3章 チェンナの森 下
初めて農夫が出会った人間は、巨大な樹木の根本に腰を下ろしていた。
縮れた黒髪を長く首筋に束ねて延ばし、つば広の編み帽子を目深にかぶり、その壮年の男は気軽にキセルを吹かしていた。
小さな行李をひじ掛けがわりに、濃紺の旅装束に身をやつしているが、このような場所に行商に来るようなことは考えられない。
しかし、それより他に農夫の関心を引いたのは、男が背を預けている巨木の幹であった。
人間が百人かかりでも取り囲むことが不可能だろうと思わせる程に巨大な樹木であった。
そして、農夫は必然的に、その樹が「そう」なのだと、悟った。
自身が辿ってきた大災の根は、帰郷を喜ぶようにして、大蛇のようにうねり、端々でとぐろを巻いて、その大木の元へ集まっていっていた。
旅装束の男はキセルを片手に、つばの下から、鷹揚な眼差しを投げ掛けてきた。
肌には深い皺が細かく溝になっていたが、その表情と瞳には、盛りを迎え充実した男の生気というものが漲っていた。
しかし、今は、その生気が何やら行き場をなくして、所在なげに彷徨っているような風であった。
農夫は、そんな男のことは気にかけず、ゆったりと根を足掛かりに男の元まで登ってくると、痩せて肉がそげ落ちむき出しの石塊のようになった手の平を、幹に静かに添わせた。
その様子をキセル男は上目使いに観察する。
言葉を交わさずとも、歯こぼれだらけのくたびれた鍬を手にして立つ農夫の考えていることを察することは、容易いことだった。
この男、実は、かの猛勇を轟かせた国主より密命を帯びた間者であった。
「かの」というのは、勿論、先の戦で、チェンナの樹を切れ、と真っ先に教唆した国主で、その折にはチェンナの森を伐採し、火を放つという暴挙に出て、チェンナの国の者達を震撼たらしめた人物である。
協議の上、他の国主たちと同様にチェンナの苗を受け取り帰国の途についたのは表向きの話。
実の所、こうして間者を残し、チェンナの樹の処分を諦めていなかったという訳である。
しかし、命じられた間者の方は、初めて見る神樹の想像を絶する巨大さに、その元に辿り着いてはみたものの、対処に困り、ここ二日程、この場所に留まっていた次第であった。
この大きさを見てからは、とても一人で切り倒そうなんて考えは思いもしなかった。
それでは、日にちがいくらあっても終わりはしない。
たまたま、ここへ来るまでは、この国の者に見つかりはしなかったが、さすがにそれ程までに滞在していては気付かれるというもの。
それならば、と火薬玉を仕込んでみようとして、更に男は驚かされた。
この樹は勿論の所、この地所全体が、ぼったりする程に濡れていて、一切の火の気を寄せつけようとしないのだ。
水を呼ぶ樹とはよく言ったものだ、とは男の独り言であるが、そういう訳で、次なる手を、こうして二日ばかりの間、キセルを吹かせながら考えていた訳である。
このまま何をもせずに帰っても恩賞を得ることはできないし、たかだか樹一本、処分できぬというのも、片腹痛いことであった。
そういった含みのある男の横で、薄汚れたその農夫は、やおら鍬を持ち上げ、神樹の一番大きな根の上に振りかぶった。
それを見た瞬間、男の内に笑気の渦がみるみる湧き上がってきた。
自分が、この巨木の姿を見ただけで考えることすら放棄した方法を、この男は何ら躊躇することなくしようというのか。
確かに、この男の愚直さを見てとれば、何日かかろうと、そんなことは何の問題でもないのだろう。
それに、何もせずにここで二日間無駄に過ごした自分に比べれば遥かにましなことかもしれない。
傷ついた根から、血が流れ出るような勢いで水が溢れだし、慌ててキセル男は立ち上がった。
この森の周りでは土地が枯れきっているというのに、この森の内にだけ留まるこれ程の水量は、男の目から見ても明らかに異常に思えた。
恩恵に浸るばかりで、そんなことにすら気付かないこの国の連中の暗愚さにもうんざりさせられる。
直接伺った訳ではないが、自身に密命を授ける国主の目にも、その思いに似た、一種の侮蔑と苛立ちを、男は感じ取っていた。
猪突蛮勇の例えのように言われる我が君主ではあるが、存外思慮深い方でもあるというのは、臣民においては広く知れ渡っていることだ。
