9章 黒いモノ
中有の森へと続く道の上で、それは私達についてきていた。
ぺたぺたぺた……。
私達が止まれば止り、動き出せばまたついてくる。
泥道を素足で歩くような足音だった。
後ろからという風でもない。
音の出所を探して聞き耳をたてても、それは、後ろのようであり、前のようであり、横合いのようであり、といったひどく不確かな場所からの音だった。
それも一つではないようで、重なり合うように、幾つもの濡れた足音が、ずっとつきまとっていた。
”ここは別にどこといって変わったことのない場所だが、強いて他と違うとこをあげれば、時々死霊がうろつきまわるぐらいなものだな”
そう言ったオトは、私たちの数歩前を先導するように歩いている。
鼻の先も見えない程の暗闇の中でどうやって道標を見つけるのか不思議だが、彼の足取りには迷いがない。
背後からはヒルコの微かな息遣いが、細い蜘蛛の糸のような秘めやかさで首筋のあたりに伝わってくる。
私は、隣を歩いているチェンナのふかふかした手をずっと離せないでいた。
誰も、一言も話さない。
前を行くオトの手許で、ふっと明かりが灯った。
手近な枯れ枝に火を移したのか、オトの姿だけが暗闇の中に浮かび上がった。
足首までもある黒衣に身を包んだ彼の姿は、まるで、闇から現れ出た不吉な使者のように思われて、別の恐怖心を抱かせた。
火が灯ったことで、暗闇の内に白い靄が充満していることに気付かされた。
それを知った途端、自分の全身がたっぷりと水をすっていることにも気付かされた。
「今日はここで休憩しよう」
オトの提案に、誰も否やを言うものはいなかった。
昼過ぎに家を出てから夜も半ばまで、ずっと歩き通しだった。
どこをどう歩いているのかも分らない道では、気持ちの方も安らぐ筈がなかった。
「××、ここにお座りよ」
チェンナが小さな敷物をひいて、私を見上げてきた。
小さな炎に反射して、チェンナの灰色の毛並みにも無数の水滴がついていることが伺い知れた。
そして、やっぱり、チェンナが呼び掛ける私の名前は聞こえないままだった。
「気にすることはない」
私の心の不安を察したように、オトが腕に薪となる木の枝をたくさん抱えて声をかけてくる。
「お前の名前はここでは知られない方がいいんだから」
「どうして?」
細い枝を火種の内に敷きながら、拾ってきた太い薪をその周りに並べた。
そうして乾燥させてからでないと湿気を含んだ木は、煙りを出すばかりだ。
「名前で呼ばれると、ここに根付いてしまうだろう。そうすると、帰れなくなる」
「私は、ずっと、ここに……チェンナの傍にいたい」
隣合わせのチェンナの方を見やると、そこには長く柔らかい睫に縁取られたエメラルドの優し気な眼があった。
けれど、少し目尻がつり上がったドングリまなこに、少しの戸惑いが含まれていることにも気付かされた。
私は、チェンナを困らせている?
不安が野火のように、広がっていった。
「私の帰る場所なんかないよ。私、ここ以外知らない。チェンナの傍しか知らない」
鼻の奥がつんとなって、涙がこみあげてきそうになった。
「家で待ってればよかったっ」
今にも泣き出しそうな私の頬に、チェンナの柔らかな手がそっと触れてきた。
ずっと触れていて欲しい心地の良さだった。
「ボクとあそこに残っても、ボクは君に何もしてあげることはできないから」
言い訳と説得混じりの言葉だった。
だから、私の胸はもっと哀しみに押しつぶされそうになった。
チェンナにまで見放されたら、私の行き場はどこにもなくなってしまう……。
「チェンナだけ。チェンナは私といてくれるもの。ずっと、一緒にいてくれるもの。私を私として見てくれるもの。私にちゃんと話かけてくれるものっ」
「でも、ボクが君に返せるものは、ほんの僅かでしかないんだよ? ボクは覚えているよ。君がボクにどれ程の優しさを与えてくれたのか。ボクは、君に何も返せなかったのに、君はそんなことは全然気にせず、与えつづけてくれたでしょ?」
「何のこと?」
「ボクは覚えているよ。感謝知らずのボクを、君が一度もなじったりしなかったのを」
チェンナの瞳の深緑が、私の胸の内に、しみ込むように大きく広がっていった。
私はここではないどこかで、この瞳に出会ったことがある?
