12章 父
「チェンナ……」
ぼんやりとした父の目を覗きこんだ僕に対して、父が最初に口にした言葉だった。
僕は強いショックを隠せず、傍の椅子に力なく座り込んだ。
こんなにも父はチェンナのことを気にしていたのかという事実に、僕は激しく殴打された思いだった。
「お父さん、すみません。僕はあなたを苦しめました」
父の目が、道に迷った幼子のように頼り無く、虚空を彷徨った。
医者からは、まだ普通の会話ができる程には自意識が回復していないだろうと言い含められていた。
それでも、父は、そのことを一番に考えていたのだ。
眠りについた中ででも。
それは、悪夢以外の何モノでもなかった筈だ。
僕は、父に、僕の居場所を知らせようと、その手を両手の内で包み込んだ。
大きくて、けれど薄くごつごつした固い手だった。
こうして手を触れ合わせたのは、一体いつ以来だったろうか。
僕の咽の奥を、堪えがたい熱がわきあがってきた。
僕は、嗚咽を必死で押し殺すだけが精一杯で、何も言葉にできず、肩を震わせた。
そんな僕の手を、確かな力が、握り返してきた。
僕ははっとなってその手の先を見やった。
そこには、こちらをぼんやりと見つめる父の、無精髭に覆われた顔があった。
以前に比べてすっかり頬がやせてしまっていた。
けれど、僕の方を見る彼の表情には、不確かなものは何もなかった。
父は、はっきりと、僕を認めていた。
そして、ゆっくりとその唇を動かした。
しばらく使っていなかったそこは、ひどくぎこちない動きをしてみせた。
「……す…まない…」
父が完全に回復するまでは、まだしばらくかかった。
けれど、数日もたつと、しゃべるのには不自由しなくなった。
父が目覚めた日、その報を電話で聞いた母は、言葉少なにそれを喜んだ。
けれど、その口調の奥には、本当に安堵している気持ちがいっぱいで、僕はそんな二人の繋がりに子供心にほっとさせられた。
「教えてくれ。お前は勉強のできる子だった。それなのに何故、全てを投げ出してしまったんだ」
核心に迫った質問に、見舞い品のメロンをナイフで切り分けていた僕はその手を止めた。
僕は、自分が一番、この時間を待っていたことを知っていた。
「勉強ができない方が、お父さんと喧嘩をすることができました」
「……それだけの、ことだったのか?」
父は、本当に意外そうに、元々あまり大きくないその目を精一杯見開かせた。
自分で鬚をあたって、もう顔つきもすっきりとしている。
僕は顔形は母似だが、目元は父によく似ているらしい。
「はい……」
あまりに正直に告白することに一瞬ためらいはしたが、僕は言葉を続けた。
そうしなくては意味がないから…。
「僕が欲しかったのは、それだけのことだったんです。だから、あれは僕の勝手な我が侭です。どうか、許して下さい」
「……」
「だから、もう、チェンナの事で、苦しまないで下さい」
僕の謝罪に、無骨な口元をしたままの父の目元が、悲し気なものに変わった。
「どうしてお前が謝る。それだけのことさえ与えてやれなかった私を責めればいい」
「……」
「私は、何もできなかったんだ」
父の視線が、やり場に困って、窓の外のイチョウの木々に向けられた。
「勉強以外は何も……。野球も下手だったし、泳ぎもだめだ。田舎で川でおぼれてからは、水の近くに行くのさえ嫌になった。釣りに誘われても、一緒に行ったことはなかった。自分の子供と何を話題にしたらいいのかも分らなかったし、どうやって遊べばいいのかも分らなかった。勉強だけは、何も考えずにやれてよかったんだ。上さえ見ていれば、誰にも干渉されはしない。そのことで自身を完成させるしか、私は自分を完全なモノにする術がなかった」
父の言葉は堰を切ったような勢いで、僕を打った。
これが、父の本当の姿なのかと、僕の胸は驚きに包まれた。
そしてその驚きは、心にしみ込んでくる温かさをもっていた。
「野球が下手じゃあ、いけなかったんですか?」
父の視線が、問い掛けるように僕の上に戻ってきた。
「泳ぎができなくて誰かに申し訳ないと思うことがあるんですか? 僕は、お父さんの思う、不完全な父親で、充分満足していたと思います」
