11章 少年と父
玄関先には、ボストンバックに入った、父の着替えがきちんと用意されていた。
いつもと変わらず、午前中は図書館ですごした。
父がこんな容体になってからは、もう誰も僕の不登校に口を挟む者はいない。
半月程前に、担任の教師と電話で大検の話をしたら、それ以来学校からの電話も途絶えた。
別に学校に行く気がない訳ではないけれど、さして行く必要を感じていないのも正直な所だった。
その点、最近の世間は寛容になったものだと思う。
ドロップアウトした子供達を、大人達は手を変え品を換え、掬い上げようとしてくれる。
ホンネがどこか別の場所にあったとしても、建て前は尊重しても害はないだろう。
なのに、子供は残酷な程に感謝知らずだ。
僕も含めて。
大人が悪いと非難した所で、数年後には、自分も、その仲間入りだ。
誰にも頼らない生き方を望んでいながら、それが、結局、誰にも感謝しない無遠慮な生き方なんだってことに気付いていない。
僕は最近、感謝を覚えようと思っている。
そう、色々な感謝だ。
自身の自由より先に、ひとまずその気持ちを整理してみようと思っている。
やはり、そのきっかけになったのは、父の事故があったからかもしれない。
病院のベッドの上で、いつ目覚めるとも分からない長い眠りに、父が陥ってしまったことで、僕は、ただ待っているだけでは、何も始まらないのだということを悟らざるえなかった。
それでなくても、父からの言葉がいつ返されるのか分らないのだから、僕は自分で目的や意味……いや、そんな大層なものじゃない。
もっと簡単なこと。
そう、自分がどうしたいのかということを探さなければいけなくなった。
こんなこと、考えるまでもなく、当然のことだったのだけど、当然のことが、簡単じゃないのだから難しい。
そう思ってしまうのは僕一人の勝手な思い込みだろうか。
奥を覗くと、母が食堂のテーブルにつっぷして眠っていた。
いつもはきっちり襟元で束ねた長い黒髪が、頬にほつれかかっている。
最近、母はよくうたた寝をしている。
体の具合が悪いのだろうか。
一日中、家の中にこもっているのだから、そうなってもおかしくない。
病院に行くのも殆ど、息子の僕にまかせている。
会計の窓口で手続きをするのも、主治医の話を聞くのも、僕だ。
最初は怪訝な顔をしていた大人達が、母の具合がよくなくて、という、とりあえずの嘘に納得して、それ以上構うことはしなかった。
だから、そういうものなんだってことも、リアルに実感するしかなかった。
僕たちのことをどうにかできるのは、僕たちでしかないんだってことはあまりに明らかだった。
僕は……いや、僕たちは、諦めてはいけないということを知らなくてはならないんだ。
母の骨ばった肩に、そっと触れた。
とての薄く細い肩だった。
「母さん、病院に行ってくるけど、帰りに何か買ってくるものある?」
微かに身じろぎして、母の目が薄く開いた。
そして、怠惰を見咎められたとでも思ったのか、とても気まずげに、居住まいを正した。
「ごめんなさい。最近、うとうとすることが多くって」
「疲れているんだよ」
思いがけない言葉でも聞いたという風に、母の目が凝視してきた。
そんな風に返されると、これまでの不実を、こちらが苛まれた気になった。
けれど、そんなそぶりは見せないでおいた。
「何か、買ってくるものある?」
もう一度、ゆっくりと問いかける。
「あ、ああ、そうね。牛乳でも買ってきてもおうかしら。お豆腐と卵も。でも大丈夫?」
「何が? 買い物ぐらいしたことあるよ」
「そうね……」
まだ不審げな母の視線を背中に受けて、僕は表に出た。
帰ってきた時に見なかった郵便受けを覗くと、封書がいくつかと、ハガキが数枚まざっていた。
ダイレクトメールと振り込み関係。
玄関で待っていた母の手に、それを渡して僕は門を出た。
そんな僕を母が見送りについて出た。
「私も支度をしたら、後から行くわ」
僕はさぞ意外そうな顔をしたんだろう。
母の顔がはにかんだ少女のものになった。