今回の戦においても、その目的は富の略奪にあらずで、万国が疲弊する中、何故チェンナの森だけが豊かなのか、その訳を探り出すことが第一にあったのは、遠からずといった所だろう。
仮にも相手は一本の樹木だ。
何が神樹だか知らぬが、水を呼ぶ樹というのならば、何故、日の神の熱に責めさいなまれる土地において、他に一本もその名を聞かぬのか。
異国の商人から買い受けたという昔語りにあるのに、何故、その商人は自身でその種を大地にまこうとしなかったのか。
一人の農夫に売る事を考えるより、まず先にそれを考えればよい話ではないのか。
この世に一つしか存在しないものなど、すでに、それ自体がいびつな存在なのだということに、何故、すぐ気が付かぬのか。
一つしか存在できぬのには、それ相応の因縁があるのだと、儂ならば考えるがの。
その因縁に同じく気付き、この農夫は、ここに辿り着いたのだろうか。
男は、鍬を振るう農夫の邪魔にならぬよう、遠巻きになりながらそう思った。
そして、その因縁に気付いていたのがもう一人きっといる筈だと思った。
そう、チェンナの樹の種をかつて売った異国の商人、その者自身が、最も最初に、その存在のいびつさに気付いていたのではないのか。
この夢の樹のいびつさに。
手前の傾斜の方がきつい。
ひとまずの根を切り落とした後、こちら側の土を火薬玉で吹き飛ばそう。
湿っけて大した役には立たぬかもしれんが、手をこまねいているよりかは、なにほどかマシだろう。
とにかく、切って切りまくれ。
そうすれば、ここは泥土となり足場が緩くなる。
そうなれば、これもいつまでもふんばってはいられまい。
まるで昔なじみの友にでも語るような男の口調に、農夫は手をとめることはなく、ただ首だけを億劫に縦に振った。
その反応に、男の口元も自然笑みに弛んだ。
七日程の後、その異変に初めて気付いたのは、神殿の者たちだった。
石を敷きつめた神殿の中庭が、まずぐずぐずとぬかるむようになって、それと原因の分らぬ内に、神殿の上にまでうっすらと湿気があがってくるようになった。
チェンナの森のおかげで、日射しの厳しさに比べて、暑さに悩まされることはなかったのだが、これ程までに湿気が登ってきては、ねばりのある熱が体にまとわりだす。
先の戦で森が焼かれた時にも、かなりの湿気が地中から外気の中に放出されたが、それの比ではない湿りであった。
それも、この湿気はここ神殿の辺りより彷徨い出ている様子である。
これは神樹に何か異変があったのか、と急ぎ人を集め神樹の元へと馳せ参じると、そこで見た光景はまるで、一面、渓流に変わったような有り様で、滔々と何本もの水の流れが、高みから低地へと細く絡み合うように、地を這って降りていっているのだった。
その渓流を辿るようにして、先へと急ぐと、更に水量は増し、神樹の根本はと見れば、流れ落ちる水が、仙人の鬚のように白く横に広がっていた。
そして、その水に打たれながら、泥にまみれた男の姿が二人。
鍬を何度も神樹の根に振り下ろす男の方は、神官たちの訪れにも気付かず、ただ夢中になってその作業を続けていた。
その行為はあまりに畏れ多いことであったというのに。
もう一人の男の方は、すぐに人の気配に気付き、濡れそぼったその顔を上げた。
そして、満足げな笑みを黒ずんだ顔に、満面に浮かべて見せた。
大小合わせた鈍い発破音が響き、どう、と泥水が跳ね上がったのはそのすぐ後であった。
チェンナの樹の根本の土がまた少し崩落した。
さてもさても、そろそろ、火薬玉も尽きるという頃に、間がよく、やってきたものだ。
旅装束姿の男はそういって、天を仰いで哄笑した。
チェンナの巨木は、未だ微動だにせず、大地に根ざしていた。
その翌日、神樹を傷つけた重罪人として、二人の男達の首が、街の広場に晒された。
誰にも、何故、その男たちが、そのようなことをしたのか分らなかった。
推測もできなかった。
しかし、自分達の生活を満たしてくれる尊い存在に傷をつけようとしたことは許しがたいこととして、充分、憎しみの対象となった。
その後、傷付いたチェンナの根本は癒されることなく、滔々と水は流れ続けた。
驚くべきことに、一体、何日費やしたのか、チェンナの樹の根本は、ぐるり一円、大きな根がことごとく、鍬の先で傷つけられていた。
その傷口からあふれ出る水の流出と共に、豊かな黒土もみるみるそがれていった。
