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チェンナの森  作者: 香_t
11/14

10章 少女と黒いモノ

 眠る私の横で、黒いモノがうずくまっていた。


 私は目を閉ざしていたので、それが見える筈はないだろうに、何故か私の心はそれの存在を捉えていた。

 実際の視覚とは別の所から、私はそれを見ているようだった。

 だから、私は、眠っている自分自身を感じることができた。


 私はそれが、人に近いものであることを察していた。

 なぜなら、その黒いモノはずっと何やら念仏のような繰り言を低く唱えていたからだ。

 聞きとりにくいその繰り言に、私は聞き耳をたてた。

 不思議なことに、私は、それに対して、もう恐怖心をかきたてられなかった。

 黒く無気味な存在であるけれども、私の心は、今は、それに対して強く引きつけられていた。


 一体、これは何だろう。

 そして、何を繰り返し言っているのだろう、と。


 黒いモノは両肩を前に落とし、胡座をかいているような姿だった。

 そう、年を重ねた一人の男の姿とそれは似ていた。

 それはとても疲れて、ふさぎ込んでいる様子だった。

 どこか、憐れを誘う感じでもあって、私は、もっと近くでその言葉とその息遣いに聞き耳を立てた。


 私はそのモノをもっとよく知りたかった。

 何が、言いたいのか。

 何を、誰に伝えたいのか。


 男の微かな唇の動きに、私は食い入るように魅入った。


「……あ、の、ね、こ……い、な、い……」


 ね、こ……猫?

 猫と言ったのかしら。

 猫なら、私も知っているわ。


「あ、の、猫、が、ひ、つ、よ、う、だ……」


 猫が、必要なのね。

 その猫の名前は何というの?

 もしかしたら、手伝ってあげることができるかもしれない。


「チェ……チェ……チェン……ナ」


 チェンナ?

 チェンナは、チェンナは、


『もう、死んでしまったのよ』


 不意に私は自分の声を聴いたように感じた。

 それは、心臓を跳ね上がらせる、少し無気味な興奮を私の内に引き起こした。

 私は、私の言葉が、男を傷つけていないか、恐る恐るその様子を伺った。


 けれど、そこにはもう男の姿はなかった。

 代わりに、薄暗がりで片膝を曲げうずくまっているオトの黒い姿があった。

 オトの手にした八角の太く長い鉄の棒が、闇の中の仄かな明かりに、鈍く反射していた。


 本当に、とても暗い場所だった。


 そして、私達を包み込むように、絶え間のない水の流れが聞こえてきた。

 細い流れが幾本も重なり合った音だった。

 あたりを強い湿気が覆っていた。

 それは冷たい湿めりだった。


 上着が欲しくなる程の肌寒さに、私は剥き出しの両の腕を手の平で擦り合わせた。


「もうここには戻ってはこないかもしれないと思っていたが、また来たね」


 夜語りをするような、静かでゆったりとしたオトの言葉が、私の方に投げ掛けられた。

 そういえば、チェンナはどこだろう。

 視線を四方にやったが、生憎、この暗闇では、すぐ傍にいるオトの姿しか見つけられなかった。

 何故だか、オトの回りだけが、螢の明かりを寄せ集めたように、仄白い明かりに包まれていた。


「チェンナは、どこ?」


 私の問いかけに、オトの口調に微かな笑気が込められた。


「困ったものだ。誰も彼もが、チェンナを欲しがる。どうしてかな……」


 私は少しの腹立ちをこめて、オトを睨み付けた。


「どうしてって……だって、私には、チェンナが必要なんだものっ」

「そうかな? そう、思い込んでいるだけなんじゃないのか?」

「なんでそんな分かったような事を言うの?」


 私の心が、微かな痛みを覚える。


「分かってないように振るまっているのは、お前の方じゃないのか? 本当は、お前には分かっている。あの黒いモノが間違っていることを、お前はきちんと分かっているだろう。それを自分の手でどうにかしようとしないで、お前までチェンナにどうにかしてもらおうとしてるんじゃないのか?」


 黒いモノ?

