2章 チェンナの森 中
その次の次の月。
チェンナの樹の神官たちが、神殿の高みで驚愕に息を飲んだ。
あれは一体、何の騒ぎであろうか。
地平の向こうに群れなす、黒山の軍馬の姿は。
豊かな生活になれ親しみ、内と争うことも外と争うこともなかったチェンナの街の者達は、ただ呆然とその一群の訪れを受け止めた。
街の中を黄金のこしらえの王の輿が進んでいった。
そのような王がいたことなど、街の者たちは知らなかった。
この世の全てを統べるものが人の中にいるのだということも。
この街の統治者というのなら、それはチェンナの樹であり、それに使える神殿ではないだろうか。
そういう思いで今まで、民は生活してきた。
そこに突如現れた、人の世の主人たらんとする男が、一体何を言うものか、彼等は固唾を飲んで、事の成りゆきを見守った。
そして、次の年が明けると早々に、神殿の近くに、今度はそれを上回る程の大きさと高さで、巨大な城が築かれ始めた。
黄金の輿でやってきた男は、王となり、そして、街は王都となった。
チェンナの樹は王国の神樹となった。
この世の歴史上、ひとときの興隆を極めた夢幻の王国の歴史の幕開けであった。
決して枯れぬ大地を有した、豊穣の都であった。
民もすぐに、巨大な力をもった王の僕となった。
そうなっても、豊かさには変わりがなかったからだ。
貧困に飢えることも、明日を思い煩うことも、天気の善し悪しにやきもきさせられることもなくなった。
そんなことをしなくても、糧は地面から自然と涌いてくる。
もはや、種をまく必要もなく、ただ待てばいいだけの生活。
労働を、財を、幸せを、誰と比較することもなく、暮らすことができた。
しかしその平穏も長くは続かなかった。
ただ一人の国主だけが、何故、そのような恩恵に与れるのか。
隣国の国主たちがいきり立った。
そうなる程に、はるか遠くの隣国までが、土地の疲弊に悩まされていた。
天候に恵まれた土地でさえ、不思議なことに、土地が、悪しき病にかかりでもしたかのように乾いていくのだ。
大地は老人の肌のように深くひび割れ、くめども尽きぬ井戸でもなければ、とても再生は望めなかった。
土地を捨てたがる者が後を立たず、国の存続さえ危ぶまれる時期に至り、国主たちの憤懣が頂点に達した。
ある年の夏の終わり、チェンナの国の周りを、何十万もの兵が取り囲んだ。
生き物のように未だ増殖を止めぬ森を取り囲むには、その人数でも足りぬ程ではあったが、チェンナの国民を威嚇するには十分すぎる人数だった。
国民は、以前のように、息を潜めて成りゆきを見届けようとした。
しかし、今度はそうはいかないのだということを、すぐに身をもって知ることになった。
剣を持て。
槍をかかげろ。
病人、老人、女、子供以外の者は全て、国の防衛に挑め。
王は、国民を使役することを当然と考えていた。
数百年もの間、平穏無事に過ごしてきた民達の中に動揺が走った。
民たちは、戦の仕方など学ぶ必要などなかったのだから。
困惑する民たちに、神官が声を大きく呼び掛けた。
神の樹を守るために立ち上がれ。
これは聖なる戦いである。
我々には、神樹の加護がついているのだから、決して負ける筈はない。
この聖地を、決して極悪非道の悪鬼の手に落としてはならない。
その同じ頃、ただ一国、戦に参加することのなかった年老いた国主の元に、一人の年若い農夫がいた。
生まれて十数年の内に覚えたのは、畑を耕し、作物を実らせ、それを糧にして生活するすべだけの者で、格別、知恵者という訳ではなかった。
そして、近隣の農家の例にもれず、若者の家も長い干ばつに悩まされていた。
といっても、一年の内に降る雨の量はまとまっている。
百年程前の頃なら、十分、それで生活できていた。
父の父からの話として、そう伝え聞いている。
それがここ百年の内に、雨がとんと大地に溜まらなくなったのだという。
