅だ。

 とてもゆったりとした……。


「チェンナ、起きてるか? 開けてくれ」


 それはオトの声だった。

 いつもは快く思わない彼の声に、これ程、安心させられたのは初めてだった。

 チェンナが手の先で顔を擦りながら、寝床から飛び出した。


 チェンナの手が苦労して重い閂を外し、扉を内へと開けた。


 そこには、薄曇りの空を背景に、それでも、朝の光を感じさせる世界の中に佇むオトとヒルコの姿があった。

 オトは頭だけを家の中へ入れて、中の様子に変わりのないことを確かめた後、納得したように、チェンナの方を改めて見下ろした。


「ひどい目にあったようだな」


 労るようなオトの言葉に、チェンナは眩し気に瞳を細めた。

 そして、その柔らかな口元に、穏やかな笑みを浮かべてみせた。


「ヒルコの言う通りにしたから、大丈夫だったよ」


 チェンナが、いつの間にヒルコとそんな話を交わしていたのかと驚いた。

 二人の会話には、一番注意を払っていたのに、それにも関わらず、二人の間でだけの秘密があったということが、ひどい裏切りのように感じられた。


 けれど、憎しみの対象は、ヒルコにしか向かわなかった。

 ヒルコがここに来たから、チェンナの全ての時間を共有できなくなってしまった。


 そんな剣をはらんだ視線に気付いたように、ヒルコがこちらをはっきりと見た。

 まだ目深にフードを被っていて、そこから、二つの目の光だけが薄気味悪く覗く。

 けれど、負けるものかと睨み返した。


 その後、ヒルコの口から発せられた言葉に、そんな憎しみの気持ちに不意打ちをかけられた。


「お前、そろそろ帰る。お前いるから、チェンナ、危険にさらされる」


 ヒルコの無遠慮な物言いに、オトが両の目尻を下げて苦笑をもらした。


「そういきなり物を言うもんじゃないよ、ヒルコ」


 オトは釈明するように、チェンナを見やった。


「俺たちは、中有の森へこれから行くつもりなんだが、そこの子も、一緒に連れて行っていいかい?」


 そこの子と指され、心の内に不安が起こった。

 一体、彼らは何を言っているのかと。


「××を?」

「どうもチェンナの老爺木の具合がよくないらしい。おかげで、ウサラのおばばも道標を見失う始末だ。俺たちは、おばばと一緒に、そこら辺に迷い出たのを集めて中有の森まで送っていこうと思うが、そこの子はどうするね」