 さっきの……、


「さっき、ここにいたわ。黒いモノ。あれは、チェンナを探しにきた奴だわ。チェンナを連れにきたのよ。チェンナが連れていかれちゃうっ」


 私の不安をとりなすように、オトは軽く頷き返してくる。


「知っている。だから、困っているんだ。お前になら、どうにかすることができるのに、そうしてくれないことにもな」

「無理よ。だって、あの人にはもう誰の言葉も聞こえないのだもの。あの人は、もうチェンナしか見ていない」


 私の言葉が、私の思考より先に飛び出してきた。

 自分でも何を言っているのか分からなかった。

 まるで、黒いモノを、見知った人間ででもあるかのように、私がしゃべっていることが不思議だった。


 ぞれなのに、語る言葉に間違いがないということは分かった。


「あれはどうしてチェンナを欲しがる? それが分かれば、チェンナは必要なくなるんじゃないのか? だって、そうだろう。

 チェンナには実際問題何もできないんだから。チェンナはそこにいることしかできない。それに勝手な意味付けをしたのは、お前達の方だ」


 何故こんな風にオトに言われなければならないのか、外に表出している私にはその理由が分らなかった。

 だから無性に腹が立ってきた。

 私の気持ちなんて何も知らないくせに、頭ごなしに言うなんて、なんて情のない人なんだろうと憤慨した。


 けれど、内なる私が、はっきりとした自意識でもって、私の思考を捉えていた。

 そして私は、正しく、言葉を選んでいた。


「私がチェンナを必要なのは、あの人のためなんかじゃないわっ」


 やっぱり、「私」は、あの黒いモノが誰だか知っている……。


「なら、自分のためか? それを、身勝手と言うんだよ、娘さん」


 私が身勝手?

 私が?


 私の自意識が、オトのその言葉に興奮を覚えた。


「私は、ずっと我慢してきたわっ! ずっと、周りに合わせてきたわっ! 身勝手なことなんて一つもしてないわっ! 何も知らないで、どうしてそんなひどいことが言えるのっ!」


 オトの視線が、私を観察するように細くなった。

 それが、余計、冷酷な人のように彼を思わせた。


「チェンナ……チェンナはどこっ。チェンナに会わせて。会わせてっ」

「そこにいるだろう」


 振り返った瞬間、私は声にならない悲鳴をあげた。


 チェンナは、黒い壁の中に、飲み込まれて凍っていた。

 背中を丸くして、小さなチェンナは閉じ込められていた。

 その目は深く閉ざされ、まるで永遠の眠りに囚われた様子で、私を恐怖に包んだ。


「チェンナ、チェンナ、チェンナ! 何があったのっ? 一体、何がっ」


 そんな私の肩ごしに、オトが不意に接近してきて、眠ったチェンナの体に、私と同じように手を触れた。


「お前達が呼び続けるものだから、チェンナはこいつに飲み込まれてしまった」

「私達のせい?」


 オトは睨むでもなく、チェンナの周辺を覆うゴツゴツとした壁を掌でなぞった。


「知っているか? これがこの中有の森の主、『チェンナの樹』だ」


 私は驚愕に、その姿を捕らえようと頭を上へそらせた。

 けれど、闇色の空の先には何も見えなかった。


 先の辿れぬ闇。

 それは、虚空に飲み込まれる畏れに他ならなかった。

 なんて……巨大な樹だろう。


「チェンナの樹は、倒れてなくなってしまったんじゃないの?」


 問いかける私の横で、オトの口元に微かな笑みがこぼれた。


「あの話を知っているのか?」


 私の沈黙を返事のかわりとして、オトは先を続けた。


「昔、ここにチェンナの樹を神の樹とあがめる王国があったという話だろう。そして、それは一人の農夫の手により、切り倒された。一体、いつの頃の話か知らないが、ここは、記録されている歴史を遡った始まりから、ずっと冷たく湿った場所だったよ。この老爺木も、いくら高いとはいえ、隣国から臨める程じゃないし、実際問題、この樹は一本だけという訳ではない。ここはチェンナの樹海なんだから。