一体、大地のどこかに穴でも空いているのか、水はみるみる抜けていってしまい、土地に元々あった樹木さえ養えぬ程に乏しいものになってしまった。
それが、毎年くり返され、今では、夏の暑い盛りに僅かばかりの涼を与えるぐらいにはあった緑さえもが、すっかり姿を消してしまった。
そんな風では、畑の作物も知れたもの。
木々ですら育たぬ場所にどのようにして、人の手で作物を育てよというのか。
新しい井戸を掘ってみても、満足のいく量のある水源は見つからない。
一体何故なのか。
このままでは、この土地を捨てねばならぬ日が来るかもしれぬと、誰もが不安に胸を詰まらせた。
そして、噂に聞く「チェンナの森」を思った。
あの国では、水に濡れた豊穣な土が、神樹のおかげで労せず得ることができるのだというが、本当なのだろうか。
他国の者が、力でもって攻めようというのだから、本当なのではないか。
噂は希望も欲望も羨望も含んで、人々の口を渡り歩いたが、誰も、武器をとって、侵略せよとは口にはしなかった。
それ程の国力がないこともその故だが、他人の持っているものが良いからと、それを奪うようなことはできぬだろうに、と国主を頭に長老達が常識的に考えただけの話だった。
それも、物ならば奪いようがあろうが、一本の樹の恩恵に与っての繁栄というのでは、それを得ようと思えば、その土地を奪わなくてはならないだろう。
今、住まっているもののことを考えれば、一体どういった理由があって、そんなことができるというのか。
国の長老たちと名士たちがそんな論争を交わしている間に、あっけなく、若者のまだそれ程の年ではなかった父母が続け様に死んでしまった。
日々の暮らしにやつれきったのか、大きなため息一つを残して、父が、そしてその後を追いかけるようにして、母が、体を起こす力もなくして、眠るように逝ってしまった。
その事を境に、若者はめっきりと無口になった。
隣人たちが、諸国の噂話に心騒がせている端で、若者はただ寡黙に、何かを一心に思い悩んでいるようだった。
そして、ある日突然、若者は枯れかけた木々の根本を何本も何本も掘り出した。
隣人たちは気鬱のあまり、若者の気がふれたのではないかと案じたが、その一心不乱な様子に、すぐには表立って悪く言うことはしなかった。
しかし、ひと月程たった頃だろうか、気付けば、若者が畑の世話も忘れて、家から遠く離れた国境の辺りで穴掘りに熱中しているのを見て、隣人たちはこれはならぬと、とうとう声をかけるに至った。
そろそろ、田植えの季節も近い。
畑を耕した方がよいのではないかと、親切心からのものだったが、若者は、誰の言葉も耳に入らぬのか、寝食すら忘れて、昼も夜も、鍬を手に枯れかけの樹木の群れを追いかけていった。
何か辿るべきものがあるのかどうか、若者の姿は、更なる荒野へと消えていってしまった。
さて、チェンナの森を巡っての攻防がその頃どうなっていたかというと、包囲したはいいが、鬱蒼と茂った森を前に攻めあぐねていた。
目的は、この豊穣な土地にある訳なのだから、邪魔だからと言って、森を伐採する訳にもいかない。
こちらの願い通りに都を明け渡してくれれば、何も争うこともないのだが、そのような条件は、相手の飲めることではないだろう。
ならば、森を燃やすことも厭わぬ覚悟で攻め寄り、ひとまずは都の者達を一掃するのが先決で、それからのことは、ゆっくり考えるべきかという話もあったりで、陣幕の内で、列国の思惑が交錯する議論が日夜なされていた。
そうして、かれこれ三ヶ月。
その間にも鍔競り合いが幾度となく行われたが、地の利に勝った相手の方が、少数ながらにうまく立ち回って、なかなか手強い。
それ程までに、この森は大きかった。
いつの間に、これ程の森がここに出来たのか、誌書に詳しい学者達も頭を捻る所であったが、そんな学者達がただ一つ口を揃えて言えることは、以前はここにこんな森はなかったということと、その以前というのは、二百年を越えることはないという、確固とした事実であった。
