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【コミカライズ決定】【連載版】王太子でも聖女でも悪女でもなく、一番の策士が『剣術バカ(嘘)』の私の婚約者の件  作者: 千秋 颯@6/18「一途に溺愛されて~」アンソロ発売!
第五章 さよならに嘘の嘘を添えて

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第92話 勘弁して

「ゲホッ、ゴホ……ッ、…………あ、やべ」


 涙目で激しく咳き込んだヴィーは、自分が吹き出した水を顔に受けたアンセルム様に遅れて気付いた。


「あ、あのー、セル……アンセルムさん? 今のは本当にわざとじゃ」


 相手の様子を窺いながら、おずおずと弁明を始めたヴィーの話の途中。

 眼鏡の奥でアンセルム様の視線が鋭くヴィーを射抜いた。


 彼は静かな怒りを顔に浮かべながら、ヴィーの顔面に掴み掛かる。


「ぎゃーッ!! いだだだだっ、痛い痛い痛い!」

「あ、アンセルム様! 一応病人ですから……」


 こめかみの血管を片手で顔面を掴まれたヴィーが情けない悲鳴を上げた。

 水を吹き出す瞬間、私から顔を背けたヴィーの動きは見方によっては敢えてアンセルム様の顔に水を吹きかけたようにも見えなくはなかったが、流石に不可抗力だろうと私は考える。


 とはいえ、侯爵令息の顔面に伯爵令息が水を吹き出したという事実は怒りを買って当然の事でもある。

 アンセルム様の心中を察しながらも、私は彼を宥める為に一先ず濡れた顔をハンカチで拭い始めた。


「……失敬。つい」


 私の存在を思い出した彼はハッと我に返ると、ヴィーの顔から手を離す。

 顔を拭っていたハンカチを差し出せば、彼は礼を述べて受け取り、それで顔や眼鏡を拭き始めた。


「わ、悪かったって……」


 ヴィーの謝罪に対して、アンセルム様は鼻を鳴らし、明確な返事はしない。

 代わりに彼は私へ視線を移して話題を元に戻す。


「そんな事よりも、ニコレット嬢。薬の効果は一日二日で切れるとの事ですし、特に何かをする必要はないかと」

「そ、そーだ! そもそもあんな話、誰から吹き込まれたんだ」

「あ、あんな話……? 普通に、アンセルム様と一緒に先生に報告をした時に……。惚れ薬の効果を早く取り除きたいのなら、相手を満足させてあげればいいと」


 私は当時の会話の詳細をヴィーに話す。

 途中から場の空気が何とも言えない微妙なものになっていた事には気付いていたが、思い当たる節もなかったので、私は気まずさを感じながらも説明を続けた。


 話し終わった頃。

 ヴィーは困り果てたように両手で顔を覆い、長い溜息を吐く。

 それから両手をずらして目元だけを覗かせると、じとりと恨みがましそうにアンセルム様を睨め付けた。


「…………セル」

「……これについては悪かった。だが、俺から話す方が問題だろう」


 アンセルム様がバツが悪そうに小さく両手を上げる。

 私はというと、二人が何の話をしているのかがよく分からず、首を傾げるしかなかった。


「あー……ニコル?」

「何?」


 大きな咳払いをしてから、ヴィーが私を見る。


「セルの言う通り、ニコルが何かする必要はねーよ。昨日より楽になって来てるしさ」

「でも」

「ニコル」


 ヴィーが私の両肩に手を置く。

 何度も首を横に振る彼は笑顔だったが、どこか圧を感じる顔だった。

 その気迫に負けて、私は思わず頷きを返す。


「わ、わかったわ……」

「よし……っと、うわ、もう夜じゃん」


 気がつけば、窓の外では日はすっかり沈んでいた。


「本当ね。あまり長居しても申し訳ないし、そろそろ帰りましょうか」

「そうですね」

「わざわざありがとな。来てくれて」

「いいえ。巻き込んでしまって本当にごめんなさい」

「いーってば。てか、俺が驚かせたせいもあるし、お互い様って事で」


 ヴィーはいつものように無邪気に笑う。

 そして、何故か徐にベッドから離れようとした。


「……って、ちょっと。何してるの」

「何って、見送りを……」

「おい、病人は大人しくしてろ」

「大袈裟だなぁ。ドアの前くらいまで、全然平気だって」


 ヴィーが同行者を見送りたがるのは今に始まった事ではない。

 家の訪問は勿論、共に外出した帰りになども同じ馬車に乗る事ができる時は必ず私を先に送る事ができるよう、ヴィーの家から馬車を用意される。


 後ろの用事の都合でそれぞれの家の馬車で帰らないといけない時であっても、自分の家の馬車が先に来ていたとしても必ず私の馬車を待ってから見送るのだ。


 以前そこまで気を遣わなくていいと話した事はあるが、その時のヴィーの返答は「自分がしたくてしてるだけ」「寂しいから少しでも長くいたい」といったものだった。


 その時の答えが婚約者思いの人間像を維持する為の返答だったのか本心だったのかまでは定かではないが、当時の事を思い出した私は、もしかしたら今のヴィーは心細いのかもしれないと思った。