 チェンナの緑玉色の瞳が、じっと見つめ返してきた。

 何を考えているのか分らないその表情に、不安をかきたてられる。

 責めるのでも、憐れむのでもない。

 チェンナはそんな感情より、ずっと先で、いつも何かを考えている。


 それが捉え難くて、いつも不安にさせられる。

 どれだけチェンナを想っても、チェンナの心がここにはないことを知る。


 けれど、チェンナは誰も見捨てようとはしない。

 いつも優しく手を差し伸べてくれる。

 だから、その腕だけを拠り所にするしかなかった。


「でも、あれはボクを探しているんだよね」

「もう見つけている。この扉の傷を見ろ。熊にでも襲われたような有り様だぞ」

「なら、ボクも一緒に行くよ」


 瞬間ヒルコの体が、チェンナに飛びついた。

 そして、柔らかな産毛に包まれたチェンナの灰色の体を責めるように揺さぶった。


「連れていかれるっ。ダメ、そんなのっ」

「でも、黒いのはボクの後になら、素直についてくると思うけど」

「だとしても危険だよ」


 オトも諌めるように、言葉を重ねた。


 けれどチェンナは逡巡の色は一切見せずに、真直ぐにその細い顎を持ち上げた。

 そして、その小さな手をこちらへすっと差し伸べてきた。


「××、ボクと一緒に帰ろう。『チェンナの森』へ帰ろう」

「チェンナの森へ……帰る?」



 山の裾野まで続く、田圃の中の細い畝道を一列になって歩いていく。


 先頭にはオト。

 大きな歩調で先を行く。


 その後ろにヒルコが小走りについてゆく。


 その後をチェンナが跳ねるような足取りでついてゆく。

 マトの樹の皮で編んだ自分の体の半分程もあるしょい篭を背負っている。


 中には、数日分の食べ物が入っている。

 水はいらない。

 この辺りの湿った土地なら、少し行けば、水の流れに行き当たる。


 どんなに足場が悪い場所でも、チェンナは雲の上を歩くような軽やかな足取りで渡ってゆく。

 そして、手を差し伸べてくれる。

 その手の温さに、心の不安を僅かでも癒される。


 時々思い出したように降る小さな雨の粒が、チェンナの毛皮の上で、銀の砂のようにキラキラしていた。


 どこにも行きたくなかったけれど、チェンナに置いていかれ、一人、あの家に残されるのがいやで、一緒に行くことにした。


 チェンナの森が何なのかも知らない。

 オト達は中有の森と言っている。

 そこにあるチェンナの老爺木からチェンナの名前をもらったんだってことは、この間聞いたばかりだ。


 同じ名前を持っているってことは、チェンナはその樹のことをよく知っているんだろうか。


 でも、帰るって、一体どういう意味なんだろう。

 一緒に帰るって……。


 やっとぬかるんだ土道に辿り着き、先を歩いていたオトが後ろを振り返った。

 気を緩めると足元を掬われそうになる細道の連続に足が疲れたのか、手に持った八角棒に少し体をもたせかけ杖がわりにしている。


「前に来た時には、道を広げるって言っていたように思うが、その話はどうなったんだ?」


 それに、チェンナの顔に困ったような微笑が浮かんだ。

 道の話は聞いたことがなかったけれど、そんな事ができよう筈もないことは察せた。

 今はみんなマツリダケ探しに夢中で、とてもそこまで手が回っていないというだけのことだ。


 確かに、道がもっと広くなれば、近くの町に出るのだってどれだけ便利になることか。

 けれど、みんなの頭は、先のことより、今のことしか考えられなくなっている。


 今日明日、食べていくものがなければ、一年先のことを考えたってしょうがないんだって思える。

 それは仕方のないことなんだって。


 けれど、チェンナは違った。


「ははあ、マツリダケのせいだろう」


 チェンナが言い淀む言葉の先を、オトがあっさりと言い当てた。


「あれは金になるものな。町からの仲買の手に渡しさえすれば、一本で、今までの一年で稼いでいた分だけになる時もあるらしいな」

「よく知っているね」

「他の村でも似たようなモノさ」


 そう、オトは軽く笑った。

 それは捉えようによっては嫌な笑いだったけれど、オトにそんな意図はない。

 この人は、深い同情もしない代わりに、悪意の誇張もしない。

 この人の目はいつも等身大の事実を映す。


 だから、そう見えたから、そのままに伝えているだけなのだろう。


「採り過ぎなければいいがね。よそでは、小さな芽まで摘んでしまって、価値のあるマツリダケは全くとれなくって、山を閉ざしたって話も聞いたよ」

「山を?」

「仲買が馬鹿みたいな値段をつけるからこんなことになる」

「その人たちも、売る先があるから、そうするんだ」

「ああ。貧乏な所から甘い汁を吸い上げながら、どこかで潤っている所があるんだよ」


 ヒルコは、オトとチェンナの会話には興味がないとばかりに背中を向けて、薄暗くなりだした四方に目を配っている。


「ひと昔前に比べて、畑に出ている人間の姿もあまり見なくなった」

「仕方ないよ。隣村まで行かないと脱殼機もないんだ。道が悪いから、行って帰るだけで何日もかかってしまう。それだけ手間をかけても、なのに、数本のマツリダケ程の収入も得られないんじゃあ、皆、畑になど出なくなってしまう」