 ……神話の時代の夢物語りだよ。だが、何故か、この老爺木だけは、それを現実と履き違えていてね、時々、恐怖にかられるらしい。先日の落雷に余程心胆寒からしめたんだろう。本来の自分の役目を忘れて、現実のモノならぬ悪夢を自分自身で蘇らせては、それに打ち震えている。聞こえるか? 鍬先で樹の根を打つ音が。火薬玉で土を穿つ音が?」


 オトの言葉に、蛇のように絡み合う細い渓流の流れの向こうから響く、樹を何かで強く打ち叩く荒々しい物音を私の耳が捉えた。

 それまで、意識する程のものではなかったのに、急に、今はとても近くから聞こえてきた。


 その瞬間、今度は、大小あわせた破裂音が、突然空気を震わせた。

 それにせわしなく、首を巡らす私だったが、音の発生源はすぐには特定できなかった。


 けれど、気になる符丁だった。

 一人の農夫の手によって、倒されてしまったチェンナの神樹。

 この音は、まさしくその悪夢の再来だった。


 私は不安にかられ、オトに助けを求めるように、頬のそげたとげとげしいその顔を下から見上げた。

 そんな私に、オトは前を見据えたまま、風が吹き抜けるような掠れた声音で言葉を紡いだ。


「大丈夫だ。ここにあるモノは全て、直接的な影響力を我々に与えられるような存在ではない。ここに生じる異質なものは、全て、チェンナの樹の見る悪夢の産物だ」


 そう言って、オトはその場で大きく深呼吸を一度きりした。

 もう一方の手の内で、杖がわりにもっていた八角の鉄の棒が黒皮の手袋に擦れて、きゅっと音をたてた。


 樹を打ち叩く音が更に大きくなって、大気を怪しく震撼させた。

 それは、全ての恐怖をかりたてる音だった。


「おかげで、俺達はいい迷惑だよな、ヒルコ。本来なら、導き手になる筈のチェンナの老爺木がそうならないで、そればかりか、妙なモノを大量に吐き出してくれて」


 それにヒルコの存在が急に思い出され、私は落ち着きなくその存在を探した。

 その時、オトの足元から、小さな光の粒が、心細気に点滅しながら、一斉に上の方へと登り始めた。

 それは本当に螢のようだった。

 一つ一つは小さな存在なのに、それが群れとなると、辺りは、幻想的な光りに包まれ出した。


 そんな中、ヒルコの姿をやっと認めることができた。

 ヒルコは丁度オトの右手側で、黒い衣を頭からすっぽり被ったままの姿で、こちらに背中を向けて、『チェンナの老爺木』と紹介された樹の方に向かって、じっと首をうなだれたまま佇んでいた。

 こんなに近くにいたことに、そして、それなのに気付かなかったということに私は驚かされた。


「そろそろ、老爺木には、本来の役目に戻ってもらわなくてはな」


 ヒルコの頭が小さく頷きに動いた。

 彼女は、眼前で石のように眠ったままのチェンナをじっと凝視していた。

 悲しみとも苦しみとも分からない、いつもの無表情さで。


「……チェンナは、助かるの?」


 震えを隠せない私の囁きに、オトは小首を傾げるように私を見下ろした。

 彼の全身が仄白く輝いていた。

 それは、どこか高貴な畏れを感じさせる光りだった。


「本当を言えば、君に助けて欲しい。君は分かっているだろう。あの子が、本当に必要としているモノを。あの子は、もうチェンナを必要としてはいない。死んでしまったものは、もう、戻らないんだよ。けれど、全てが失われた訳ではない。こうして君達がここでチェンナを見つけたように、あの子の心は最初からチェンナを失っていない。その存在こそは失われてしまったけれど、チェンナが残してくれたものまでは失われてはいないんだ」


 オトの深い闇色の瞳が、私の心を強く縫い止めた。


「……けれど、あの人は、そう思っているの。あの子の手にチェンナを戻せば、元の形が取り戻せるって」

「元の形など取り戻さなくても、新しい形を築けばいいんだと言ってやればいい」

「そんな簡単なことじゃないわ」


 私の心が私の意識と錯綜する。


 私は、一体、誰?