チェンナの樹の傾きに気が付いた時には、もはや、全てが手遅れだった。
もっとも、どれだけ早く気付けたとしても、あれ程の巨木を人間の手でどうこうできる筈もなかったろうが。
チェンナの街を見下ろす程の高みにそそり立っていた、巨大な神樹が、ゆっくりとかしいでゆく様は、国中の者だけでなく、遠くは、隣国の者たちからも望めた。
それは、一種神憑かり的な、荘厳な光景であった。
あれ程の巨木が倒れることがあるのか。
それこそ、天地の終わりが訪れたのではないか。
恐れるもの、すくみあがるもの、ただ、天上神に祈りを捧げるだけのもの、混乱のままに泣き叫ぶもの。
それら全ての騒乱を前に、不思議な程に穏やかな動きでチェンナの樹は、その足下の森の中へと倒れていった。
傾斜をきつくさせた頃に、樹は一気に横倒しになった。
そのように思えた。
誰にもそこまではっきりと見ている余裕などなかった。
巨木が地面に倒れ伏した震動は、全ての建物が一瞬の内に倒壊する程の激しさで、人々は立っていることも適わず、ましてや、自身が生き残る術も分からず、阿鼻叫喚の坩堝の中に、一瞬の内に突き落とされたのだから。
混乱の中逃げまどう人間や動物達を、更なる恐怖が襲った。
それは、チェンナの樹の元から滝のように溢れ出した水が起こした泥流であった。
ありとあらゆるものがその泥流に飲み込まれていった。
泥流は、チェンナの森すら抜けて、周辺の枯れた土地土地を覆い尽くしていった。
チェンナの国が泥流に押し流されてなくなってしまってから、しばらくして、その湿った大地の上に、ぽつりぽつりと、雑草が芽を出し始めた。
後述ながら、チェンナの国より苗をもらって帰った国主たちの元では、一本もチェンナの樹は根づかなかったという話である。
もっとも、かの勇猛なる国主は、チェンナの樹を自らの国に植えようとさえしなかったらしい。
チェンナの苗は、王の庭先で、水を与えられることもなく、小さな壺の中に押留められたまま、みるみる枯れていったという。
そういう話だ。
日に焼け茶色くなった本の頁は、チェンナの樹が傾き出した日の始まりで折られていた。
子供心にも興奮を覚えたのを覚えている。
巨大な神樹が倒れ、人々が逃げまどう様は微に入り細に入り描かれていて、かといって、少しも感傷に浸る筆致ではなく、ただただ、圧倒されるままに読み進んだ気がする。
父も、ここで、気持ちの高揚を覚えたのか、それか、倒れ行く巨木の姿に何かを思ったのか、それが何かは分らないが、父の存在を身近に感じる印ではあった。
そんな父が、街中にいる猫に目を奪われるようになってしまったのは、チェンナが死んでしまった翌日からのことだった。
チェンナというのは、その物語の樹から借りた僕の飼い猫の名前だ。
僕が中学に上がった年の秋、ふと庭先に迷い込んできた子猫だった。
とても綺麗な緑色の目をしていて、僕は、その夏一人で遊びにいった田舎の川の深みの色に似た色だと思った。
その水のイメージが、僕の中で子猫とチェンナの樹の物語を繋げたのだろう。
母は僕がつけた妙な名前の由来をさして追求することもなく、ただ「猫ちゃん」とだけ呼んで餌を与えてくれていた。
本当は動物はあまり好きじゃない人だ。
本人は隠しているが、そんな風は端々に覗くものだから、チェンナも、餌をねだる時ぐらいしか母の側には寄ろうとはしなかった。
父などは、珍しく家にいる時でも、大体書斎にこもりっきりなので、子供の飼っている猫の名前など知らずじまいだったろう。
もっとも、例え知っていたとしても、チェンナが死なずにすんだということはなかっただろうが……。
けれど、あの時に猫の名を耳にした事で、父が、何らかの衝撃を受けたことは間違いのない事実だ。
その混乱のままに、父は今も、何かに憑かれたように街中の猫を求め彷徨っている。
しかし、見るに忍びないその姿を追っても、僕には、そんな父にかける言葉を口に出すことができない。
あれは純粋に事故だったのだと、今にしてみれば思えるのだが、あの時の僕にはとてもそんな風に冷静には考えられなかった。
父さんのせいでチェンナが死んだ……。
ただ、その事ばかりを呪いの呪文のように心の内に吐き続けていた。
その強い念が今もしこりとなって、僕達は、距離を置いて互いの様子を伺うことしかできないままでいる。