それを思うと、まことしやかに、チェンナの森の神殿に詠われている、神樹の伝説もあながち嘘ではないのではと思えるのだった。
これは、水を呼ぶ樹の種だよ。
異国の商人にそう言われて、ある一人の農夫が、とある市で手に入れた時、それは柿の種程の大きさもない一つの小さな存在だった。
そして、種はみるみる成長して、その樹の元にはたっぷりと湿った豊穣の大地が生まれ、それがいつしか、神の森となったのだと。
その最中、いずれかの国主が声を大にして叫んだ。
この人の世に神の領域があることが、既に間違いのもとだ。
そのような災いの元でしかない樹など切ってしまえ。
その暴論に慌てて割って入ったのは、どちらの国主であったか。
何、切らずとも、その樹を分けてもらえればすむ話だ。
チェンナの樹が一本あれば、国は栄える。
その樹は種から育ったのだろう。
ならば、分かつことは容易い筈。
そして、列国の者たちは策を練った。
獰猛な国主の手勢が、森を伐採し、焼き始めた。
黒煙はみるみる、天高く登っていった。
それは、チェンナの国の者たちにはぞっとする光景だった。
この土地を求めているのならば、そこまでの暴挙には出まいと思っていた見通しの甘さを打ち砕かれた。
狼狽する民を叱責しながら、神官らと協議を図る王の元へ、急遽、列国の内の一国主より、秘密裏に密書が届いた。
どうぞ、チェンナの国の主人よ。
我らに神樹の種をお与えください。
それで全てが解決いたします。
私はそれをもって、荒らぶる者たちを取りなす用意があります。
どうか、賢明なる英断を願います。
七日の内に、王城よりの使者が、神官を中心に立てられた。
何故、そんな簡単なことに気付かなかったのか。
チェンナの樹が一本しかないから、争いが起るのではないか。
それならば、喜んで分け与えよう。
それで、列国の大地が潤されるのならば、これ程に道義に適った行いはないではないか。
その決断はチェンナの森の王にとっても容易いことだった。
別にチェンナの種を分け与えようとも、この国が困窮することはないだろう。
チェンナの樹がそこにある限り、この大地の豊かさは揺るぎないもの。
今までもこれからも、我々はこの国の内だけで、満たされた生活が送れる。
陣幕の内で神官たちは恭しく、幾つもの苗を差し出した。
チェンナの樹には種がなりませんので、どうかこの苗をお持ち下さい。
種から育ったと聞いた話は嘘であったかと尋ねても、それは事実だが、現に、チェンナの樹は一切の実りのない樹故、未だ一度として、種のとれたことはないのだという神官たちの話には、嘘をあえて述べねばならぬ必要も感じられず、列国の国主たちは、ひとまず納得の上で、それぞれ一本ずつチェンナの樹の苗を自国へと持ち帰った。
それは、心踊る道程であったに違いあるまい。
また、彼等を見送ったチェンナの森の人々にとっても、喜びはひとしおであった。
その日より少し後、チェンナの森の西の外れに一人の男が立った。
着衣は強い日ざしと、砂混じりの風にさらされ、すっかりすりきれてしまった様子で、宿なしの風体であったが、近よって見れば、その浅黒い顔の奥には、鈍く光る眼差しが宿っていた。
長い間、熱風と太陽の熱に曝され、顔の表面が乾ききってしまったのか、強ばった表情であったが、何かを深く思っている意志の強さのようなものは感じられた。
男は右手に、泥にまみれ柄に汗がしみ込んだ鍬を手にしていた。
鍬の先は、すっかり磨耗しきっているが、それでも、男の鍬を振るう手は止むことはなかった。
男の来た方には、まるで道のように一本の大地の割れ目がついてきていた。
それはずっと男が掘り進んできた跡だった。
男は、様相こそ、道を定めぬ獣のものに豹変してしまったが、まぎれもなく、あの日の、年若い農夫に違いなかった。
何故、それがここへ辿り着いたのか。