 私は一体……。


 チェンナの戸惑った眼差しが私の記憶の中に蘇ってくる。

 私は、あの眼差しともっと別のどこかで出会ったことがあるから、チェンナを探していたの?

 だから、チャンナを愛していたの?


 いいえ……いいえ。


 私は、私の存在を無条件に受け入れてくれるチェンナの存在を愛していただけ。

 私を煩わすことなく、私の存在を僅かばかりにも頼りにしてくれていると思わせる存在に。


 僅かでよかった。

 過剰な想いは私には受け入れ難いことだった。

 私は全ての煩いとは無縁でいたかった。

 それが心地良いことだと信じていた。


 あなた達が、私を求めないのなら、私もあなた達を求めない。

 それでいいと思っていた。

 思えるようになっていった。


 私は、自分の両頬を流れ落ちる涙を止める手だてがなかった。

 どうして、こんなにも悲しいのか、分かってしまったから。

 私は、自分自身がこんなにも悲しんでいたことを、こんなにも、強く感じることができたから。


「お願い、チェンナを助けてあげて。チェンナは、もう死んだの。聞いて。そこにいるんでしょう? どれだけあなたが探しても、チェンナはもう戻らないのよ」


 オトとヒルコが、チェンナを越えて樹に語りかける私の姿を、じっと見守っているのを全身で感じた。


「誰かの代わりなんて、誰にもできやしない。分かっているんでしょう? だからあなたはチェンナを探しにきた。チェンナがいないと、あの子に許されないと思ったから。チェンナがいないと、壊れた世界が戻らないと思ったから。でも、壊れてよかったのよ。あんな世界、壊れてよかったの。私達には、新しい世界が作れるわ」


 私の手の平の内で、蠢くものがあった。

 それは、樹の幹の内からり出してくる、奇怪なモノだった。


 それは、黒い闇に沈んだ一人の人間の顔だった。


 男の顔だ。

 見える。

 はっきりと見える。

 そんなに若くない。

 ウサラおじさんよりは若そうだけど、それでもその疲れきった表情からはそれ以上の年を感じさせる。


 その口元が小さく震えた。


「樹が……倒れる……チェンナの…樹…が」


 顔に続いて、肩が、指先が、腕が表出し、それは、誰にも渡すまいと、チェンナの小さな体を両腕で包み込んでいた。

 その様を見て、オトがもう半歩前へ出た。

 ヒルコは、それこそが凶事の原因だとでも言わんばかりに、激しく睨み付けている。


「老爺木の悪夢に引きづられているのか? 樹は倒れない。倒れなかったんだ。聞こえるか、黒いの。チェンナの樹はまだここにちゃんとある。神の樹なんてもんは最初からないんだ」

「樹が…倒れる……倒れる」


 オトの手の平が、反射的にチェンナの樹の幹を激しく打ち据えた。


「倒れないっ! ここにあるのは、ただの無害な凡庸な樹達なんだよ。誰もそんな樹を遥か遠い国から切り倒しに来たりするものか! いい加減、それに気付けないのかっ!」


 オトの勢いに背中を押されたように、私の両手が、恐れることなくその黒いモノの顔を包み込んだ。


 それは哀れな男だった。

 ありもしない神樹を切り倒す者が、いつか現れると信じて怯える子供だった。


「可哀相な人……たった一つの完璧なものなんてないのよ。この世にそんなモノはないの。チェンナは諦めて下さい。その代わりに私があなたと一緒にいます。あなたと一緒に生きます」


 そう告げて、女の頬が、男の頬に重ねられた……。




 そして、紙に水がしみ込むように、私の胸は悲しみで一杯になった。


 愛しい哀しみで一杯になった。


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