「あなたにばかりまかしていたら、悪いものね」
「……父さん、喜ぶだろうね」
父はまだずっと目覚めていないのだが、僕はそんなことはあまり関係がないのだろうと、自然に思えた。
その目で見ることができなくても、きっと、互いの存在を感じることはできるに違いない。
そう、僕は思いたかった。
以前の自分なら、そんな風には考えられなかったかもしれないけれど、今、僕は、僕を見送りに外に出てきた母の様子に、それを信じられるような気がした。
どういった気持ちの変化か……少しのこそばったさも感じながら、僕は背中を向けて行きかけた。
その背に、母の声が再度かけられた。
「チェンナに会ったわ」
一瞬、母までおかしくなってしまったのかと、さぞ僕の顔が不安と恐れに包まれたのか、母は失笑に顔を覆い、僕の懸念を否定した。
「夢の中でよ。とても可愛いくてね、人間みたいに二本足で歩いて、なんでも自分でできるのよ」
僕は、一体どんな夢を見ているのだと、少しの呆れをもって母を見返した。
母がそんなに想像力が逞しい人間だったとは、思ってもいなかった。
「私、動物はあまり好きじゃなかったけど、一緒に家の中にいたからかしら、あの子だけは、なんだかとっても可愛かった」
「ふうん……」
そうとしか返せなかった。
そんな風に、正直に自分の感情を口にする母に出会ったのが、本当に久し振りだったので、僕はとっさにどう返したらいいのか分からなかった。
「お父さんを、許してあげてね」
母の、そのしんみりした物言いに、僕はふがいなくも、鼻の奥をつんとさせてしまった。
こんな不意打ちはなしにして欲しかった。
一晩明けたら夢だったならぬ、一晩明けたらそこがまるで夢の世界だ。
でも、何も急な話でもないのかもしれない。
母もきっと、何か思う所があったのだろう。
それが普通のことだ。
確かな現実として、父は家に帰らず、病院の白いベッドの上で眠ったままなんだから。
けれど、母のその言葉に、きちんと返せるようなゆとりは、今の僕にはまだなかった。
僕は、まだまだヒナ鳥だ。
きちんと胸の想いを口に出せた母を前にして、僕はそれを強く実感した。
母は、何もできない女性ではない。
今までも、今も、これからも。
母は僕の母である以前に、僕よりも、ずっと大人なんだ。
けれど、その事が完全な強さを意味するものではなく、彼女には彼女自身の手で育てあげた、僕なんかよりずっと大きな人生の樹を手に入れているということなんだろう。
僕は、鼻の奥の熱を我慢しながら、坂道を下っていた。
そうしながら、自然、シャツの胸ポケットに手がのびた。
その中にあるモノをそっと布の上から押さえる。
丁度、父が入院した日に、それは家のポストに届けられた。
夕暮れの砂漠を写した一枚の絵ハガキだった。
その表には、走り書きで父の名前がローマ字で書いてある。
どこの国かは、ぱっと見た限りでは分からなかった。
随分とくたびれた感のあるハガキだった。
一体どれ程遠くから海を渡って届けられたのか。
その右半分には、文字の青インクが少し滲んだ短い文章が添えられていた。
”……あの本は面白かったか?
あの本は君にあげた訳じゃない。
だから、小生が帰るまで、大事に預かっていてくれたまえ。
今日もとても暑いが、気分は上々。
一掬いの水さえあれば、それで重畳。
世界はどこも暑いものだから。”
その足で病院に辿り着いた僕に、すっかり顔なじみになった看護婦が駆け寄ってきた。
その顔が笑顔に溢れていたから、悪い話だとは思わなかったけれど、僕は一瞬、我が耳を疑った。
からかってそんなことを言ってる訳では、まさか、ないだろう。
けれど、医者からは、奇跡が起こらない限り、目を覚ますことはないだろうと言われていた。
事故で頭を強く打った父は、どんな刺激にも反応を返さない人間になっていたのだから。
「お父さん、さっき目が覚めたのよっ」
奇跡は、こんな思いもしない場所に転がっているものなんだと、僕はぼんやりと考えた。