 体調を崩した際、心細く感じるという経験は私にもある。

 だからこそ、もしかしたら彼もそうなのかもと思ったし、そうであるなら少しでも彼の寂しさを埋めてあげたいと思った。


「ヴィー」


 ベッド脇に立ったヴィーを止めるように、私は彼に抱きついた。


「ん、な…………っ」

「これで我慢して」


 彼の胸に顔を埋めれば、壊れそうな程に激しい鼓動が聞こえる。

 彼は問題ないと言っていたが、やはり苦しいのだろう。

 余計に安静にさせたいと言う思いが強まる。


 顔を上げれば、案の定……というか、何故か先ほどまでよりも真っ赤になったヴィーの顔があった。


「さっきよりも顔だって赤いわ。それに、凄く熱いし」


 ヴィーの顔を両手で挟み、しっかりと彼の目を見て言い聞かせる。


「きちんと休んで? でなければ心配で私も帰るに帰れないわ」

「ん゛……っ、~~~~っま、ず……っ」


 きちんと私の話は届いているのやら。

 ヴィーは何かに耐えるように眉根をきつく寄せて顔を顰めると、私を軽く押しやるようにしてすぐに離れた。


「…………わ、かった」


 頷いた彼の視線は私ではなく、何故か不自然なほど下へ――それこそ、自身の爪先を見る程直下へ向けられていて、その表情を窺う事は出来なくなっていた。

 かと思えば、直後、彼は目にも留まらぬ速さでベッドの中へ引き返していく。


 滑り込むようにして布団の中へ潜った彼は顔までも隠してしまいながら、片手だけを出して私達へ振る。


「じゃ、またなー」

「え、ええ」


 変わり身の早さに拍子抜けし、隣に立っていたアンセルム様を見る。

 すると彼は何故か肩を竦めてヴィーへ憐れむような視線を向けているのだった。




 私達が廊下へ出ると、待機していたベルナール様の姿があった。

 彼は口を片手で押さえながら小さく震えており、目尻には涙を溜めている。

 今にも吹き出しそうな笑いを何とか堪えているといった様子は、日頃穏やかで余裕のある印象がある日頃のベルナール様の印象とは異なっていた。


「……ベルナール様」

「いや、すまない。流石に我が弟が愉快……いえ、憐れだなと……っ、く、ブフッ」


 物言いたげなアンセルム様と、悪びれもなく笑っているベルナール様。

 二人の様子がおかしい事には気付いていたが……今の私の意識は正直、別の方へ傾いていた。


「それにしても……ニコレット様は随分とご機嫌がよさそうで」

「そ、そうでしょうか」

「……ええ。俺の目からもそう見えますよ」


 ベルナール様に促されて歩き始めた時、不意に二人から指摘を受けて、私は面食らう。

 それから頬に触れてみるけれど、自分ではよくわからなかった。


 ただ、思い当たる節はある。


(……嫌われてなかった)


 真っ赤な顔で取り乱す婚約者の姿を思い描けば、愛しさがこみ上げる。

 すると今度は、触れていた頬が大きく緩んだのがよくわかった。


 私は思わず笑ってしまいながらベルナール様とアンセルム様の後に続くのだった。



***



 廊下から人の気配が遠ざかったのを確認してから、ヴィクトルは布団から顔を出す。

 困惑、苦渋、苦笑。

 見事な百面相を披露した彼は、横になったままそっと布団の中を確認し、途方に暮れ、それから――大きく深い溜息を吐いた。


「~~~っんとに、勘弁してくれぇ…………ッ」


 別れる直前、至近距離から自分を覗き込む婚約者の顔。

 ニコレットは無自覚だっただろうが、隠しきれない気恥ずかしさから僅かに紅潮した顔は今のヴィクトルにはあまりにも刺激が強かった。


 普段の何倍も愛おしく感じてしまう婚約者に心を乱されたヴィクトルは強い焦りと大きな羞恥に苛まれ、真っ赤な顔を両手で覆いながら呻く事しか出来ないのであった。

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