「私は、完全な人間には、到底なれなかった」
そう言う父の顔色には、少しの猜疑心が込められていることに、僕は気付かされた。
そのことで、彼が感じる恐れの意味を感じ取った。
「…不完全でいることが、そんなに怖いですか?」
「そうか……私は恐れているように見えるか」
「違うんですか?」
僕には、そう見えた。
「お前は怖くはないのか? 不確実なもの、不安定なもの……不条理なものが」
「怖くはないです。不動の巨木は、足下を掬われると倒れます」
「…やっぱりお前は、あの本を読んでいたのか?」
父の言葉の内には、そのことでの驚きはなさそうだった。
「『チェンナの森』ですか?」
僕の猫の名前を知った時に、分かって当然のことだった。
やがて、父は静かな微笑みを浮かべてみせた。
「私はあれを読んですぐ、なんて嫌な話だと思ったよ。なんてあてつけがましいモノをよこしたのだろうと。
あれは私の友だちが、私に送って寄越したんだ。大学の時の学友で…とてもいい加減な奴だった。なのに、勉強は何もしなくてもよくできる。私はあいつと机を並べながら、いつも不快な劣等感を抱いていた。けれど、何故かあいつは、私の親友きどりで…私はとても煩わしかったよ。その気持ちはあいつにも充分、伝わっていたと思うのに、奴は私に構うのをやめなかった。
そいつが、卒業式の日に、その本を手渡してきたんだ。よかったら感想を聞かしてくれないか、と言ってね。感想など、私から聞くつもりはなかったんだろうがな。奴は、その翌日には外国に行ってしまった。
もらった時には、腹を立てて、書棚の隅に追いやった本だったが、何故か捨てる気にはなれなかった。結局、私はあの本を何度も読み返した。仕事、結婚、お前の誕生……人生の転機には、何故か読みたくなった。私は、それらのことを完璧にしなくてはならないといった気負いを強く感じていたんだろう。だから、あえて、その本を自らの戒めのように読むようになっていった。決して、自分は、この国の人々のようにはなるまい…。巨木が倒れ、泥流に流されていった人々のようにはなるまいと。
事実は、否定のしようもない、まったくもって、そのモノだった訳だがな。ずっと、それは分かっていた。その事実を受け入れることが、恐かっただけだ」
「今も、まだ恐いですか?」
「ああ、まだ恐いね。けれど、お前がいい見本になってくれた」
「悪い見本でしょう」
「いや……」
僕と父は互いに苦笑を浮かべ合った。
僕は、父と繋がっている自分を、今はっきりと感じることができた。
それはとても単純な気持ちだった。
けれど、そんな単純なことができなかった、自分も含め僕達家族全員が、ひどく不器用な存在に映った。
そして、今になってみれば、僕はその事に、少しのおかしみを感じた。
「もしかして、本をくれた人って、相楽さんって人ですか?」
「っ、どうしてそれを?」
父の顔が、弾かれたように驚きに包まれた。
「お父さんが入院した日に届いたんです。ずっと持ってたんで、くたびれちゃってすみません」
僕はそう言って、胸元にしまっていた、あのハガキを取り出した。
そして、父の手の上にそっと乗せた。
しばらくその文面を凝視していた父の目に、みるみる涙が溢れてくるのを、僕は息を飲んで見つめた。
それ程までに、この人の存在が父の中で大きかったのだろうか。
「元気そうですね。この消印はどこなんだろう」
「………」
「お父さん?」
返事のない父を訝し気に見やった僕の視線に、気恥ずかしげに父は頬を伝った涙を手の甲でぬぐった。
「こんなこともあるんだな。最後まで、あいつは、私を気にしてくれていたという訳か」
「最後までって、どういう意味ですか?」
「猫が死んだ日の朝、私は友人から連絡をもらった。そして、彼から教えてもらったんだ。相楽が十年以上も前に死んでたってことをね」
「でも、じゃあこの葉書は?」
「不思議なことだが、私はそれ程驚いてはいないよ」
父の指先が、ハガキの表に書かれたリターンアドレスをゆっくりと辿る。
OTO SAGARA
相楽 乙。
”一掬いの水さえあれば、それで重畳。
世界はどこも暑いものだから。”