広い森の外れでのこと、誰に見咎められることもなく、男はチェンナの森へ分け入っていった。
戦の恐怖から逃れられ、喜こびに沸き立つチェンナの森の民たちは、そんな一人の男の来訪には気付くべくもなかった。
その男の手によって、この豊穣の世界が終わりを遂げる事を未だ知らず、浮かれ騒いでいた。
男の足取りは一切迷うことがなかった。
男は、ただ、それの後を辿っていけばいいだけだった。
迷う必要もなかった。
あの日、自分の村で、枯れかけの樹の根本を掘った時に、男はその痕跡を見つけた。
蜘蛛の糸のように細い茶色の根が、何やら土に混じっていた。
それは樹の根や、その他の植物の根と巧みに絡みあいながら、存在していた。
けれど、他とはっきりと違うのは、その根だけが唯一枯れず、その土の中に残っていたことだ。
枯れかけの樹木の根は、もう乾燥しかかっているのに、その根だけは、何やらほのかに湿っているのだった。
男はそれを不思議に思った。
湿りが少しでもあるのなら、他の植物も同様の恩恵を受けていてしかるべきなのではないか。
それなのに、何故、これだけが生き残り、他は、息絶えようとしているのか。
一体この根は何の植物の根なのか。
その疑問が、男を長い旅へ誘うことになった。
その細い根は、巧みに浅い所を縫うようにして、大地に広範囲にはり巡らされていた。
しかし、その根が地上の植物と繋がることはなかった。
ずっとずっと、男はそのために、地面を掘りすすめることになった。
その根の元を探るために。
そして、ひと月をかけ国の境にきた時、初めて、男の疑惑が驚愕に変わった。
何ということか。
この根は、遥か、この広大なる荒野を渡って、この国に至ったのか。
そして、この国の全ての植物から、命の水を奪っていたのか、と。
それは底知れぬ恐怖だった。
そのような植物がこの世に存在するということが、恐ろしかった。
けれど、辿らねばならぬのだという意志が働いた。
でなくば、大地が死ぬ。
大地が死ねば、民は生きてはいけぬ。
耕しても実りのない労のために、自分の父母のように息絶えてしまう。
あるべき実りを奪っていく、見えざる者に対する感情が、恐怖を越えて、深い妄念に変わっていったのは、道程も半ばの頃か。
灼熱の大地の上で、徐々に太さを増す根の後を辿りながら、男は、通り過ぎてきたいくつもの土地を悄然と思った。
これは悪夢以外の何モノでもない。
激しい渇きに生き絶えた大地の中で、地面のほんの浅い所で同じ元を有する根ばかりが、濡れて光っている。
なのに、僅かばかりの雑草すら芽吹かぬのだ。
いや、芽吹けぬのだ。
その根に全ての水分をもっていかれてしまうから。
その先でやっと出会った、巨大な森を前にして、男の心からは既に一切の恐怖が消え、それとは別に、大風にも揺らぐことのない堅固な意志が、雲を突く程の勢いで魂の内にそそり立った。
大災の根は既に太い網の目となり、大地のすぐ下を覆っていた。
何故、その事実に、今まで誰も気付かなかったのか。
相容れぬ物はことごとく滅ぼされ、この植物に迎合できたものだけが、一から派生し、森を作る助けとなったのだろう。
その根に宿りつづけることを一生の業として。
農夫の男を導びいているのは、既に、チェンナの樹自身であった。
男が進む道を違えぬように、チェンナの巨根は男を森の中へと誘った。
空気がみるみる清涼感に包まれた。
鼻孔をくすぐる空気のなんと水々しいこと。
そよぐ風のなんと香しいこと。
木々の葉がなんと豊かに生い茂っているのか、と男は白昼夢に包まれたように、獣道をゆったりと進んでいった。
長い時間、誰一人すれ違う者はなかった。
時折、小鳥が梢の上を渡り歩き、狐や野鹿が茂みを揺らし飛び退ってゆくばかりだ。
都の喧噪すら届かない。
余程、分け入った所なのか、ここまで来る必要がないのか。
そうしなくても、この森は充分過ぎる程の恩恵を授けてくれているのだろう。




