ある日世界から人間が消えた
――ある日世界から人間が消えた。
なんてことがあるわけなく、俺はいつものように仕事をしていた。会社に出社し、パソコンに向かって文字を打ち込んでいく単純作業。
「すまんが、これも頼むよ」
突如目の前に出現した書類。少し前の自分ならそれだけで驚いていた。しかし慣れとは怖いもので、俺はそれを受け取り「了解しました」とその書類を差し出したろう人物を見る。
いつものこげ茶のスーツに赤いネクタイ……上司の顔があるだろう場所へと目を向けた。――だが残念ながらそこには何もない。いや、実際はあるのかもしれないが、少なくとも俺には何も見えなかった。
見えるのは、スーツと靴だけだ。
「うむ。頼んだよ」
と、どこか偉そうに言って自分の席へと向かうスーツ……もとい上司を見送ることなく渡された書類を眺めれば、たくさんの数値が並んでいた。
これをまとめるのか。そう思うとげんなりする。
――ある日世界から人間が消えた。
なんてことがあるわけなく、ただ……俺の目は人間を映さなくなった。
それは唐突な出来事で、自分の姿すら見えなくなった俺の困惑と恐怖は、きっと誰にも伝わらないだろう。
だが不思議なことに、俺は今、普通に生活している。自身の姿すら見えないために、身体を洗ったり身だしなみを整えるのは大変だが、他に困ることは特にない。
上司はスーツの色や服の膨らみ具合、声で判別できるし、同僚たちはスーツの動きを見ていればだいたい誰が誰だかわかった。
分かってしまった後、彼らの顔を思い浮かべようとしたが、まったく思い出せなかった。
振り返ってみれば、誰かの顔を、目を見て話すということをしていなかった気がする。上司と会話する時は俯いていたし、同僚と会話する時も目を見て話した記憶がない。代わりとばかりにどうでもいい彼らの癖を覚えていた。
だから、彼らの姿が見えなくなっても特に困らなかった。むしろ、楽だった。楽だと、そう思ってしまったことに、胸がずくんと疼いた。
疼いたことに、気がつかなかったふりをする。
――ある日世界から人間を、消した。
なんてことがあるわけなく、俺は今日も生きている。
私、人の顔を覚えるのが苦手なんですが、普段よく話している人の顔を、思い浮かべようとして出来なかった、そのショックから生まれた話です。
あれだけ話しているのに、なんでっ? て。
深く考えてみると、私は相手をよく見ていなかった気がします。顔だけじゃない。その人そのものを、見てなかった。
そしてそれは、相手も同じなのではないか。
誰か一人でもいい。詳細に思い浮かべられる人がいる。それは、すごく幸せなことなんだろうなって。
家族の顔を思い浮かべながら、ちょっとしんみりした私でした。
2011・4・13修正(誤字ェ)