そう思える、何か、強い記憶が蘇ってきた。
けれど、それは胸を暖かくする懐かしさとは縁遠いものだった。
チェンナの思い出と一緒にひっぱられてくる冷たいモノの感触に、私は、故意に、記憶の糸を寸断していた。
「そんなこと……」
「……お前は「名無し」。お前がいると、チェンナが危ない目にあう」
その瞬間、ヒルコの棘を含んだ言葉が私を鞭打った。
けれど、もうそれに反論する元気が私には残されていなかった。
自分が何者か分らないことが、こんなにも自分を不確かな存在に落とすものなのかと打ちのめされる。
けれど、自分の記憶を取り戻すことが、あの冷たい空間に戻ることならば、私はこのままでいたかった。
「ヒルコ、あれがチェンナを追いかけてきたのは、その子のせいじゃないだろう。分かっているのに、ひっかき回すんじゃない」
オトに諌められ、ヒルコはそっぽを向いた。
その視線の先が闇の中に潜むものを探るように、険しく動く。
情のない言葉を吐こうとも、ヒルコがいつも「役目」をこなしていることを、そんな仕種の一つ一つに感じとり、私は、彼女に暗い劣等感を抱かずにはいられなかった。
ここでの私は、何もしていない存在なんだ。
なのに、そんな私をチェンナは受け入れてくれている。
だから、私はチェンナといることが心地よいのだろうか?
そうだとは思いたくなくても、そんな部分も全くないとは言いきれない自分がいる。
オトの手の中の小枝が、火種のあたりをまさぐった。
炎が一瞬ぱっと大きくなり、暗闇に火花を撒いた。
「まあ、あせることはない。なるようにしかならないのだから。元を正せば、チェンナの老爺木の不具合のせいで起ったことだ。もうすぐ、全てうまく収まるところに収まるさ」
いつもと口調を変えず、穏やかに話すオトだったが、それでも、その視線が、ヒルコと同じようにせわしなく周りを伺っていた。
何かが闇の中に潜んでいるのだろうか。
ずっと付きまとっていた足音は、今は聞こえなくなっていたけれど、周りの空気がどこか重い。
密に何かがひしめきあっているような感じがして、私の背中を何度目かの悪寒が駆けあがった。
「怖がることはない。火を焚いている限りは、この光の内には踏み込んでこないから」
そう言って、オトがこちらを見て目尻を緩ませた。
それに私は、チェンナの体に身を寄せた。
柔毛がとても優しくて、その温もりが、ささくれだった心の棘を溶かしていってくれるようだった。
それは確かな温かみだった。
そんな私の手に、そっとチェンナの指先が重なった。
私は、チェンナが私の不安を慰めるために、そうしてくれたのかと思ってほっとなりかけた。
けれど、その矢先、私の眼は驚愕に見開かれ、声にならぬ悲鳴を上げていた。
チェンナが私の手に送ってきた合図は、それを見て、私が驚いて声を発っさないようにとの、戒めの意味だったのだと、その時になって理解した。
チェンナのすぐ向こうの暗闇の中に潜むモノ。
大きさといい、感じといい、私はあの時のモノだとすぐ察した。
道の真ん中に佇んでいた、闇をくりぬいたような、あの黒いモノ。
それが、炎の明かりの輪のすぐ外に、黒い小岩のようにじっとうずくまっていた。
全てが闇色のそれは、どこが目か鼻か、そもそも顔があるのかどうかも知れなかったが、それでも、そのモノの意識がチェンナの方にじっと向けられていることだけは、はっきりと感じ取れた。
チェンナは、そんな怪には気付かぬように、じっと炎の揺らめきを見つめている。
それは、どこか毅然とした横顔だった。
恐怖の色は伺えない。
ただ、真直ぐ、何に妨げられることなく前を見ていた。
けれど、私はその黒い塊から目を離すことができなかった。
その瞬間、それは、急に私の眼前に迫った。
私の悲鳴は、掠れた音しかしなかった。
それは、氷をいきなり抱きかかえさせられたような恐怖だった。
一瞬だって目を離しはしなかった。
なのに、瞬き一つできなかった私の目の前に、それは突然現れた。
さっきまでいた場所には、もう痕跡すら残っていない。
息がかかりそうな距離で、私はチェンナを挟んで、その黒いのと顔を見合わせていた。
炭をぬたくったような黒い物体の中に、顔の痕跡を留める、更に暗い穴が二つと一つと一つ開いていた。
ちっ、とヒルコの舌打ちがその場に小さく響いた。
私は、また彼女の気に入らないことをしたってことだろうか。
けれど、そんなことをしている暇があったら、この状況をどうにかして欲しかった。
身動き一つできない状況で、私は黒いモノに迫られ、金縛りにあっていた。




