第21話 隠された仮面の下
物心ついた頃から、ヴィクトルは自身の感情ではなく他者の望みに順応出来る性格を偽って生きて来た。
だからヴィクトルは気付けば分からなくなっていた。
今自分が抱いている感情が自分の『本質』なのか、それとも自らで精巧に偽った『仮面』なのか。
別にそれに対して不安に思ったり、虚しさを覚えたりはしなかった。
だって、その仮面は自分自身の感情をも制御できる代物だった。
自分が最善を尽くすにあたって障害とならない範囲の最適な感情。それを本物だと自分自身に刷り込ませ、欺くことができたから。
ただ、この感覚はやがて狂い始めた。
幼くして社交界に顔を出した日。
複数の上位貴族によって一人の下級貴族が虐められているのを見て真っ先に飛び出していった少女がいた。
彼女は侯爵家の子供。
下級貴族に恩を売ったって、何か得をする訳でもない。
一方で彼女が対峙した上位貴族の中には、政界で彼女の家以上の影響力を持つ者達だっていた。
彼女達を敵に回す方が、どう考えても厄介である。
ならば幼子特有の、ただの無鉄砲な考えなしなのか。
その説は……何度か彼女を観察していく内に崩れ去った。
彼女は当時の年齢を考えれば寧ろ周りよりも聡明な少女だった。
頭が切れ、大人相手にも冷静に対応できるはずの侯爵令嬢。
しかしながら、合理的ではない選択を当然のように下す。
そんな、ヴィクトルからすれば全く考えられないような行動ばかりする彼女の事が、いつの間にか気になっていた。
損得勘定で人を見ない。
平気で弱者に手を差し伸べ、優しく笑いかける、貴族らしからぬ性格の持ち主。
そんな彼女を目で追うようになる内、ヴィクトルは想定外の感情を抱くようになる。
彼女なら……自分の仮面を見破ってくれるだろうか。
薄っぺらな合理主義の人間を受け入れてくれるのだろうか。
自分でもわからなくなってしまった『自分自身』を――彼女なら見つけてくれるだろうか。
要は彼女が多くの者に向けるその眼差しを、自分も欲してしまった訳である。
こうしてヴィクトルは両親にリヴァロル侯爵家の御令嬢との婚約を提言した。
どこまでも可愛げなく、論理的な説得だった。
お陰で両親はすんなり頷いたし、リヴァロル侯爵家を頷かせる為の提案をしておいたことも功を奏したのか、相手方からも承諾の報せが届いた。
こうして……婚約締結後。
初めましてを装って行われたニコレットとの茶会で、ヴィクトルは自分が理解していたニコレットの魅力を、彼女の機嫌を取れるよう当たり障りない言葉に変換して話し続けた。
我ながら、同い年の女の子に淡い恋心を寄せる、初心な少年を演じられていたと思う。
しかし。
「まぁ、嬉しいわ! こんなに熱烈な言葉をくれる様な人が私の婚約者だなんて!」
途中まで戸惑ったり、恥ずかしそうにはにかんていた彼女は急に……年相応の少女らしくはしゃぎだした。
そうしてヴィクトルを見据える紫の瞳が、こう言っていた。
『ほら、期待通りの反応をしてあげたわよ』
今にして思えば、彼女は舐められていると感じて憤っていたのかもしれない。
けれどこの時のヴィクトルは、初めて自分の『仮面』が誰かに気付かれたという事が……
――どうしようもなく嬉しかったのだ。
***
(きっと、気付けなくなっていただけで、俺は……ずっと寂しかったんだろうな)
ヴィクトルは、ニコレットと向き合いながら過去を思い出していた。
彼女がヴィクトルの仮面を明確に見抜いたのはこれで二度目だった。
――バレてしまったのであればもういっそ、全て明かしてしまおうか。
一瞬彼の内で過ったその感情はすぐに霧散した。
まず、自分自身ですらわかり切っていない感情をどうすれば晒せるのかが分からない。
それに偽って来た自分を全て取っ払った時、自分に何が残るのか……自分がどうなるのかを想像できない事に確かな抵抗感があった。
そして、偽るものを失った自分自身が彼女に拒絶されたら。
それが何よりも一番怖かった。
初めは仮面の下をわかってくれる人を欲していたはずなのに、ニコレットと長い時を過ごす内、その気持ちは変化していったのだ。
仮面の下に隠れているものの全貌はまだわからない。
(けれど……君を想う気持ちが本物だという事だけは、信じられる)
だからこそ唯一分かっているこの部分が拒絶される事に、ヴィクトルは酷く怯えている。
これまで本心を織り交ぜて接する事はあっても、一切の芝居を抜いた姿をニコレットに見せた事はない。
それどころか……物心ついた頃から、そんな事をした事はない。
だからこそ、その未知が酷く恐ろしいのだ。
新しい選択をする事で、これまでの関係が崩れてしまうかもしれない。
その恐怖から目を逸らす事が出来るならば、不確定な選択は取りたくない。
『気付いて欲しい』『受け入れて欲しい』という気持ちと、『このままでいさせて欲しい』という矛盾したような想いがヴィクトルの中でせめぎ合っていた。
(本当に……君といると、感情が全く制御できない)
ニコレットへの強すぎる想いを抱えている今、口を開けば余計な事を口走ってしまいそうだった。
だからヴィクトルは、彼女の呼び掛けに短い返事一つ返せない。
ただ、ニコレットの言葉を待つ事しかできなかった。
ニコレットもまた、何と声を掛ければよいのかと迷っている。
口を何度か開いては閉じ、言葉が出ず視線を落とし……そうして数分が経過した。
ニコレットが深く息を吸う気配がある。
その息遣いは僅かに震えていた。
「……お手を」
「手?」
ニコレットはヴィクトルへ手を差し出す。
「今宵、この場で催されているのは仮面舞踏会。体裁も身分も気にせず、誰もが一刹那を興ずることを許された場です」
紫色の瞳がヴィクトルを映して揺れている。
「何を隠そうと、晒そうと……偽ろうと。その全てが真実として享受される場です」
『どんな姿を晒そうとも、全てを受け入れられるだろう』
ヴィクトルは、彼女がそう言っていると解釈した。
仮面舞踏会という絶好の隠れ蓑を利用すればよいと。
「元よりこの場限りの関係を前提とした催しです。……この場で晒す私達の顔もまた、今夜限りのもの。そう思えば……少しは、気が楽にはなりませんか」
ニコレットは手を差し出したまま、ヴィクトルとの距離を縮める。
「どうか、わたくしをダンスにお誘いいただけませんか。……名も知らぬ、紳士様」
――今夜限りのもの。
彼女が発した言葉は随分とヴィクトルの気を楽にした。
この場でどんな風に振る舞おうとも、『仮面舞踏会に偶然居合わせた赤の他人』として、ニコレットは片付けてくれるつもりなのだ。
ならば、今日くらい。
今くらい……
(――仮面を外しても、許されるんじゃないか)
僅かな期待が、ヴィクトルを突き動かす。
震える息遣いで彼は深呼吸をした。
「名も知らぬご令嬢」
そうして、差し出されていたニコレットの手を優しく掬い上げる。
彼の顔から……笑みは消えていた。
「どうか俺と、踊ってはいただけませんか」
「……喜んで」
ニコレットは仮面の下で目を細め、ヴィクトルの手を握り締める。
室内から聞こえる曲に合わせ、二人はゆっくりと動き始めるのだった。
これは特別な魔法。
自分の素顔すら忘れてしまった愚かな道化をただの少年に戻す
――今宵限りの、特別な魔法だ。