「チェンナは、マツリダケには興味はないのか?」


 少し面白がるように、オトの視線がチェンナを見た。


「先日、××と一緒に採りにいったよ」

「お前でも、金を払ってでも欲しいものがあるのか?」

「うん、あるよ。前はなかったけど、今はある」

「そうか」


 チェンナの小さな頷きに、オトの目が優しく細められた。


「なら、お前はまだ、ここにいないといけないんじゃないか?」

「えっ?」

「したいことがあるのなら、お前はあの黒いのの自由になってちゃいけない」

「それは……」


 オトが背中を丸めて、チェンナのどんぐりまなこを覗き込んだ。


「……違うよ、オト。ボクはそういうつもりで一緒に来たんじゃないよ」

「なら、どういうつもりだったんだ? 俺にもヒルコにも、黒いのがお前を必要としているのなら、自分のことはどうなってもいいんだっていう風に聞こえたぞ」


 ヒルコが、自分の名前を呼ばれたからか、驚かされた小動物のような素早さでこちらを振り返った。


「言葉が足りなくてそんな風に思わせてしまってごめんよ。ボクが言いたかったことは、ボクが困ることはないから、構わないってことなんだ」

「何故、困らない? 黒いのが何を考えているのか、お前には分るというのか? このヒルコでさえ、こんなに警戒している相手だというのに」

「オト」


 チェンナは自身の頼りなげな足先を見下ろして、言葉を紡いだ。


「ボクは恥ずかしい話、自分のためにしか生きていないと思うんだ。だから……誰の必要があったとしても、ボクは困らないんだよ。誰の必要があったとしても、ボクはボクとしてしか存在できないから」


 オトの眼差しが、不思議なものでも見やるように、うつむくチェンナのうなじに落ちた。

 僅かな沈黙がその場に流れた。

 その沈黙を破るように、小雨がまたまばらに降り始めた。


 オトの手が、そっと、チェンナの首にかかっていたフードをひっぱってチェンナの頭に被らせた。

 ツンと尖った耳の所だけが、そのように飛び出していた。


「別に恥かしがることはない。俺だって同じだ。誰かの為に生きていると感じたことはない。俺は俺のためにしか、結局の所、生きてはいないんだろう。言われてみれば、そう思うよ。だからこそ、自分の気持ちをどうしても優先させてしまう。チェンナ、俺達はお前と別れたくはないよ。ここで、ずっと一緒にいたいよ。我が侭言ってすまないけどな」


「私も、チェンナと一緒にいつまでもいたい」


 不意に口をついて出た言葉だった。

 いつも心の中で思っていたことだ。

 チェンナに伝えたいと思っていたこと。

 私も、チェンナと一種にここにいたい。


 微かな驚きを含んだチェンナとオトの視線が「私」を見た。


 私……「私」?

 待って、待って、待って。

 私って、誰?

 私って………


「ボクもだよ、××」


 チェンナが私の名前を呼んでくれたんだって分かっているのに、私の耳にはその名前は届かなかった。

 急に背中を寒くさせる不安に包まれ、私はしゃがみこんでしまった。

 今、自分がどこにいるのかも分からなくなってしまった。


 チェンナの手が私の肩にそっと触れてきた。

 そこにははっきりとした温かさがあった。

 確かなことはそれしかなかった。


「チェンナ、チェンナ……私は、誰?」


 チェンナの目が困惑に包まれた。


 そんなにあなたを困らせる質問を私はしたの?


 目の前でチェンナの口元がもう一度私の名前を呼んだ。

 けれど、やっぱり何も私には届きはしなかった。

 体はきちんと受け止めているのに、心にその名前が聞こえない。

 全身の血が引けるような気分の悪さが広がった。


「あいつが、来た」


 そんな私の横で、ヒルコがいつもと変わらない愛想知らずの沈んだ口調で、今私達が歩いて来た道の先の薄闇を凝視した。

 天空はとっくに光を失い、西の空が僅かに昼の灰色の白さを残しているばかりだった。

 夕闇がすぐそこまで迫っていた。


 ヒルコの言葉に、突然鼓動が早くなった。

 言われた先の薄闇に目をこらす。

 何もそこにいないことを祈りながら、何かの存在を探す。


「あいつだけでなく、他のも集まってくるぞ」


 オトに脅すつもりはなかったとしても、風が咽の隙間を通り過ぎていくような声音では、安心させられるものではなかった。


「何が、集まってくるの?」


 私は震える声で、そう問いかけた。

 オトの手許で、八角棒の根本が三度、軽く地面を打った。


「ここは別にどこといって変わったことのない場所だが、強いて他と違うとこをあげれば、時々死霊がうろつき回るぐらいなものだな」

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